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電子足跡:会津西街道歩き旅
 会津田島宿から大内宿へ
  大内宿は江戸時代です


プロローグ

このページは会津西街道(会津側では下野街道、南山通りとも)を会津田島宿から阿賀野川を渡り大内宿まで歩いたページです。

イザベラバードは明治11年(1878年)6月27日 前日宿泊した『57戸のみじめな村』の川島宿を出立し田島宿で馬を替えて大内宿を目指して進んでいます。
イザベラは大内宿を 『村は山に囲まれた美しい谷間の中にあった。』と書いています。現在の大内宿は 重要伝統的建造物群保存地区 に指定されていて、イザベラが見た江戸時代さながらの茅葺屋根が連なり、ほぼ当時のままと思える家並みが続き、タイムスリップしたのではないかと思える景観が残っています。

会津西街道は会津長野付近で阿賀野川を渡り、会津鉄道の路線も会津西街道から離れた所を通っています。交通の便が悪くなるので鉄道を使って歩くには少々不便です。
鉄道路線が会津西街道のルートから離れた所を通った事によって、大内宿の景観が保存されたという事なので多少の不便さには目をつむって江戸時代そのままと思える景観を楽しむ事にしたいと思います。

私は車中泊をしながら旧街道を歩くのですが、今日は大内宿の北の外れにある無料の駐車場に車を置きました。そこから湯野上温泉駅を経由して会津下郷に行く路線バスが出ているのでバスで湯野上温泉駅まで行き、湯野上温泉駅で会津鉄道に乗り換えて会津田島駅まで行って歩き始めました。


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都道府県 区間 歩いた日 GPS
移動距離
備考
福島 会津田島駅-大内宿
*大内宿宿泊または大内宿からバスで会津鉄道湯野上温泉駅へ
2021年07月02日 22.4km

↑GoogleMapと地理院地図にGPSログと写真がマッピングされた地図が開きます GPSログをGoogleEarthでツアーする方法
カシミール3D  国土地理院
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)


会津田島宿

会津田島は市街地の南側の山に鴫山城があったので、商業地・宿場に加えて城下町としての側面もありました。現在でも7月下旬に会津田島祇園祭りが開催されて、裃を着た市民や角隠しを付けた40人前後の花嫁が市内を歩く、七行器行列(ななほかいぎょうれつ)や屋台歌舞伎などが有名です。
残念ながら市街は宿場の雰囲気は希薄ですが、それでも宿場町を彷彿とさせる建物が残っています。


上の右側の写真の建物に 美濃屋(本) と書かれた看板が掲げられていました。 (本)って、もしかしたら本陣だった場所なのかと思ってネットを調べましたが、結局分からずじまいでした。
もしかしたら(本)って 本家 の事なのかなとも思えます。

田部原一里塚


阿賀野川の支流 水無川を渡ると田島宿から離れたという感じがします。
丁度、水無川に架かる会津鉄道の鉄橋を3両編成の列車が渡って行きました。

水無川の東岸の坂を登りきった所に 田部原一里塚があります。
会津西街道が整備された寛文7年(1667年)頃に築造された一里塚です。
この歩き旅のゴール会津若松城下の大町四つ角から数えて12番目の一里塚です。
あと約48km歩かないとゴールしません。


金刀比羅神社

歩いていると神社には幾度となく出会います。全ての神社に参拝する訳にもいかないので、多くの場合は通り過ぎるのですが、「この山の中に金刀比羅神社?」と思ったので足を止めました。金刀比羅神社は海上守護の神様として信仰されているので違和感を持った次第です。
推測ですが当時は阿賀野川の水運が盛んだった事とこの地から少し下流は舟渡しだったので水運の安全を祈願したのかなと思いました。

長野の渡し

かつては会津西街道は 南会津町長野下川原 付近で阿賀野川を渡る舟渡しがありました。当然現在は舟渡しは無いので、長野橋を渡って北岸に行きました。



写真左:会津長野の南岸から下川原付近を望む
写真右:阿賀野川を渡った北岸から下川原付近を望む


地形を見ると北岸は切り立った崖が迫り、南岸は段丘涯と言うべきか自然堤防と言うべきか分かりませんが河川敷より一段高くなった土地が続いています。
かつては川幅も広く、今は水田になっている場所もかつては河川敷で大雨のたびに濁流が流れていたのではないかと容易に想像ができます。

イザベラバードは長野の渡しについて、
『平底舟で川を渡った、川の両岸には、木がしっかりと打ち込んであり、藤蔓を何本も結びあわせた太綱を支えている。一人は両手を使って綱をたぐり、一人は船尾で棹をさす。あとは流れの速い川がやってくれる。』と書いています。
明治になっても橋は無く、渡しで川を越えた事が分かります。

参考
下の写真は北国街道を歩いたとき長野市内から丹波島宿に行く途中の犀川に架かる丹波島橋の欄干に埋め込まれていたレリーフです。
犀川も江戸時代は渡しで川に張られたロープを頼りに川を渡っていました。
イザベラバードが書いた渡しの風景はこんな感じだったのだと思います。


楢原宿

阿賀野川を渡って北岸に来ると川岸から急峻な崖がそそり立っています。
現代は崖を切り開いて国道121号線が通っていますが、江戸時代ではこの急峻な崖に道をつけるのは困難だったと想像できます。


崖の下の国道121号線を歩いて八幡橋まで来ると崖は終わり少し開けた土地に出ます。楢原宿はその土地の北側にあります。


へいほう石
街道筋から少し畑の方に行った公園の中にありました。
寛永の頃 楢原宿に怪力の持ち主 玄蕃 という者が住んで居たのですが、玄蕃が出稼ぎ先から帰る途中、河原で丸石を2個見つけ、お手玉をしながら村に帰って来たと由来のある石です。
お手玉をしたというのは眉唾な気がしますが、この石は江戸時代から明治頃まで盛んに行われた力試しの石 ”力石” ではないかと思います。

 参考 神田柳森神社の力石群
千代田区神田須田町にある柳森神社にある力石群

人里離れた山道

楢原宿の北の外れに来ると、会津西街道は国道121号線から離れて山の中の道になります。大内宿までは倉谷宿、中山集落、沼山集落があるくらいです。
いつも思う事ですが、往時の旅人達はこの様な人里離れた山道を歩く時に怖くなかったのかな?とか不安を感じなかったのかな?と思います。現在ではこの様な山道を歩くと人に会う事は稀ですし、見渡す限り人家が無いといのはかなり不安を感じます。
そうは言いながら、人里離れた旧街道は当時のままの雰囲気が感じられて風情があります。

雷神社と書かれた石柱を左に進むと会津西街道です。



写真左:八幡峠     写真右:矢の原一里塚跡


倉谷宿

倉谷宿は戸石川に沿って開けた山間の小さな集落です。山道を歩いて来て人家が見えるとホッとします。宿場の雰囲気は無いのですが山に囲まれて、ひっそりとした落ち着いた佇まいの家並みです。と言うか、昼時で皆さん家の中に居たのか倉谷宿を歩いている時に誰にも会いませんでした。




道標
宿場はずれのこの地点から谷から山に向かって行く所に建っていました。
左、戸石??   右、若松柳津 と読めました。
地理院地図を見ると戸石川の上流に 戸石 という地名が見えます。 若松は会津若松の事と思いますし、柳津は会津若松の西の只見川沿いにある柳津の事だと思います。


ところでこの道標は 地理院地図に ”水抜” と書かれた地区にありました。
水沢とか水落とかの地名は聞いた事がありますが、 水抜 は初めて聞きました。
地名の由来は分かりませんでしたが、昔 土砂災害を防ぐ為に水抜きをしたのかな?とか、中山峠に登る途中に ”高倉山湧水(長寿の水)” があるのでその湧き水と関係がある地名なのかな? などと想像が膨らみます。

高倉山湧水(長寿の水)

上記の道標の所からまた山道になります。県道131号線が大内宿に向かって通じているのですが、旧会津西街道はかなりの距離 県道131号線のそばに残っています。街道歩きが趣味の私にとっては堪らなく魅力的な道です。


坂の途中の丁度休みたいと思う場所に湧いています。水量が豊富で冷たい湧き水でした。いつから沸いているのか分かりませんが昔往来した旅人達もこの湧き水で喉を潤したのではないかと思います。


中山峠

高倉山湧水の脇から会津西街道が続いています。所々に道標が在るので安心して歩けました。
おそらくですが、道幅や地面を少し掘りこんだ様な道筋は昔のままなのだと思います。
草も伸びていなくて歩きやすい道でした。


中山峠付近


中山集落

中山集落の手前でアスファルトの道に戻ります。 と、ポツンと一軒家がありました。


中山の大ケヤキ(八幡のケヤキ)
説明板には 樹齢950年 樹高36m と書かれています。
さらに説明版には、天貴3年(1055年)八幡太郎義家が、陸奥国の豪族安部貞任を討伐に向かう時、険路で難渋しこの地の二宮太郎兵衛宅で休息したとき、尾岐村に行く脇道を教えてもらい無事進軍する事が出来て安部貞任軍に勝利する事が出来たので、お礼のしるしに庭先にケヤキを植えたという由来があると書かれていました。
伝承が史実かどうかは分かりませんが、鎌倉幕府が成立する100年以上前に、この道は奥州に繋がる道のひとつとして存在していたと言う逸話です。

大内宿への未舗装の道

中山集落を過ぎて暫くアスファルトの道を進むと、旧街道に入る道標があります。
立派な造りの道標で見落とす事はないと思います。石積で出来た説明版には下野街道(会津西街道)の説明が書いてありましたが、文字が消えていて読めませんでしたが、下野街道(会津西街道)のみならず付近の街道と宿場の地図が描かれていていました。まだ私が知らない様な街道が随分とあるものだと思いました。

←クリックすると大きな画像が開きます。

この道標から大内宿の手前の県道329号線に出会うまで3km弱ほぼ未舗装の山道です。


馬頭観音
なんの前触れもなく突然現れます。
他の街道でも馬頭観音は何回もみましたが、ここまで大きな馬頭観音はそう出会いません。

沼山石畳跡
剥がれた敷石が散乱していますが、かつては石畳の道だった痕跡が残っています。


大内宿南一里塚
山間の道が終わると少し開けた田畑の中の道を進みます。
県道329号線に出会う手前に大内宿南一里塚があります。
ここまで来ると大内宿まではあと少しです。


大内宿






イザベラバード宿泊 美濃屋
イザベラバードは明治11年(1878年)6月27日に大内宿に宿泊しています。
日本奥地紀行には 『私は大内村の農家に泊まった。この家は蚕部屋と郵便局、運送所と大名の宿所を一緒にした屋敷であった。村は山に囲まれた美しい谷間の中にあった。』と書いています。この記述に相当する家は美濃屋なのでイザベラバードは美濃屋に宿泊したと推定されています。

本陣跡
大内宿は戊辰戦争で戦場になった事もあり、本陣の図面や記録が散失し残っていない為、現在も残っている糸沢宿本陣(阿久津家)や記録が残っている川島宿の本陣を参考に復元された建物です。建物は大内宿街並み展示館として公開されており中の展示品を見る事ができます。


高遠そば=ネギそば
大内宿は高遠そばが名物です。
ネギそばは見た通りねぎが一本丸ごと添えられ、ネギは薬味であると同時に箸の代わりにネギにそばをからめて食べるのでその名があります。味は野趣というか野味というか普段食べるソバより癖があり土地に根ざした味という感じでした。
そのネギなのですが、普通に刻んだネギと違い、かじる毎に辛さが増してとんでもなく辛かったです。
それでは ”高遠” ってなに? という事ですが 会津藩祖の保科正之は無類のそば好きで、現長野県伊那市の高遠藩から国替えで会津に移ったときにそば職人も連れてきた事でこの地にも高遠そばが広まったとの事です。


さて、少し大内宿の変遷を振り返ってみたいと思います。
主にWikipediaに書かれていた内容なのですが、大内宿は明治になって、会津西街道が阿賀野川沿いに付け替えられ、更に現在の磐越西線が会津若松から郡山まで開通すると、関東との物流の中心は大内宿を通らなくなり、更に現在の会津鉄道会津線は阿賀野川沿いに敷設されたので大内宿は物流のルートから外れ、宿場機能は衰退しました。当然住民は経済的に困り、主に農業で生計をたてる様になって行きました。逆にこの事がその後の開発の波から逃れかつての家並みが残る事になりました。

高度成長期や大内ダムの建設が始まると、建設工事の従業収入を得る様になり、現在の農村と同じ様に農業だけでなくサラリーマンとして現金収入を得る様に変貌していったとの事です。
この頃になると屋根を茅葺からトタン屋根に吹き替えたり、道路も舗装され徐々に景観が変貌して行ったそうです。
昭和40年代初頭から外部の研究者が訪れるようになり、大内宿が再評価される様になると、外部の研究者の保存活動が盛んになるものの住民は近代化を望み内部からの保存活動は盛り上がらない状況でした。
昭和55年に「下郷町伝統的建造物群保存地区保存条例」が制定され、昭和56年に
中山道の妻籠宿/奈良井宿に続いて重要伝統的建造物群保存地区に指定されると、住民による保存活動が盛んになり観光地としての道を進み始めたとの事です。
大内宿はギリギリのところで現在の景観が残った稀な場所と思います。


話は少し変わりますが、
私がまだかなり小さかった頃、親戚の家はまだ茅葺の家でした。柱は子供では腕が回り切らないくらい太くしっかりとした造りでしたが、家に入ると薄暗く、眼がなれるまでは家の中が良く見えない程でした。居間には囲炉裏があり、いつも火がおこされていて、煙が立ち昇っていました。梁や藁ぶきの屋根裏は真っ黒に燻され独特な匂いに包まれていました。台所は薄暗い場所で、そこで作られた食事はけして贅沢とは言えない、腹を満たすだけの食事でした。
ただ驚いた事は真夏に遊びに行ったとき外は炎天下でしたが、家の中は涼しく戸を開け放っておくと時折り涼しい風が通り抜けて行った事を覚えています。

もし、今 私が当時の茅葺の親戚の家に住めと言われたら明確に拒否します。
かつての大内宿の住民が近代化を望んだ事は私も理解できます。勿論現在は内部を改築して生活し易いようにしていると思いますが、昔の茅葺の家は現在の家屋と比べたら、けして快適とは言えないです。ただ真夏の涼しさと、いとこ達と走り回っても大丈夫な子供の眼から見たら体育館の様な広さの部屋は現代の家ではけして経験出来ない贅沢な空間です。
その親戚の茅葺の家は程なく取り壊され新築の家が建ちました。新築の家の柱は子供の時に見た太い柱がそのまま使われ、天井に隠れて見えないですが大きな自然木の梁はそのまま使われているそうです。

エピローグ

イザベラバードは大内宿に宿泊して、翌日は会津西街道を離れて市野峠を越え高田に向かっています。
この間、日光を発ってから大内宿を離れるまで文庫本28ページに亘って会津西街道の風景やそこに住む人々を描いています。
どの土地の記述でも共通しているのは、風景の美しさ。それと相反するように蚤・虱に悩まされる貧弱で不衛生な住居、貧しい食事、洗濯もせず不潔な衣服を身にまとい、皮膚病、虫刺され、眼病、やけどなどに苦しむ住民が描かれています。
ですが、人々はそれを苦に思わず、勤勉に働き、礼儀正しく、けして暴力はふるわず犯罪を行わない人々の姿を描いています。

私は何億円もの現金を人に配る様な資産家でもないですし、現在も過去もけして裕福という訳ではないですが、幸いな事にこれまで飢えたり、凍えたりした事はないのでこれから書く事は絵空事と思われるかもしれません。

現在、蚤・虱に苦しめられるなどと言う事は皆無ですし、ややもすれば1シーズンで捨ててしまう様な豊富な衣類に囲まれ、世界中から集められた多くの食材を使った食事を摂っています。
今から思えば、子供だった頃 冬になると隙間風が吹き抜ける6畳と4畳半の2間しかない借家に住み、冬は数メートルの雪で屋根まで雪に埋まり、ご飯と味噌汁、卵、大豆を多く使った料理、そして漬物くらいの食事。焼き魚が出ればそれは贅沢な食事でした。
そして親戚の茅葺の家で、庭先の畑からキュウリやトマトを採ってかぶりついたり、従弟たちとかくれんぼしたり、炬燵しかない暖房でカルタをして遊んだり、その時も現在もその日々は貧しいとも不幸とも思わないです。

不幸とか幸福とかは、けして物だけの豊かさだけで決まるものでは無いという事をイザベラバードは思い起こさせてくれた気がします。


END 

2021年9月9日 作成

Column


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