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電子足跡:会津西街道歩き旅
藤原宿から中三依宿へ 龍王峡を歩く
プロローグ
このページは会津西街道(会津側では下野街道、南山通りとも)を藤原宿から龍王峡を通り五十里湖を越えて中三依宿まで歩いたページです。イザベラバードは明治11年(1878年)6月25日に藤原宿から五十里宿まで進んでいます。
この区間のルートは高原新田宿(川治温泉)の上流に五十里ダムが出来た為に五十里宿を含めて旧街道が湖底に沈んだ区間があります。
今はイザベラバードが見た昔の風景を見る事は出来ませんが、小鳥のさえずりが聞こえる五十里湖の深く静かな緑色の湖面が美しかったです。
また、私が歩く前日に駅に置いてあったパンフレットをみたら、会津西街道より下側に龍王峡に沿って遊歩道が整備されている事が分かった為、旧街道を歩く事をコンセプトにしているホームページですが遊歩道の方がより風景が楽しめると思ったので途中まで遊歩道を歩きました。
日光市観光協会作成のハイキングマップが開きます。
(http://www.nikko-kankou.org/spot/42/)
龍王峡ハイキングマップ (別ウインドウでPDFファイルが開きます)
龍王峡ハイキングコース主な見どころ (同上)
都道府県 | 区間 | 歩いた日 | GPS 移動距離 |
備考 |
栃木県 | 龍王峡駅-中三依温泉駅 | 2021年06月10日 | 21.7km |
↑GoogleMapと地理院地図にGPSログと写真がマッピングされた地図が開きます |
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GPSログをGoogleEarthでツアーする方法 | |
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)
龍王峡
龍王峡ハイキングコースは龍王峡駅から川治温泉 駅名で言うと川治湯元駅まで鬼怒川に沿っておよそ6km続いている遊歩道です。そのうちの約半分の白岩半島と言われている鬼怒川が大きく蛇行している所まで遊歩道を歩きました。龍王峡駅から鬼怒川に向かって下りてすぐの所に 虹見の滝があります。
遊歩道は木の根や岩で歩き難い所はありますが、良く整備されていて危険と思う様な場所はありませんでした。
白岩半島の付け根の所に会津西街道(国道121号線)に登る道があるのでそこを登って本来のルートに戻りました。
木陰の中に会津西街道が続いています。眼下には龍王峡が見えています。
おそらくこの付近だと思いますが イザベラバードは『水かさを増した鬼怒川は下の方で大きな音を立てていた。』『高田山の突出部を越えた。峠は2100フィート(約640m)の高さで、よく工夫されたジグザグ道が通っていた。』と書いています。
”高田山の突出部”というのが何処なのか分かりませんが、もしかしたら白岩半島の事かもしれません。当時も写真の様な風景が広がっていたのだと思います。それにしても緑が深い風景です。
高原新田宿(川治温泉)
木陰の中の快い道を暫く進むと、山に囲まれた川治温泉が見えてきます。
高原新田宿に着いたイザベラは
『・・・、きれいな顔をした娘たちの群れは全て逃げ出したが、彼らの年長者に伊藤(通訳)から話をして、まもなく呼びもどして来た。』と書いています。
伊藤の説明では『彼女達はまだ外国人を見たことがないのです。しかし、ひとから外国人が少女たちに対していかに不作法であるかという話を聞いて、とてもこわがっているのです』という説明を受けます。
僅か150年前の田舎の人達、と言っても日本の大半の地域の人達ですが、外国人を初めて見た時の反応が描かれています。
路傍の石仏
温泉地として再開発したときにこの場所に集められたのではないかと思います。
いろいろな姿をした石仏が集まっている一角がありました。
右の石仏は寄り添って昼寝をしている様にみえます。
イザベラがきた頃は川治温泉は湯治場で、『ここは温泉で、傷や腫れ物に苦しむ人々が大勢湯治に来るところである。湯は川の傍らあり、粗末な階段を下りていった底にある。露天風呂で、たくさんの男女が湯に入っていた・・・』と書いています。
河原に露天風呂があるだけの鄙びた湯治場だった感じが伝わってきます。
高原新田宿で荷物を運ぶ為の馬を一頭やとって、現在は五十里ダムが出来ているので歩けませんが男鹿川の東岸に続いていた会津西街道を通って、男鹿川の上流5マイル(約8km)先の五十里(いかり)宿に向かいました。
その風景を2ページに渡って描写して、『私は、日本でこれ以上に美しい場所をみることはできないだろうと思う。』と書いています。
五十里湖(いかり)湖岸の道
現在は五十里湖の西岸に新しい道が出来ています。イザベラが絶賛した美しい風景は見る事は出来ませんが、木々の間から見える五十里湖の湖水は深い緑色で美しい風景だと思います。
この湖面の下に会津西街道が通っていました。多くの旅人が馬子が、そして新政府軍の兵士が、会津を去る事になった会津藩士がイザベラバードが、かつて歩いた道は湖水の底です。
五十里湖に架かる海尻橋を渡って西岸から東岸に行きます。
通行止め区間がありました
橋を渡って少し先から落石の危険があるため1.2kmの区間が通行止めになっていました。
通行止め区間の手前に蕎麦屋さんがあったので道の状況を確認しました。『車は無理だけど、歩くのであれば歩けなくはないです。けど緊急車両も入る事が出来ないので何かあっても助ける事は出来ません。』との事でした。
少し行ってみて危険なら戻ろうと思って先に進みました。
途中に大きな岩が落ちていたのと、ガードレールが埋まるくらい沢から土砂が流れ出ていた場所がありましたが、歩く事は出来ました。
注:道路の状況は日々変わると思います。大雨の時やその後は特に危険な状態になる可能性が高いので、事前に状況を確認して判断して下さいますようお願いします。
長念寺
道から少し斜面を登った所にあります。説明版には元々は湖底に消えた五十里村にあったお寺で、ダムを作るときにお墓と共に移転したようです。有形文化財になっている木造阿弥陀如来坐像が安置されているとの事です。下草が刈られているので子孫の方達がお墓と共に守っているのだと思います。
五十里海渡り大橋東詰にあった数軒の民家。現代は民宿や食堂をやっているようですが、かつてはどうやって生計を立てていたのだろうか?と疑問に思いました。
それにしても、人里離れ、燐家も数軒しかない場所での生活ってどんな生活なのだろうと思います。
五十里(いかり)宿
五十里宿は日本橋から50里の地点にあったので五十里という地名になったとの事です。現在は五十里湖の湖底に沈んだ宿場です。
昭和11年に発行された 川治の地図を見ると五十里湖の湖尻付近の西側に五十里と書かれた集落があります。学校記号も書いてあるのでそれなりに大きな集落でそこが五十里宿だったのだと思います。
かつては男鹿川の東側を歩いて川を遡り、五十里宿の手前で川を渡って五十里宿に入ったのだと思います。
写真は大塩沢橋から対岸(西側)を見た写真です。対岸の少し平らになっている付近が宿場だったのではないかと思います。
日本奥地紀行には、
『広い谷間に下ってゆくと、静かな渓流は物騒がしく流れる鬼怒川と合流する。さらに1マイル進めば、この山間の美しい部落に出る。戸数は25軒で、男鹿川という谷川の傍らにある。』 『五十里の部落は山の傾斜地に集まっており、その街路は短く原始的に見えるが、雨が晴れて明るく輝くときには、その暖かい茶色と灰色の風景は実に魅力的である。私が泊まった場所はこの宿駅の本陣で、丘の上にある。』 『昔、近くの大名は江戸に行く途中にここで泊まるのが常であったから、大名の間と呼ばれる客座敷が二つある。』 以後本陣の建物や表具などの描写が続いています。
そして、そこに暮らす人は愚鈍で無感動の様に感じ、食事に関しては粗末と感じています。しかし、『一般に百姓たちは不満のなさそうな顔をしている。』とも書いています。
独鈷沢
五十里湖を過ぎて、流れ込む男鹿川を遡って行きます。途中に ”独鈷沢” という不思議な地名の所を通ります。調べたら ”独鈷” は密教で用いる法具の事で、 よく見るのはお寺の山門の金剛力士像が手に持っている短い棒の様な仏具の事だそうです。
地名の由来
弘法大師空海がこの地を通ったとき、のどが渇き道端の家の老婆に水を一杯所望したところ、なかなか老婆が帰って来ない。その当時この地は水に乏しく、老婆は曲がった腰を伸ばしながら男鹿川の谷底に降りて清らかで冷たい水をくんで空海に差し上げたそうです。
老婆の真心に感じ入った空海は、村人達が谷底に降りて水を汲まなくても良い様に、持っていた 独鈷 の先で台地を付き刺して、コンコンと湧き出す清水を作ったとの事です。
上記は、このページを書くためにインターネットを調べて書いたのですが、当日私はここを歩いているとき、強い日差しでかなり辛い状態でした。
道端に ”独鈷沢わさび園” という看板が掲げられている家があったので、許可を頂いてベランダで休ませて頂きました。そのとき、ご主人が私が持っていたペットボトルに水を入れて持って来てくれました。一口飲むと冷たく清冽な水で、暑さと疲れが引いて行くのを感じました。ご主人がおっしゃるには、その水は井戸水だそうで、なるほど旨いはずです。
暑い時に歩いていると、日影と一杯の水ほど有難いものはありません。水は生きる事の象徴だと思います。ご主人とは30分くらい色々なお話をしながら休ませて頂きました。
1000年以上前に弘法大師に冷たい水を差し上げた村人の心が今も息づいていると思える経験でした。
その節は大変お世話になりました。冷たい井戸水は大変美味しく有難かったです。
独鈷沢わさび園
わさびの栽培、ワサビ漬け製造・直販をしているそうです。
中三依宿
独鈷沢の集落を過ぎると30分ほどで中三依宿になります。
もともとは上三依、中三依、下三依と3地区で宿場を形成していたとの事です。
上記の独鈷沢は下三依とも呼ばれていたそうです。
今でも山間の細長い静かな佇まいの家並みが続いています。
今日は中三依温泉駅に車を置いていたので駅まで歩いて、今日の歩きは終わりです。
駅のそばに 中三依温泉センター男鹿の湯 という温泉施設があったので入浴しました。キャンプ場も併設していて家族連れや友人達が10組程キャンプしていました。
温泉は広めの浴槽がひとつでこじんまりしていましたが、それ程熱くはなく鄙びた温泉という感じの良い雰囲気でした。
エピローグ
龍王峡の遊歩道を歩きました。渓谷を歩くのは久しぶりな感じがします。渓谷美を楽しむ事が出来て良い道でした。イザベラバードが宿泊した五十里宿は湖底に沈んでいましたが、それを残念に思っても仕方のない事。五十里湖が出来て新しい風景を見る事ができました。もし現在の風景をイザベラバードが見たらなんて表現するのだろうか?と想像するのも楽しいと思います。
END
2021年7月27日作成
Column
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