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電子足跡:会津西街道歩き旅
今市宿から藤原宿へ 鬼怒川温泉を通る道

プロローグ

会津西街道(会津側では下野街道、南山通りとも)を日光街道との追分がある今市宿から鬼怒川温泉を通り龍王峡手前の藤原宿まで歩いたページです。

イザベラバードは明治11年(1878年)6月24日に日光を出立し藤原宿までこの道を歩いています。

この道は日光街道や日光例幣使街道と同じように、今市宿を越えて大谷川を越えた付近から杉並木が始り、途中途切れますが約3.5kmの区間に杉並が残る道です。
杉並木が終わり、しばらく進んで高徳宿の手前で鬼怒川の深い渓谷が平野部に出る付近で鬼怒川を渡ります。そこからは鬼怒川に沿って進みます。
鬼怒川河岸には良く耳にする 日光江戸村、東武ワールドスクウェア、鬼怒川温泉などがあります。旧街道の雰囲気は希薄ですが鬼怒川の渓谷美を堪能しながら歩く事ができます。


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都道府県 区間 歩いた日 GPS
移動距離
備考
栃木県 下今市駅-龍王峡駅 2021年06月9日 19km

↑GoogleMapと地理院地図にGPSログと写真がマッピングされた地図が開きます GPSログをGoogleEarthでツアーする方法

会津西街道 今市宿から藤原宿ルート地図
カシミール3D  国土地理院
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)


今市宿

旅のスタート地点 今市宿は日光街道、日光例幣使街道、会津西街道と三つの街道の結節点の宿場です。
鉄道路線はJR日光線今市駅、東武日光線下今市駅と上今市駅、下今市駅は東武鬼怒川線の駅でもあります。日光東照宮が控えているのでアクセスが良い場所です。
日光街道や例幣使街道沿いには杉並木が続いていますが市街地は宿場の雰囲気は希薄です。

会津西街道追分
市街地の日光街道(国道119号線)を日光方面に向かって進み、アズマヤさんというお菓子屋さんの所が会津西街道の追分です。



日光連山
ほどなく大谷川に架かる大谷橋から日光連山が良く見えます。
左から 男体山(2486m) 大真名子山(2375m) 小真名子山(2323m)  女峰山(2483m) 赤薙山(2010m) 


日光杉並木
大谷川を渡り、大谷向駅前を過ぎて暫くすると杉並木が始まります。途切れる所もありますが大桑駅付近まで約3.5km続いています。
杉に気を取られていると見落としてしまいそうですが、杉並木の側溝には清流と言っても良いような奇麗な水が流れていました。





大桑宿


杉並木が続く旧街道を歩き続けて北上していると、右に直角に曲がる場所に出ます。この付近で杉並木は途切れて大桑宿の家並みに入ります。大桑宿は大きな枡形の様な道筋の所にありますが宿場の雰囲気は希薄です。

杉並木寄進碑
石碑には松平正綱公が杉並木を寄進した事が記されているらしいのですが私には読めませんでした。
説明版には
日光東照宮の手前大谷川に架かる神橋付近と、日光街道(山口地区)、日光例幣使街道(小倉地区)、そしてここ会津西街道(大桑地区)の四か所に建っていると書いてあります。

寄進碑の付近で今度は左に曲がり北上します。この付近は板穴川、砥川が鬼怒川に合流する地点です。

イザベラ・バードが通った道について

会津西街道のトップページに、この道を歩くきっかけはイザベラ・バードが歩いた道だったからと書きました。ここまでイザベラ・バードに触れていないのはイザベラ・バードは日光からここまでは会津西街道を通っていないと思われるからです。

「日本奥地紀行」の記述をひろうと、日光の金谷家(現 金谷ホテル)に9日滞在した後に日光を出立しています。
『私たちは日光のすばらしい社殿や荘厳な杉の森を後にして、長くて清潔な街路を下っていった。そして日光街道の杉の茂みが最も深いところで左に曲がり、小川の川床のような道に入った。(中略)日光山の末端の低い山を一つ越えてから、渓谷の中の曲がり道を進んだ。(中略)三時間ほどのろのろ進んで行ってから、小百という田んぼの谷間の端にある山村で馬から下りた。』と書かれています。

”小百” という地名は現在もあるので、イザベラは鉢石宿を通り、今市宿に入る前に左(北)に曲がり大谷川を越えて大谷川の対岸の丘陵の中を進んで小百に行ったと考えられます。
地理院地形図を見ると 『日光山の末端の低い山を一つ越えて』 という記述は大谷川の河岸段丘を登った ”所野” 付近の事を言っている様に思われますし、『渓谷の中の曲がり道を進んだ。』という記述は ”大笹沢” の事を言っている様に思えます。
そして現在は小百小学校が建っている付近まで来たと思われます。いずれにしてもイザベラは今市宿は通らず、従って会津西街道を通らないで進んで来たと思われます。

更に、小百からどの様に進んだのかに関しては、
『・・・。小百からの道路は深い森の山あいの不規則な草深い谷間を通っていた。 (中略) しかし小佐越(注1)を離れると、景色が変わってきた。険しい岩だらけの道を行くと鬼怒川に出た。(中略)かなり高所に橋がかけてあり、(中略)こわいほど急な曲線を描いていた。そこから高い山々の景色がすばらしい。その中に二荒山(注2)があり、・・・』と書かれています。

”小佐越” ”鬼怒川” ”二荒山” は現在もある地名ですが、地理院地図に ”小佐越”と書かれている付近(日光江戸村の少し北)からは二荒山は見えないので記述と現在の地形とが一致しないので、記述を間違えたのか、明治の頃はもっと広い範囲を小佐越と言っていたのかは分かりませんが、大桑宿付近か高徳宿手前の鬼怒川付近に来たと思われます。この付近からでしたら二荒山は良く見えます。

大桑宿の東外れ付近から見た日光連山


また、会津西街道は幕末からは下記の中岩橋を渡るルートが本道になっていたというインターネット上の記述もありましたし、昭和6年発行の大日本帝国陸軍測量部発行の日光の地図は現在の中岩橋渡る会津西街道が描かれています。
これらから、イザベラ・バードはここまでは会津西街道を通らず裏道を通って来たと思われます。


注:本文に書いた内容は日本奥地紀行に書かれている内容から筆者が推測した内容であり、文献調査などをした内容ではありません。
注1:原文には Kisagoi と書かれています。
注2:男体山の別称。

高徳宿

上流から続く鬼怒川の深い渓谷が平野部に出会う所に中岩橋が架かっています。
中岩橋を渡ると直ぐに高徳宿です。

鬼怒川を渡る 中岩橋上から撮影
鬼怒川カントリークラブの近くを歩き中岩橋を渡って鬼怒川を越えます。川の色が緑色なのが印象的です。

ほどなく高徳宿の家並みになります。
高徳宿も宿場の雰囲気は希薄です。
道路標識には鬼怒川6km。県道121 会津西街道 会津田島64km と書かれています。

大原宿

大原宿付近から関東の奥座敷と言われる鬼怒川温泉になります。鬼怒川の河岸に高度経済成長期に建てられたと思われる大きな温泉施設に目を奪われ大原宿付近と思われる場所の写真を撮り忘れてしまいました。

それにしても、こんなに大規模な温泉・宿泊施設が幾つも立ち並んで営業していても経営が成り立っていた時代があったという事が信じられない感じがします。
慰安旅行がどれだけ多く開催され、どれだけ多くの人達が参加したのかと思うと今昔の感があります。


Wikipediaによると、鬼怒川温泉はかつては滝温泉と呼ばれ元禄4年(1691年)に西岸で源泉が発見されたのが始りで、宝暦元年(1751年)に日光奉行の管轄になったことから、日光詣の大名や僧侶達のみが利用可能な温泉だったそうです。明治になって一般に解放され、明治2年に藤原温泉が発見され、その後上流に五十里ダムが出来て鬼怒川の水位が下がると新しい源泉が次々と発見され、昭和2年(1927年)に滝温泉と藤原温泉を合わせて鬼怒川温泉と呼ぶようになったという事です。

日本奥地紀行には上記の様な事情で鬼怒川温泉は当時は普通に利用される温泉ではなかった為か、温泉に関する記述はありませんが、鬼怒川の風景の描写は何行にも渡ってかなり細かく描かれています。一部を紹介します。
『・・・、流れは斑岩の壁に堰きとめられて荒れ狂い、あるいは静かな藍緑色の水を湛えて、桃色や緑色の大きな石板の上にひろがっていた。日光をあびてきらきら輝き、あるいは川の上に虹がかかり、あるいは深い木蔭の淵となって静かに澱むさまは、いづれも常に美しかった。・・・』

その当時は上流にダムが無かったので今よりも水量が多く流れも急だった事が伺えます。

藤原宿


戊辰戦争の痕跡
途中に ”弾除けの松二世” と ”鬼怒川戊辰街道” と書かれた石柱がありました。
”弾除けの松二世”は新政府軍の佐賀藩陣地から発射されたアームストロング砲の榴弾から大松に身を隠した会津兵を守ったという言い伝えがあるとの事です。一代目の大松は台風で倒れたので今は二代目が植えられているそうです。

日光東照宮は幕府軍が立て籠もり徹底交戦する構えだった訳ですが、説明版には新政府軍の板垣退助や大鳥圭介らの努力で日光山の戦火は回避され、新政府軍は会津に通じるこの道を進軍して行ったと書かれていました。
もし、そのとき戦いを回避していなければ現代の我々は日光東照宮を今の姿で見る事が出来なかったという事になります。

さて、イザベラ・バードと通訳の伊藤は11時間かけて18マイル(約29km)進み藤原宿に着きました。
イザベラは道中に見た鬼怒川の清冽な流れや草木の新緑が光り輝く風景を絶賛しています。
反面、蚤の大群が巣くう畳、蜘蛛の巣が掛かる垂木など、家屋のみすぼらしさに辟易とし、食事も黴臭いご飯と、黴臭いお茶、日にちを経た卵と貧しい食事で、人々の衣服の不潔さ、裸同然の身なりに驚きを隠しきれない記述が目立ちます。
通訳の伊藤も『こんなところが日本にあるとは思わなかった。』『こんな場所を外国人に見せるのは恥ずかしい』と日本人でも驚くほどひどい状態だったと描写されています。しかし、『人々は辛抱強く働いており、晩にも仕事がある。』と人々の勤勉・実直さを描写している一文もあります。

夜になり、大雨が降ってきて雨漏りが激しく、簡易ベッドをあちこちに移動して雨漏りを避け続け、伊藤も蚤の大群で夜も眠られず朝を迎えます。

私は藤原宿から少し北上した龍王峡駅まで歩いて初日の歩きは終わりました。

エピローグ

イザベラ・バードが 栃木県日光→小百→藤原宿 の区間を歩いたのは明治11年(1878年)6月24日です。
私が歩いたのは6月9日ですので気候的には近い季節です。
私の場合はまだ梅雨入りしていませんでしたので、快晴で日差しが強くて暑い状態でした。
イザベラバードが歩いた時の天候に関しては、この日の記述に『6月のすばらしい陽光のなかで、あたりの景色はとても美しかった。』と書いているのでかなり日差しが強かったのではないかと思います。ですが、暑くて大変だったという記述は一行もありません。

私が旧街道を歩いた経験からなのですが、樹木のなかの日影になっている土の道は暑くないと言ったら嘘になりますが、時々涼しい風も吹き抜け、日差しを遮るものの無いアスファルトの道を歩くのとは随分と暑さが違います。
アスファルトの道は車で通行する分には大変快適ですし、私もその恩恵を受ける事は多々ありますが、こと歩くという事になると様相が全く異なります。

引用した日本奥地紀行の文章は全て
日本奥地紀行 イザベラ・バード 高梨健吉訳 平凡社 からの引用です。

END 

2021年7月17日作成

Column


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