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電子足跡:豊前街道・三池往還 歩き旅

 筑前山家(やまえ)から御井町へ


プロローグ
 

このページは豊前街道を長崎街道との追分がある筑前山家宿から久留米市御井町の久大本線の久留米大学前駅まで歩いたときのページです。
筑紫平野の東端に近い広大な平野の中をほぼ南に向かって歩きました。
有名な史跡はありませんが、所々道標や国境(くにざかい)の石碑などがあります。松崎宿の旅籠油屋は西郷隆盛が宿泊したと伝承がある部屋が残されていて、修復整備されて公開されています。

今日のゴールの御井町は府中宿がある町ですが、チェカーズの藤井フミヤさんの実家はこの周辺にあるそうです。豊前街道はその町の中を通っています。

歩きデータ
都道
府県
区間 通る宿場等 歩いた日 GPS
移動距離
福岡県 筑豊本線 筑前山家駅‐久大本線 久留米大学前駅 山家宿、長崎街道/豊前街道追分、豊前街道/日田街道追分石、乙隈境石、松崎宿、旅籠油屋、平方の郡境石、光行土居、築後川、安国寺 2023/11/07 23.7㎞



 GPSログをGoogleEarthでツアーする方法
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筑前山家宿
 

筑豊本線 筑前山家駅に降り立ちスタートです。
筑紫平野の北端のローカル駅です。朝早かったこともありますが乗降客は私一人、一人旅の哀愁を誘います。

山家宿
山家宿は北は大宰府-博多へ、東は日田街道、西は長崎街道、そして南はこれから歩く豊前街道と、交通の要衝の地でした。




長崎街道・豊前街道追分
山家宿番所跡が長崎街道と豊前街道の追分です。草に隠れて追分石がありました。


山家宿から松崎宿へ

長崎街道と豊前街道の追分は、長崎街道が国道200号線と接続し筑豊本線の踏切がある場所です。

踏切を渡ると新しい世界に足を踏み入れる様なチョットわくわくする高揚した気持ちになります。

豊前街道に足を踏み入れると、そこは筑紫平野の東側です。広大な平野のなかに道が続ています。


街道カフェ やまぼうし
歩いていると昔の農機具が展示してある古民家がありました。
良く見ると小さな看板に 『街道カフェ やまぼうし』 と書かれていました。もともとは造り酒屋だった築110年の建物を改装してカフェにしているそうです。店名に"街道" を冠していると街道歩きを趣味にしている者としては嬉しくなります。朝早かったので営業していなかったのは残念でした。
店の中をご覧になりたい方は 下のリンクをクリックしてください。
やまぼうしについて – 街道Café やまぼうし



豊前街道・日田街道 追分石
街道カフェ やまぼうし からすぐの石櫃(いしびつ)地区の所で豊前街道は突然 右(南西)に曲がります。豊前街道と日田街道の追分です。


説明板の記述では江戸時代初頭の道標で『右 肥後薩摩道』『左 豊後 秋月 日田 甘木道』と彫られているそうです。


追分を越えて筑紫平野の平坦な道を進みます。
下の2枚の写真は筑前町東小田付近の風景です。




乙隈境石
筑前黒田藩と筑後有馬藩の国境に建てられた石柱です。
南側(写真では左)は『従是南筑後國』、北側(写真では右)の石柱には『従是北筑前國』と彫られています。
現在の住所は、南側の境石は "小郡市乙隈字境石" で、北側の境石は "筑紫野市大字西小田字筑前島" で現在でも小郡市と筑紫野市との市境です。


ここから築後國を歩きます
筑前国から筑後國に入りました。と言ってもなにがどう変わったという事はなく、国境(くにざかい)と言っても人間の都合だけで決められた眼には見えない境界線です。

薩摩街道干潟野越堤
草場川を渡るとすぐに説明板が建っています。
埋め戻されているので、今は何てことない道なのですが、江戸時代に法面に石積を行い草場川が氾濫したときに一時的に水を堰き止めて徐々に下流に流す "野越" と言われる堤防の役割をしていたそうです。写真左は説明板に掲載されていた発掘時の状態です。



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松崎宿
 


北構口
高さ約2m 横約4m 奥行4m の石垣でかつては番所小屋も在ったそうです。北構口を進むと意図的に道筋をクランク状に曲げて敵の侵入を防ぐ枡形になっています。宿場の出入り口であると同時に宿場の防御と監視を行う施設の役割を持っていました。


松崎宿は宿場らしい雰囲気が残っています。



旅籠油屋
2019年に整備復元されて無料で公開されています。
写真の右側の大きな建物は主屋で一般客が利用し、左側の小さな建物は座敷と言われて身分の高いお客が利用したとの事です。
西郷隆盛が宿泊したという伝承があったり、乃木希典が昼食を食べたと日記に記載されているそうです。








↓西郷隆盛が宿泊したとの伝承がある部屋


南構口


松崎宿から御井町へ
 


平方の郡境石
説明板によると文政12年(1829)に建てられたもので、当時の御井(みい)郡と御原郡の境界を示しているそうです。

御井郡はここより南に現在の久留米市御井町という地名があります。御原は地名としては残っていないようですが、そばに小郡市立御原小学校があります。

光行土居・消えた薩摩街道
木柱に『光行土居・消えた薩摩街道』と書かれていました。

『光行土居』は中世の頃に築かれた土手で江戸期には参勤交代の街道として使われました。歩いていてもこの道は土手だという雰囲気が色濃く残っています。
『消えた薩摩街道』の方は圃場整備でかつての街道は消滅しているとの事ですが、迂回路を歩いてもそれほど遠回りではありません。


築後川 神代(くましろ)橋付近の風景
筑後川は筑紫平野を流れ有明海にそそぐ川です。
豊前街道は筑紫平野の東側を南北に貫いている街道ですがここでは築後川と交差します。


西側には久留米市街が遠望できました。


安国寺
事前にルートを調べているとき 街道沿いに『安国寺甕棺墓群』と記載されていました。どんな所か?と興味が湧いたので訪れました。
安国寺の門前までは行ったのですが、『寺の住人以外通り抜け及び進入禁止』と看板が掲げられていて境内に入るのは躊躇したので、甕棺墓群が何処にあるのかは結局分からずじまいでした。
今調べると安国寺の境内にあるのではなく、安国寺の裏手にあるようです。ですが甕棺墓群は埋め戻されていて、見れる光景は原っぱのような場所のようです。


この後、御井町の府中宿の手前、久大本線の久留米大学前駅まで歩いて今日の歩きは終わりです。

エピローグ

 


今日のゴールの御井町の付近にはチェカーズの藤井フミヤさんの生家があって藤井フミヤさんは久留米市立山川小学校、良山中学校、南築高校に通っていたとのインターネットの記事がありました。


記憶が定かではないのでこれから書く事の真偽には自信がありません。
昔、ラジオで聞いたのですが、博多にライブハウスが在って、まだ売れる前のタモリさんが司会をしていたそうです。そのとき、これもアマチュア時代のチューリップがステージで演奏し、楽屋では井上陽水さんがチューニングしているとき、子供がステージ前に飛び出てきて演奏を邪魔したそうです。司会のタモリさんは『ここは、ガキが来るところじゃなかと‼ 早く帰れ!』と言って子供を追い出そうとしたら、子供は『ここで面白そうな事をしていると聞いたばってん、見に来たばい!』と言って抵抗したそうです。

それから、何年か後にチェカーズがデビューしてTVに出演する様になり、あるときTV局でタモリさんと一緒になった藤井フミヤさんが、『子供の頃、博多のライブハウスに行ったら、司会者に怒られて追い出された。』と話したら、タモリさんが『お前か‼、あのときのガキは‼』と言ったそうです。
もし、この話が本当なら、デビュー前とはいえ、その後 日本の音楽シーンを席捲する物凄いミュージシャンとタレントが同じ場所、同じ時間に居た一瞬という事になります。
それにしても、おそらくこの話は藤井フミヤさんが小学生頃の話なのだと思いますが、その頃から音楽に興味を持っていて、それが大人になって仕事になったという事なのだと思います。
私もいい歳なのですが、いつまでもミーハーな気持ちは抜けません。


END

2024年12月20日 作成

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