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電子足跡: 豊前街道・三池往還 歩き旅
三池往還を歩いて 瀬高宿(みやま市)から高瀬宿(玉名市)へ
 

プロローグ
 

このページは三池往還を福岡県みやま市 瀬高宿 から 三池宿、熊本県の府本宿,玉名市の高瀬宿 まで歩いたときのページです。
これまで歩いてきた豊前街道から瀬高宿の追分を曲がり三池往還を歩きました。
途中で福岡県と熊本県の県境を越えます。現在の県境はほぼ築後国と肥後国の国境でした。
その築後と肥後の国境に重厚な2連アーチ式の石橋 岩本橋 が良い状態で現存していますし、府本宿には細川家御成門が残っています。
三池往還は、豊臣秀吉が九州を平定した天正15年(1587)から熊本城主の加藤清正により整備されてきた軍事上、経済上の重要な道路でした。

なお
三池往還のルートはインターネットに適当な資料が見つからなかったため、伊能中図 九州北半に書かれている街道とその周辺の地名とを現代の地理院地図に記載されている地名からルートを推測したものです。
本文にも記載していますが、部分的にルートの推測を誤りました。

歩きデータ
都道
府県
区間 通る宿場等 歩いた日 GPS
移動距離
福岡県/熊本県 鹿児島本線 瀬高駅-玉名駅 瀬高宿、伊能忠敬測量基点之地、忠烈碑、三池宿、三池新町弥剣神社、福岡県/熊本県県境、築後国/肥後国国境、岩本橋、府本宿、細川家御成門、高瀬宿 2023/11/09 33.9㎞



 GPSログをGoogleEarthでツアーする方法
kmz形式のGPSデータがリンクされています。GoogleEarthがインストールされているとGoogleEarthで表示されます。




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瀬高宿
 

昨日のゴールの鹿児島本線瀬高駅からスタートです。

伊能忠敬測量基点之地
前のページにも書きましたが、瀬高宿のこの公民館の前に碑が建っています。伊能忠敬達が瀬高を測量したのは文化9年(1812)の2月と10月の2回だそうです。

下の地図は、『今昔マップ on the web』(埼玉大学教育学部 谷謙二)が提供している地図画像です。
右が現代の地図、左は明治33年に測量された地図です。右の現代の地図のオレンジの矢印の所に測量基点之地の碑がありました。その位置は明治33年の地図では豊前街道と三池往還の追分の位置(緑の矢印)になります。
明治33年以後、三池往還の道筋は西に少し移動しました。


現代の豊前街道と三池往還の追分


思案橋
この付近までくると町はずれという感じになります。微妙に曲がった道筋がかつての街道だったと思わせてくれます。


瀬高宿から三池宿へ

三十七八年戦役??碑
小さなお寺の様な建物があり、道路に面して  『三十七八年戦役??碑』  と書いてある石碑が建っていました。
インターネットを調べると、"三十七八年戦役" とは明治37年38年(1904~1905)の日露戦争のことで、公式には日露戦争とはいわず "三十七八年戦役" と言っていたそうです。


栗ノ内付近


写真左:栗ノ内付近
写真右:飯江川


写真左:岩津付近
写真右:高木付近


不思議な常夜灯
高木付近に建っていた対の常夜灯です。左側は形状が判然としませんが、右の常夜灯の上に狛犬が乗っています。
これまで街道沿いの常夜灯は数多く見ましたが、初めて見ました。
狛犬なので神社と関係があるのかも知れません。500mほど北に今福八幡宮が鎮座しています。


渡瀬駅周辺




千渡橋
隈川に架かる橋です。かつては橋は無く、徒歩渡りでした。
有明海の干満で川の高さが変化するため、干潮のときに川を渡ったので "干渡し" と言っていたそうです。後に橋が架かり干渡橋と名付けられたそうです。現在の流路では河口まで4.7㎞ほどです。意外と海が近いです。



  干渡橋を渡ってみやま市から大牟田市に入りました


忠烈碑
幕末期に横地玄藩助が私塾を開いて、儒学などを教えこの地に教育の基礎を築いた場所との事です。


元村付近の石仏群


三池宿
 


お詫びします
三池往還のルートは伊能中図に記載されている地名と街道の道筋からルートを推測した事は冒頭に書きました。
元村付近を過ぎた所から三池宿を越えた付近まではルートの推測を間違えた様で、歩いていても旧街道らしさを感じられず旧街道では無い道を歩いたようです。
帰って来てから再度ルートを伊能中図の地名と街道の道筋に加えて、明治33年測量の地図に描かれている当時はまだ主要道路で三池往還と思われる道路から推測し直しました。本ページの三池往還のルートは新しく推測したルートを掲載してあります。

三池と言えば炭鉱、炭鉱と言えば炭鉱節
  月が出た出た 月が出たヨイヨイ
  三池炭鉱の 上に出た
  あんまり煙突が高いので
  さぞやお月さん 煙たかろ
  サノヨイヨイ

世界遺産にも登録されている炭鉱関連の遺跡は旧街道沿いではなく、西側の海に近い所にあります。
 明治日本の産業革命遺産

三池宿から府本宿へ


三池新町弥剣神社

三池新町は伊能中図にも記載がある地名です。
延宝年間(1673~1681)に早鐘眼鏡橋の完成にともない、協力した住民に対して藩主から下賜された神社だそうです。早鐘眼鏡橋はここから直線距離で3㎞強離れた大牟田川に架かる石橋です。

三池新町から熊本県境までの風景







  熊本県に入りました




岩本橋
熊本県に入ると直ぐに関川に架かる2連アーチ式の石橋の岩本橋が在ります。昭和40年(1965)に熊本県重要文化財建造物に指定されています。
かつては築後と肥後の国境でした。長年架橋が望まれていましたが軍事的な理由により架橋が許されず、徒歩渡りで関川を渡り、天保4年(1833)仮土橋が許可されました。
現在の石橋は文久3年(1863)に石橋の架橋が許可され、慶応4年(1868)に完成したそうです。
なお岩本橋は NHKアーカイブスのダイジェスト で紹介されています。




ただ、中州の様になっている所までは橋が架かっていますが、南側は橋はなく岩本橋を渡って関川を越えることは出来ません。何故、南側に橋が無いのかをインターネットで調べましたが情報はありませんでした。


上井出から平山付近の道
岩本橋を越えると直ぐに里山の中の道になります。地図には里山の尾根伝いに道が描いてありましたので、その道が旧街道ではないかと推測しました。
道は在りましたが、草が生い茂り歩けそうもなかったので県道46号線を歩きました。


府本宿
 

府本宿は享保元年(1716)に藩主より宿町として許可されたそうです。
どことなく新しい町とは異なる雰囲気がありました。

傷みが激しですが入口に "丸に花菱" の紋が掲げられて、かつては立派な門だったのではないかと思われます。

細川家御成門
御成門があるこの建物は細川候の藩内巡視の際の休息所でした。
街道に面して現存する御成門は御成間の入口につくられた門扉で天保2年(1831)に再建されたものです。現存するのは御成門のみです。
門の正面に細川家の九曜紋が入っています。


写真右:念名寺


府本宿から高瀬宿(玉名)


植物名は分かりませんが、ヤシ科の植物が一本ありました。
一本だけですが、暖かい地方を旅しているんだと感じました。



伊能中図にもその地名がありますが、荒尾市 "金山"付近です。
これまで段丘崖の上に道が続いていましたが、この坂を下ると行末川を渡ります。

高瀬宿(玉名)


再びお詫びします。
高瀬宿に向かう道の推測を間違いました。玉名駅に行くまでの道を県道347号線を歩いてしまいました。帰ってきてから再度推測し直した道は県道347号線よりもう少し北側の道のようです。

歩いているときから違和感があり、写した写真は県道347号線のこれ1枚でした。

エピローグ
 

部分的にルートの推測を間違えたので三池宿や高瀬宿の旧街道を歩く事が出来なかったのは残念です。
各地の教育委員会などが調査した 『歴史の道調査報告書』でもルートが曖昧な部分もありますし、既に消滅した道筋などもありますので、旧街道のルートを正確に特定することはかなり困難です。
旧街道と新しい道が異なるのは、旧街道は微妙に曲がっている事が多い、石仏・石碑・道標がある場合が多い、ところどころ古民家があるなど。どことなく旧街道と新しい道は違いを感じます。


END

2025年1月30日 作成

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