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電子足跡:豊前街道・三池往還 歩き旅
 豊前街道を歩いて 府中宿(御井)から瀬高宿へ

プロローグ
 

 このページは豊前街道を福岡県久大本線 久留米大学前駅近くの御井町の府中宿から不思議な地名の羽犬塚宿を通り、鹿児島本線 瀬高駅近くの瀬高宿まで歩いたページです。
 この区間は有名な史跡はありませんが、成田山久留米分院明王寺の高さ62mの慈母大観音を拝み、隣には長さ60mの前方後円墳の浦山古墳があります。明王寺を過ぎると豊前街道は松田聖子さんの母校の荒木中学校のそばを通っています。往年の大横綱 若乃花、柏戸、大鵬らが参拝し、力士の間では知られている江戸相撲の力士 秋津島浪衛門供養塔 がありました。
今日のゴールの瀬高宿は矢部川の水運で物流・商業が盛んだった宿場で所々なまこ壁の古民家が残る良い家並みでした。

歩きデータ
都道
府県
区間 通る宿場等 歩いた日 GPS
移動距離
福岡県 久大本線 久留米大学前駅
‐鹿児島本線 瀬高駅
府中宿(御井町)、明王寺、浦山古墳、明治天皇藤田御野立所跡、久留米市荒木中学校(松田聖子さん母校)、羽犬塚宿、力士 秋津島浪衛門供養塔、行基橋、伊能忠敬測量基点之地、瀬高宿 2023/11/08 25.4㎞



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府中宿
 

 昨日のゴール久大本線の久留米大学前駅から歩き始めました。
前のページにも書きましたが、この付近はチェカーズの藤井フミヤさんの実家があります。藤井フミヤさんも通学などでこの道を通ったんだろうななどと思いながら進みました。

 線路に沿って東に進むと道は豊前街道にぶつかります。南に向かって進むと直ぐに府中宿を通ります。
府中宿は久留米市御井町に在った宿場です。
宿場の東側の高良山の山中に高良大社が鎮座していて、高良大社の門前町と豊前街道の宿場として栄えていました。
宿場の名前が "府中宿" なので律令制の時代に国府が在った場所でGoogle Mapで "久留米" "国府" で検索すると府中宿の北西方向500m~2㎞の範囲に各年代の築後国府跡の史跡がヒットします。

家並みは特に保存している訳では無いようですが、昭和レトロ、それも昭和30~40年代な感じが色濃く残り懐かしい感じがします。

写真右:高良下宮社




府中宿から羽犬塚(はいぬづか)宿へ


陸上自衛隊久留米駐屯地

府中宿から南下してくると、陸上自衛隊久留米駐屯地が在ります。豊前街道は自衛隊の敷地内を通っているため歩く事ができませんでした。迂回しました。

成田山久留米分院明王寺
豊前街道を歩いて行くと、前方に観音像が見えてきました。明王寺の高さ62mの慈母大観音です。昭和53年から5年の歳月を掛けて建立されました。


史跡浦山古墳
明王寺の境内の中に在ります。樹木が生い茂り全体の状態は見えませんが、帆立貝式前方後円墳で5世紀後半ころに築造され、長さ60mあるそうです。
石棺内は赤色顔料が塗られ装飾文様が線刻されているそうです。明王寺本堂に届ける事で見学できるそうです。

明王寺境内から南方面を望む


陸上自衛隊高良台演習場
上の写真の遠方の丘陵付近が高良台演習場です。豊前街道は演習場の中を通っています。道の両側はフェンスで仕切られ、監視の自衛隊員が立っていました。ものものしい雰囲気のなかを歩きました。

明治天皇藤田御野立所跡
御野立所とは天皇が旅行中に野外で休息した場所です。
この御野立所は明治5年(1872)の九州巡幸の際にここで休まれた場所という事です。
旧街道を歩いていると、いたる所に明治天皇御野立所跡の石柱があります。建てた方達の意図とは異なると思いますが、御野立所跡の石柱が在ると、ここは旧街道だと確信できるので大変ありがたいです。

松田聖子さんの出身地です。
上記の、御野立所跡の北400~500mの所に久留米市荒木中学校が在ります。
荒木中学校は松田聖子さんの出身校だそうです。インターネットに学校の校門を松田聖子さんが寄贈したと書いてありました。

ここを過ぎると、豊前街道はあまり旧街道らしくない道を進みます。







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羽犬塚宿
 


羽犬塚とは珍しい地名 です。


地名の由来は2つあって
1)豊臣秀吉が九州征伐のとき、羽のはえた怪犬に出合い、退治して塚に葬ったという説。
2)もうひとつは秀吉の愛犬(羽がはえているかのように早く走る犬)が病死した為に塚を建て葬ったという説。
その塚は街道沿いの宗岳寺にあるらしいのですが見落としてしまいました。
 宿場は現在の筑後市立羽犬塚小学校付近でした。ここは西の柳川、東の八女に行く街道の交差点のような場所で旅籠や商家が並び賑わっていたそうです。

御茶屋跡
 その羽犬塚小学校の敷地に御茶屋が在ったそうです。
御茶屋とは領内巡視や遊猟するときに休泊する本陣で500坪で付属地が691坪あったそうです。

ここに立っている道標には "薩摩街道(坊津街道)" と表記されています。このページでは豊前街道と表記していますが、だんだんと豊前街道と言っていいのか自信が揺らぎます。

市街は宿場町の雰囲気はあまり残っていませんでした。


上妻・下妻郡境の碑
説明板によると、筑後市はかつて上妻郡・下妻郡に分かれていて、この碑はその藩領境・郡境を示す為に立てられたそうです。
北上妻郡 南下妻郡 と刻まれています。

羽犬塚宿から瀬高宿へ

羽犬塚宿を過ぎると田園が広がるようになります。


力士 秋津島浪衛門供養塔
江戸相撲で天下第一と言われた力士の供養塔です。
秋津島浪衛門は 元禄10年(1697)にこの地に産まれ、19歳で江戸に上り力士となり、27年間 力士を続けました。最盛期には6尺1寸8分(187㎝)、38貫(約142.5kg)で二千数百番も勝ちを重ねたそうです。            
この供養塔が建っている場所は九州新幹線 築後船小屋駅のそばの "筑後市津島" で出身地を四股名に入れるくらいですので故郷への思いが強かったのだと思います。

 写真を写していたら、近所に住んでいらしゃる写真の女性がいらして、浪衛門について説明していただきました。若乃花、柏戸、大鵬など多くの力士が地方巡業のときに参拝し、特に大鵬は晩年にもお付きの方と共にお参りに来てその数年後に亡くなったとお話していました。それだけ現在の力士からも尊敬されている力士という事なのでしょう。

説明して頂いた女性に「私は街道を歩きながら写真を写してホームページを作っています。ホームページは1年後くらいに公開する事になると思います。」と自己紹介して名刺を渡して、お写真を写させていただきました。お名前を伺うのを忘れてしましましたが、ご説明有難うございました。もし私のホームページをご覧になっていらしたら連絡を頂けると有難いです。

因みに、同じく江戸相撲の力士雷電為衛門は明和4年(1767)生まれですので浪衛門の後に活躍した力士という事になります。雷電は北国街道の長野県東御市に生家と墓所があります。

行基橋
九州新幹線 築後船小屋駅 を過ぎると矢部川の支流の 沖端川(おきのはたがわ) を渡ります。
橋の北詰の信号に "行基橋" と書いてあり、橋のたもとに小さな社がありました。社の中には僧侶と思われる像が安置してあります。

1300年ほど前この付近の住民はわずかばかりの畠に稗・粟などを作って暮らしていました。矢部川や沖端川が氾濫すれば作物は一夜にして流され、畑に行くにも川を徒歩渡りで行くしかないような所でした。

そこに旅の僧が現れ、橋を架けてやると云いだしました。次の日、数10人の男達と10台ほどの荷車に丸太や土嚢を満載してやってきて橋を架け始めたそうです。それを見た付近の住人も作業を手伝い暫くすると橋が完成し、更に湿地の水抜きをして耕地に変える技術も教え、豊な土地にしたそうです。
その旅の僧がだれであったか分からなかったけれど、仏教本来の『広く民衆を救う』を実践すべく諸国を行脚中だった行基ではないかという事で、架けた橋を "行基橋" と呼ぶようになったとの事です。

沖端川


行基橋を渡って南詰に行くと、南詰にも恵比寿様とお稲荷さん、そして大きな樹の切株が安置してありました。この付近の住民にとっては行基橋周辺は特別な場所なのでしょう。

二里石
立花いこいの森の付近の神社の境内にありました。関ヶ原の合戦で石田三成を捕らえた田中吉政は慶長6年(1601)柳川城に入城した後、干拓や道路の整備を行いました。街道には柳川城下の札ノ辻から1里毎に石柱を設置し。この石柱は2里目の石柱です。

瀬高宿
 

町は思いのほか大きく、瀬高宿は矢部川を中心にの西岸の上庄と東岸の下庄に分かれ、矢部川の水運と商業と宿場で栄えた町でした。街道沿いに "なまこ壁" の古民家も残り往年の賑わいを彷彿とさせます。

これまで南下してきた街道は突然東に曲がります。
この付近から街道沿いに古民家が目立つようになり雰囲気が良くなります。

写真右:来迎寺


写真左:清酒菊美人醸造元




矢部川に架かる瀬高橋を渡って 下庄に入ります。




清酒友瓢醸造元 星隈本家


伊能忠敬測量基点之地の碑
新町公民館のところに伊能忠敬が測量したとき、基点になった場所に石碑が建っていました。

伊能忠敬測量基点之地の碑が在ったのは公民館の前の何の変哲もない道の途中でした。普通に考えると測量の基点にする場所は地理的に特徴的な場所だと思います。なぜ伊能忠敬はこの場所を基点に選んだのか疑問に思いました。それで調べてみました。

道が付け替えられた
 下の地図は、『今昔マップ on the web』(埼玉大学教育学部 谷謙二)が提供している地図画像です。
右が現代の地図、左は明治33年に測量された地図です。右の現代の地図のオレンジの矢印の所に測量基点之地の碑がありました。その位置は明治33年の地図では豊前街道と三池往還の追分の位置(緑の矢印)になります。
 明治33年以後、いつの時代かは分かりませんが道が付け替えられて、三池往還の道筋は西に少し移動したのだと思います。であれば伊能忠敬がその場所を測量基点に選んだのは理解できます。かつての三池往還は現代の住宅地の中を通っていたという事になります。



下の地図は 伊能大図の 『備前 佐嘉 築後 久留米 柳河 筑前』 の瀬高付近の地図です。
図中、筆者が付けた緑丸の辺りが上記の測量基準の地、つまり豊前街道と三池往還の追分です。
尚、瀬高の上の赤丸は宿場記号、星印は天測地点。

注:国土地理院 古地図コレクションの画像を使用させて頂きました。

写真右:松尾宮
歩いたのは11月8日です。境内のいちょうが微かに黄色くなって来ていました。これから秋が深くなって行きます。

この後鹿児島本線瀬高駅まで歩いて今日の行動は終わりです。

エピローグ
 

豊前街道は瀬高宿を過ぎると、現代の九州自動車道に沿って山側の方に道が続いています。
ですが、今回の旅は どうしても 西南戦争の激戦地 田原坂 を歩きたかったので、瀬高宿の追分で三池往還に曲がります。次のページからは三池往還のページになります。


END

2025年01月14日 作成

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