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電子足跡:会津西街道歩き旅
 大内宿から会津城下へ


プロローグ

このページは会津西街道(会津側では下野街道、南山通りとも)を江戸時代そのものの景観と思える大内宿から大内峠、氷玉峠を越え会津盆地を歩き終点の会津城下まで歩いたページです。

この道は大内峠を越える事に加え、峠道が荒れている部分があって体力的に少々きつかったですし、氷玉峠から会津盆地に降りる道は一部道筋が不鮮明で歩くのを断念して新道を歩きました。
ですが、山の中から会津盆地が見えたときの感動と、おそらく会津の方達、或いは会津出身の方達の心の拠り所になっていると思える会津磐梯山が見える道はどこか懐かしさを感じる道でした。


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都道府県 区間 歩いた日 GPS
移動距離
備考
福島県 大内宿-会津城下 2021年07月04日 29.6km


↑GoogleMapと地理院地図にGPSログと写真がマッピングされた地図が開きます GPSログをGoogleEarthでツアーする方法
カシミール3D  国土地理院
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)


大内宿

道の両側に茅葺屋根が連なる緩やかな坂道を登って行くと、
ひと際大きな茅葺屋根の家屋があります。その前を右に折れて会津西街道は続いています。

大内宿の記述は前ページにもあります


右に曲がって進むと、追分地蔵と言われるお地蔵様が立っていて、台座の部分が道標になっています。

 右若松
 左??
と読めます。

イザベラバードはこの追分を左に進み、市野峠を越え会津高田に行き、津川から阿賀野川を船旅で新潟市に行ったのかも知れません。

右に曲がり会津若松を目指します。
会津西街道は小野川沿いに続いていたのですが、大内宿の北側は大内ダムが出来ていて街道は消滅しています。
一見 道は続いていますが、ダムの用地なので一般人は侵入禁止です。
引き返してダムの東側に新しく出来た道を進みます。

大内ダムの風景


大内ダムはロックフィルダムといわれる構造で上流の山から採取した岩で作られています。
右側の写真はダムから北側を撮影した写真ですが、ダム湖の奥にイザベラバードが越えて行った市野峠が見えています。


大内ダムから見える大内宿の家並み


大内峠への道

大内ダムの湖岸を歩いて行くと、
まず氷玉峠・二十四人戦士の墓への道標があります。二十四人戦士の墓は戊辰戦争で戦死した方達のお墓です。

ほどなく舗装道路の脇に下野街道と書かれた道標があり、大内峠に登る道が現れます。ここが大内峠への登り口です。


下草が生えていましたが、所々ピンクのテープや赤いペンキのマーカーがあるので迷う事はないと思います。

だた、道標の所から旧街道に入って直ぐの部分は地理院地図には記載されていないのではないかと思います。歩いた旧街道の下側に地理院地図に書かれていると思える道が見えました。轍がついているので林業の方達か旧街道を整備して頂いている方達の車が通るのかも知れません。暫く心細い気持ちで歩いていると、地理院地図に記載されている轍がついた道に合流します。

大内峠一里塚
地理院地図に記載されている道と合流するとほどなく大内峠一里塚が見えてきます。

大内峠
大内峠は標高900mくらいです。
中山道の碓氷峠が1200m、和田峠が1600m、旧東海道の箱根峠が750mくらいなのでかなり標高は高いですが、他の峠と比べるといきなり急登になる訳ではなく道標が在る登り口からは100m程度の登りなのでかなり楽に峠に着きます。

そして、大内峠は戊辰戦争の古戦場でもあります。
大内峠は会津盆地に入る最後の防御線なので慶応4年(1868年)9月2日から3日間この峠で攻防を繰り広げたそうです。下記の茶屋跡からは鉄砲弾が発見されているそうです。

大内峠の茶屋跡
峠には茶屋が復元されています。
ですが、私が歩いたときには屋根の萱が崩れ落ちていました。
一般的に茅葺屋根は20~30年くらい持つと言われていますが、施工の仕方次第ではこんな風になってしまうのかと思いました。
まるで、三匹の子豚の家の様です。

大内峠見晴宜敷場所(みはらしよろしきばしょ)

峠を越えて下って行くとこの場所に出ます。この場所はこの峠道から最初で最後に会津盆地を遠望できる場所です。




写真を写した時は気が付かなかったのですが、上の写真の右端に鶴ヶ城が写っています。
戊辰戦争で新政府軍に破れ、会津を去る事になった藩士とその家族達は、この場所から二度と帰る事のない故郷を見て涙にくれた事は容易に想像できます。
そのとき、どんな事が脳裏に去来したのか、戦に破れた失望感か? 故郷の想い出か? これから始まる苦難の日々か? 或いは新天地での微かな希望か?
今の私には想像出来ないくらい複雑で言葉に出来ない思いが脳裏を駆け巡ったのではないかと思います。

氷玉峠

氷玉峠は大内峠から下って行き、高さにしたら数10m登り返す程度の峠です。
この峠は「三郡境」とも言われて、現在でも会津若松、会津美里町、下郷町の境界が集まる所です。そして舗装された県道131号線に出会う場所です。


会津西街道はここから少しの間 県道131号線に沿って続き、一旦県道131号線を横断して再度山道に入ります。

歩けませんでした。断念して引き返しました。

県道131号線を横断して再度山道に入った道は木の間にロープが張られていたり、ピンクのテープが張られていたりします。このロープとピンクのテープは通行出来ないという事なのだと思います。いずれにしても道筋はかなり不鮮明でした。
山道の中から県道131号線が見えていたので無理をして歩いて県道131号線に降りる階段までたどり着きました。




問題なのは上に掲載した階段を降りて県道131号線を横断すると、更に下に降りる同じ様な階段があります。この階段の先は道が不鮮明で歩くのが困難でした。引き返して県道131号線を歩きました。



敗因 GPSログから分析
最初はルート通りに沢の道を歩いていますが、途中で街道が沢から尾根に登る付近で沢と道の区別が出来なくなり、沢の方へ進んで行ってしまったのだと思います。
沢の道は道が荒れやすいという基本的な事を失念していました。
西側に尾根伝いの道があるのでこちらの道なら歩けるかもしれません。(現地を見ていないので推測です。)

山の中で道が分からなくなると、とんでもなく不安になります。
地図が間違っているのではないか? 山の中なのでGPSの誤差が大きくなって実際にいる場所とは離れた場所を表示しているのではないか? 自分の感覚が正しいのか? などと色々と考え始めて何を信頼すれば良いのか分からなくなります。おそらく登山で道を間違えて遭難するときも同じような感覚になるのだと思います。その場合は来た道を戻るという基本中の基本に忠実になるべきだと思います。

氷玉・栃沢集落

県道131号線を歩いて下って行くと氷玉・栃沢集落に着きます。
時代の波から取り残された様な小さな集落です。ですが車が置いてあったり、庭が手入れされていたりするので、まだ生活している人達が居るのだと思います。
若い時に一生ここで生活しなさいと言われたら躊躇すると思いますが、今ならガス・水道・電気の心配が無くて、日々の生活物資の入手が容易なら、朝は小鳥のさえずりで目を覚まし、木洩れ日の下で昼寝をし、夜は小川のせせらぎを聞きながら眠る。という生活も良いかなと思える様になっています。分かり易く言えば歳をとったという事ですね。

関山宿


戦死四十人墓
関山宿の家並みに入る手前に 戦死四十人墓 と書かれた石碑が建っています。
勿論、戊辰戦争の戦死者を弔う石碑です。大内峠を突破された会津藩は後退を余儀なくされ慶応4年(1868年)9月2,3日に関山宿で攻防戦がありました。
鳥羽・伏見の戦いが同年正月3日ですので、新政府軍は僅か8ヵ月でこの地まで進軍して来た事になります。
関山宿の家並み
そして戦があったとき、関山宿は50戸ほどの集落全体に火をかけられ宿場全体が焼失しました。




福永宿

福永宿は氷玉川のほとりに出来た宿場で、関山宿とは直線距離で2km程しか離れていません。福永宿は会津城下を出て最初の宿場です。
福永宿で休んでいたら雨が止み、空が明るくなってきました。
雨に洗われた木々の緑が光を放つ様に輝いて見えました。


歩き始めたら、雲が切れ会津磐梯山が雲間から顔を出しました。空気が爽やかです。
会津出身で遠く離れた土地に住んでいる方達は、会津磐梯山を見ると帰って来たと思うのではないかと想像します。


会津美里町本郷付近

会津城下とは阿賀野川を挟んで西岸に発展した町です。
何がどうだからと上手くは説明できませんが、どこか懐かしい感じがする家並みです。


阿賀野川西岸付近

往時 阿賀野川は舟渡だったので阿賀野川の西岸を歩いて高田橋を渡って会津城下に向かいます。
堤防から会津城下が見えるようになります。山頂に雲がかかっている山は会津磐梯山です。そして家並みの間に鶴ヶ城が見えます。




会津城下

高田橋を渡るといよいよ会津城下です。
町名も材木町・御旗町・追手町・本町など城下町らしい感じがする町名があります。




会津西街道(下野街道)ゴール
歩く前に会津西街道(下野街道)のゴールを何処にするかと考えました。普通であれば鶴ヶ城と思いますが、インターネットの情報を見ると会津若松市大町の枡形(意図的にクランク状に曲げた道)になっている札ノ辻が起点だとする記述もありました。
街道歩きは、当時そこを往来した名も残っていない人達の息使いを感じる事が出来るところにあります。そこで大町のホテル大阪屋がある札ノ辻をゴール地点とする事にしました。

と、格好を付けた事を書きましたが、枡形になっている以外はどの都市にもある様な市街地がゴール地点でした。往々にしてゴールは美しいとか感動的な景観とか、そんな事とは無縁な場所がゴールです。

エピローグ

会津と言えば、会津磐梯山に加えて白虎隊、鶴ヶ城を連想する方が多いと思います。
ここまで来て鶴ヶ城を見ないで帰ったら、会津の方達に失礼という感じがします。

鶴ヶ城
奥州街道を進軍してきた新政府軍は慶応4年(1868年)8月22日猪苗代湖の北東、標高1000mほどの母成峠を突破し、雪崩の様に会津城下に攻め入り、それから1ヶ月 9月22日会津藩が降伏するまでこの城で籠城戦が続きました。
幾多の砲弾で屋根が崩れ、穴があいた壁、銃弾の跡、戦の後の鶴ヶ城の写真を見た事がある方は多いと思います。白虎隊や婦女子の自刃の悲劇を持ち出すまでもなく多くの命が失われました。
僅か150年程前にそんな悲劇があったとは思えないくらい美しい城です。






天気が良かったからだと思いますが、この城は素人の私が写しても絵葉書の写真の様に奇麗に写りました。

本家 枡形
城下町巡りや街道歩きが好きな方は経験があると思いますが、城下町や宿場だった町を歩くと、道がクランク状に曲がっている場所があります。これは敵の侵入を阻止する為に意図的に道筋を曲げて先を見えない様にした道です。この様な道の構造を枡形と言います。
本来は城の一の門と二の門の間にある方形の広場の事で、兵が集まる場所ですが、入口・出口の門を直角方向に設置したり、互い違いに設置する事で侵入した敵軍の動きを妨げ三方・四方から攻撃する役割もあります。





END 

2021年12月16日 作成

Column


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