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電子足跡:会津西街道歩き旅
 中三依宿から会津田島宿へ
  山王峠を越えて会津に入る道


プロローグ

このページは会津西街道(会津側では下野街道、南山通りとも)を中三依宿から会津田島宿まで歩いたページです。

この区間は山に挟まれた道を歩き、山王峠を越えて栃木県から福島県南会津に入る道です。山王峠は中央分水嶺で太平洋側から日本海側に入る道でもあります。

イザベラバードは明治11年(1878年)6月26日 前日宿泊した五十里宿から田島の手前の川島宿まで進んでいます。
日本奥地紀行では日光に逗留していたイザベラバードは所持していた地図を研究して、『私は田島に行く』 と決め ”田島” を目指し、途中の横川宿と川島宿 の光景が細かく描かれています。日本奥地紀行に描かれた光景をその地で想像してみる事が出来る道です。

都道府県 区間 歩いた日 GPS
移動距離
備考
栃木/福島 中三依温泉駅-会津田島駅 2021年06月12日 30.9km



↑GoogleMapと地理院地図にGPSログと写真がマッピングされた地図が開きます
GPSログをGoogleEarthでツアーする方法
カシミール3D  国土地理院
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)


中三依宿
 

中三依宿は男鹿川と入山沢が合流する所に開けた宿場です。山間のこじんまりとした街並みが印象的です。




会津西街道は男鹿川に沿って続いています。なにも観光地化されていない渓谷を見ながら歩く事ができます。


上三依地区

中三依宿の家並みを過ぎて暫く進むと大面地区,上三依地区に小さな集落があります。
付近にあった墓石が 卵塔 なので会津西街道が成立する以前からここで人々が暮らし続けているのだろうと感じました。ネット情報によると卵塔は鎌倉時代以後に多く作られる様になったとの事です。


不動滝
上三依地区を過ぎて更に進むと道の脇に不動滝が見えます。地理院地図に掲載されている滝です。
滝から聞こえる爽やかな音と吹き上げて来るそよ風が汗ばんだ身体に心地良いです。


横川宿
 


横川一里塚
横川宿へは横川一里塚を越えて進みます。
説明版にはには 南山通り 横川一里塚 と書かれています。
南山通りは会津西街道の別称で、会津から見ると南側の山間の地に街道が続いているから南山通りと言われたのではないかと思います。他にも会津側から見ると下野の国に行く街道なので下野街道とも呼ばれていました。

会津藩横川関所跡
横川宿の入口に関所跡があります。と言っても神社の境内になっているのでそれらしい遺構がある訳ではありません。
ここが会津と下野の境界地だった場所という事なのでしょう。

日本奥地紀行の記述
さて、イザベラバードは前日 五十里宿に宿泊し好天のなかを進み、横川宿の街路で昼食を摂っています。その姿を見るために村人のほぼ全員が集まって来たと書いています。それも最初は子供たちはビックリして逃げ出し、親の裾につかまりながらオズオズと集まってきて、イザベラが顔を向けるたびに、また逃げ出すという風だったと書いています。驚く事に村人達はイザベラが旅立つまで2時間も集まっていたと書いています。そしてイザベラが見た村人達は不潔でむさくるしく、親と同じように、虫に喰われ、税金の為に貧窮の生活を送る運命にあるのだろうとも書いています。

明治11年(1878年) 明治になりようやく幕藩体制から新しい時代に向かい始めた日本の地方の情景が手に取る様に描かれています。日本奥地紀行には文字でしか描写されていない訳ですが、当時の村人達の姿を活き活きと想像する事ができます。

横川宿の家並み

この家並みの何処かでイザベラバードが昼食を摂ったと想像すると、茅葺屋根の家屋が連なりそこに村人達が大勢集まってイザベラバードを遠巻きに見ている光景が浮かんできます。

インターネットの 福島県の街並みと歴史建築>大内宿>横川宿 の記述によると江戸時代に入り会津西街道の宿場として整備されると32軒の宿場として整備されたと書かれています。GoogleMapの衛星画像を見ると現在でも30~40軒程の家屋が確認できます。以前は大家族制で一軒に複数家族で暮らしていた訳ですので人口は数百人位だったのではないかと思います。その大半の村人達が集まって来たら、さぞかし不思議というか異様な光景だった事と思います。

写真左:宿場内にあった馬頭観音
写真右:宝篋印塔
 安土桃山時代と推定され、地名の由来となった三依姫の供養塔と言われている。


上の写真の馬頭観音を拡大すると人の頭の上に馬の顔が乗っています。まさに文字通り馬頭観音で説明版が無くても馬頭観音と分かります。

山王峠

昼食を摂り終わったイザベラバードは長い山路を登り山王峠に向かって進んで行きます。山王峠からは 『山々や渓谷のすばらし眺めがあった。』 と書いています。

旧街道は通行止めでした。
地図にには山王峠の前後に旧街道と思われるつづら折りの道が記載されています。
ですが 崩落の危険がある為 車は勿論 歩行者の通行も禁止されていました。
歩いて歩けなくはない様な気もしましたが、お代官様のいう事を無視して事故があると多くの方達に迷惑をかけるので国道121号線のトンネルを通って会津に抜けました。


トンネルを越えると福島県南会津です。


山王峠は中央分水嶺
日本奥地紀行には峠を越えた付近の地図は空白だが、イザベラの考えでは『さきに越えた峠は分水界であって、それから先の川は、太平洋に向かうのではなく、日本海に注ぐのであると思われた。この推量は当たっていた。』と書かれています。
山王峠付近に降った一粒の雨は、峠を境に栃木県側は 男鹿川-鬼怒川-利根川 を通り太平洋に、福島県側に降った雨は 山王川-阿賀野川 を通って日本海に注いでいます。分水嶺を通ると、最初は一粒の雨に思いを馳せ、そして流れる川を思い起こし、最後は海に囲まれた日本列島を俯瞰するイメージが膨らみます。

阿賀野川

阿賀野川は会津盆地と新潟平野に豊かな稔をもたらす大河です。
会津地方を通り、越後山脈の山塊のなかをくぐり、越後平野を流れ、新潟市の東側、新潟空港付近で日本海に注ぐ川です。
その始りはここ山王川と荒海川が合流するこの地点です。写真左から流れる川が山王川、右側が荒海川です。

糸沢宿
 

イザベラバードは糸沢まで来たところで、乗っていた馬がひどく躓(つまず)く様になり、ここで馬を降りて歩きで進んだと書いています。
現在の糸沢宿の家並みはあまり特徴のない田舎の家並みが続いていますが、糸沢宿には本陣の建物が残っています。

糸沢宿本陣(阿久津家)
問屋や名主なども務めた家柄で、本陣職のみならず豪農・豪商としての側面も持っていたそうです。間口16間半、奥行き9間の建物でかつては母屋の回りに6棟の蔵が建っていたとの事です。
よくは確認しませんでしたが受付などが見当たらなかったので公開はしていないようです。


川島宿
 

川島宿は宿場内を国道121号線が通った為か昔の家並みは失われています。
明治になり宿場制度が廃止された以後は経済的に発展する事なく宿場としては衰退したとの事です。

歩いて川島宿まで来たイザベラバードは疲れ果てて川島宿に宿泊しています。
日本奥地紀行には『川島宿は57戸のみじめな村であった。』と書き、宿泊した旅籠の状況をかなり詳しく記載しています。
宿泊した旅籠はかなりひどく、息も詰まるほど暗くて煙っぽく、ヒリヒリする竈の煙が家屋内に充満し、垂木は煤と湿気で黒光りしている。下水の臭気が漂い胸がむかむかしたと書いています。そして、食事は米もなければ醤油もなく、黒豆とキュウリの煮たものだけだったとも書いています。
ただ、旅籠の主人はとても礼儀正しく、イザベラに近づく時は必ず膝をついたままだったと書いています。

イザベラが川島宿に宿泊した日は田植えが終わったお祭りで、米作り農家の神である稲荷に多くの供物があげられ、村人達は一晩中飲んで浮かれ、社の太鼓音や太鼓を叩いて歩きまわる音が続いて眠る事が出来なかったとも書いています。



宿の亭主の小さな男の子が、ひどい咳で苦しんでいたので、イザベラはクロロダインを数粒飲ませたら苦しみが和らぎ、その話が宿場内に広がり翌朝5時頃には、むさくるしく、汚らしい着物を着たほとんどの村人が集まってきたと書いています。
集まった人達は 皮膚病、やけど、たむし、目が見えなくなった人、腫物、虫刺され、眼炎、単なる野次馬 と多様な病気の人達で、イザベラはその光景を ”痛ましい光景” と表現しています。
このエピソードの他にも数ページに渡って当時のこの地方の衣食住について記述していますがここでは紹介しきれないなので省略します。

おそらく、この時代の多くの土地で同じような光景が広がっていたのだと思います。
日本奥地紀行に書かれている事はわずか150年ほど前のことです。

田島宿
 

会津田島は比較的大きな町で、今市や鬼怒川温泉を通って以来久しぶりに大きな町に来たという感じがします。
会津田島は会津西街道と尾瀬を通り群馬県沼田に続く沼田街道の分岐点で交通の要所として栄えました。また長沼氏の居城鴫山城があり城下町としての側面も持った宿場でした。明治時代には南会津郡役所が置かれ南会津地方の中心地として栄えました。
イザベラバードは田島宿に関して 『昔、大名が住んでいたところで、日本の町としてはたいそう美しい。』 と書いています。

その田島に入る前に 会津田島岩 の前を通ります。
剥き出しのかなり大きな岩塊です。地表から5m~10m位が浸食されてえぐれた状態になっています。そばに阿賀野川が流れているのでかつてはかなり水量も多く急流だったのだと思います。
現在はロッククライミングの練習場になっていて、若い人達が数人クライミングの練習をしていました。


会津田島岩を過ぎるとこれまで北北東に進んでいた道は東に曲がり田島の市街地に入ります。

旧南会津郡役所
明治18年(1885年)落成。
元々は隣の田島合同庁舎の所にあった建物を昭和45年に曳家して今の場所に移築されたものだそうです。
明治18年落成なので明治11年に田島を訪れたイザベラバードが来た時はまだ建設されていなかったことになります。もしイザベラバードがその当時にこの建物を見たらどんな感想を持つだろうと思います。



今日は 会津田島駅前の駐車場に車を置いたので駅まで歩いて本日の行動は終わりです。

エピローグ
 


歩いている途中、上三依塩原温泉駅付近の道路標識に、右に曲がると 那須塩原 と書いてありました。
ここで初めて右側の山脈の向こう側は那須・塩原なのかと認識しました。
そこで有名な温泉地である塩原で温泉に入ろうと思い、田島からは戻る事になりますが、今日は塩原温泉で風呂に入る事にしました。

塩原温泉華の湯
内風呂と露天風呂があります。
泉質は癖のない無色透明な温泉でした。
効能は筋肉・関節の痛みに効果ありと書かれていました。歩きの後には嬉しい効能です。


END 

2021年8月20日作成

Column


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