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電子足跡: 豊前街道・三池往還 歩き旅
高瀬宿(玉名市)から熊本城下 里程元標へ  ゴールです
西南戦争の激戦地 田原坂を通る道

プロローグ
 

このページは熊本県玉名市高瀬宿から三池往還を歩き、西南戦争の激戦地 田原坂 を通り、熊本県植木の味取新町宿から再び豊前街道を歩いて、九州の旧街道測定原点である熊本城下の里程元標跡まで歩いたページです。豊前街道・三池往還歩き旅のゴールです。

田原坂周辺は勿論、街道沿いには西南戦争の遺構が残り、現在田原坂公園になっている地には、"弾痕の家" が復元され、西南戦争の戦没者慰霊碑があり、長さ約20mの墓碑には明治政府軍・薩摩軍の戦死者が14,138柱刻まれていました。
また街道沿いには、薩摩軍・政府軍の傷ついた兵士を分け隔てなく治療した、日本赤十字社発祥の地とされる 正念寺がありました。

小学校に入る前にその地名を知り、記憶の片隅に残り続けた 田原坂 をこの歳になり初めて訪れました。銃弾が飛び交い阿鼻叫喚の惨劇が繰り広げられた地は今は小鳥のさえずりが聞こえる静かな地でした。

歩きデータ
都道
府県
区間 通る宿場等 歩いた日 GPS
移動距離
熊本県 鹿児島本線 玉名駅-熊本駅 玉名市、高瀬宿、木葉地区、正念寺(日本赤十字社発祥の地)、田原坂、田原坂西南戦争資料館 2023/11/11 三池往還16.0㎞
味取新町宿(植木)、阿蘇山遠望、御馬下の角小屋、熊本城下、里程元標跡 豊前街道
11.8㎞
合計 27.8㎞



 GPSログをGoogleEarthでツアーする方法
kmz形式のGPSデータがリンクされています。GoogleEarthがインストールされているとGoogleEarthで表示されます。




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高瀬宿(玉名市)
 


今日は11月11日。玉名駅6時15分にスタートです。街はまだ眠っています。
玉名駅は東経130.55度くらいですので明石市の日本標準時とは18分くらい、東京とは37分くらいの時差があります。
道は今日目指す、植木そして熊本へと続いています。




菊池川に架かる高瀬大橋
Google Mapにはこの橋の400mほど下流の鹿児島本線の鉄橋付近の西岸に船着き場が在り、熊本藩の米蔵やお茶屋(藩主、藩士が休息や宿泊する場所)など在りましたが、明治10年(1877)の西南戦争で焼失しました。
宿場としての高瀬宿は上の写真の様に、藩の施設の北側に広がっていたようです。

高瀬の戦い
西南戦争の明治10年(1877)2月25日~27日、菊池川を挟んで西岸に明治政府軍、東岸に薩摩軍が布陣し戦闘が繰り広げられました。薩摩軍は一時は優位にたったものの、銃弾類が欠乏し、後退する事になりました。
薩摩軍は菊池川を突破され、山鹿、田原坂、吉次峠と長大な防衛線を敷かざるを得なくなりました。

高瀬宿から田原坂へ

東に向かって歩いて九州新幹線の高架を過ぎると木葉地区を通り境木に至ります。この区間は如何にも旧街道という雰囲気が色濃く残る雰囲気の良い道です。
この区間は 『玉東フットパス 木葉の街並みと三池往還コース』が設定されています。

木葉地区










正念寺  日本赤十字社発祥の地
正念寺は田原坂の登り口から西に1㎞ほどの所にあります。
日本赤十字社は明治10年(1877)の西南戦争のときにこの地に設立された 『博愛社』 という救護団体がその前身です。
『敵味方の区別なく、救う』 というアンリ―・デュナンの赤十字精神に感銘を受けた適塾で医学を学んだ佐野常民や元大名の大給恒(旧名 松平 乗謨)が、征討総督 有栖川熾仁親王に直接願いでて、博愛社の活動が許可されました。因みに栖川熾仁親王は、徳川家茂に降嫁した和宮の元婚約者でした。


『命は平等である』


山門の柱に残る銃弾
銃弾が飛び交うなか、敵味方の区別なく傷ついた兵士の救護にあたりました。現代でも戦争で病院が砲撃されたと聞くと、信じられないという気持ちと人間の負の側面の深さを思い知らされます。


田原坂  西南戦争激戦地

田原坂は峠付近まで長さ1.2㎞、標高差70mほどの緩やかな坂です。
明治10年(1877)3月4日から17日間、雨が降るなか激戦が繰り広げられ、西南戦争の趨勢を決めた地です。そして鎌倉時代から続く武士の世の終焉へと進む地でもあります。

田原坂は高瀬から熊本に大砲を運ぶことができる唯一の道。地図を見ると、田原坂の西側の谷筋(現在では鹿児島本線が通っている)に道をつけた方が、苦もなく通行できるように感じますが、田原坂は加藤清正が北の備えとして防御の為に築いた防御施設だったそうです。

『田原坂』の地名を知ったのは小学校に入る前でした。勿論私が勉強好きでも早熟だった訳でもありません。
子供の頃、私が育った地方の田舎では、居酒屋で飲み会をする事は稀で、よく父の仕事仲間数人で家で飲み会をしていました。その頃はカラオケは勿論ギターなどはありませんでしたので、ある日、家での飲み会のとき、父の同僚のひとりが無伴奏で、

  雨は降る降る じんばは濡れる
    越すに越されぬ 田原坂

  右手
(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱
    馬上ゆたかな美少年


と歌い始めました、哀愁のある曲調と『田原坂』という地名がその時から記憶に残り続け、それから何十年も経って、もう既に若くはないですが、この地を訪れました。

田原坂周辺地図
高瀬の戦いで菊池川を突破した明治政府軍は境木付近に前線基地をおき田原坂の攻略を開始しました。
薩摩軍は田原坂を死守しないと最新鋭の大砲が熊本に入る為、田原坂に沿って布陣し、明治政府軍は田原坂の西側の斜面から薩摩軍の横っ腹を衝く形で攻撃しました。

・本地図はカシミール3DによりGPSデータを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。

田原坂攻撃官軍第一線陣地跡
国道208号線沿いにある明治政府軍の陣地跡
ここから幾多の兵士が木葉川の支流(滑川)沿いに続く三池往還を進み出撃して行きました。


滑川沿いに続く三池往還


豊岡眼鏡橋
享和2年(1802)に架橋されました。明治政府軍の兵士達はこの橋を渡り写真右上に見える田原坂を目指しました。
西南戦争で戦死した明治政府軍6923名のうち、多くの兵士がこの橋を渡って進軍し、二度とこの橋を歩いて帰る事はなかったのだと思います。


写真左:田原坂入口
写真右:一の坂


切通しの道筋
田原坂の道筋は切通しというか、掘り下げた凹型の道筋になっている部分があります。これは見通しを悪くして敵が進軍しにくくし、防御する側は攻撃しやすくするという、加藤清正の時代に防御の為にあえてこのような構造にしたとの事です。


写真左:二の坂
写真右:三の坂


田原坂峠手前


田原坂峠


この僅か数100mの坂を巡って、4000余名の命が失われました。

田原坂公園付近から西側を望む
この西側の斜面で一進一退の攻防が繰り広げられました。


田原坂公園 西南役戦没者慰霊之碑
写真左:薩摩軍戦没者   7186名
写真右:明治政府軍戦没者  6923名




田原坂公園 弾痕の家(復元)
明治10年(1877)3月4日から17昼夜続いた田原坂の戦いでは、一日平均32万発の銃弾が飛び交ったと言われています。


歴史に "もしも" は無いですが、仮に薩摩軍が勝利していたら、それ以後の歴史はどうなったのだろうかと思わずにはいられませんでした。
それにしても、歴史は皮肉だと思います。徳川幕府を終焉に導いた旧薩摩藩の盟友同志が10年の後に袂を分かち武力をもって戦い。700年近く続いた武士の世を完全に終焉させて、近代国家への道を歩き始めました。といっても武力という事では武士から軍隊に形態が変わり、より強い武力を持つようになったと言ってもよいと思います。
そして日清戦争・日露戦争・太平洋戦争と突き進んで行くことになりました。ただ、歴史のなかに何度も繰り返し出てくる "戦争" には、そこに居合わせた多くの人達の犠牲と、その人達の帰りを待っていた多くの家族があった事は忘れてはならないと思います。

注:
田原坂公園の中に田原坂西南戦争資料館が在ります。当時の装備、布陣図、発掘された銃弾などが分かりやすく展示してありました。
展示内容を転載するには許可が必要らしく、施設内の展示に関しては割愛させて頂きました。

その展示のなかで政府軍・薩摩軍ともに当時の兵士の写真やそれをベースにしたと思われる服装・装備のマネキンの展示があったのですが、明治になって西洋化が進んだと思っていましたが、足元はなんと両軍ともに "草鞋" を履いていました。「えっ‼」ていう意外な感じを受けました。

田原坂から味取新町宿(植木)へ

田原坂の峠を越えると、植木までは多少のアップダウンはあるものの、台地の上の平な道です。


七本柿木台場薩軍墓地
鹿児島本線田原坂駅から300~400mくらいの台地の所にあります。
政府軍が田原坂を越えてからも、吉次、木留、植木などで戦いが行われ続けました。
この墓地には薩摩軍311名が埋葬されているそうです。

舞尾の板碑・乃木大将記念碑
味取新町宿に入る手前に在ります。
左の板碑は高さ2m×幅2mあり6体の地蔵立像、その下に座像1体が線刻されています。文明9年(1477)と線刻されています。石の上側に薄っすらと線が見えて、お地蔵様が確認できます。

右の乃木大将記念碑は、明治10年2月22日、田原坂を越えた乃木少佐が率いる14連隊は、熊本城に急ぐ途中、向坂で薩摩軍と遭遇し開戦。河原林少尉に軍旗を巻き負わしてこの地まで退却。
河原林少尉は向坂で戦死し軍旗が薩摩軍に陷た事を知り、引き返して返線しようとするも、部下に止められ木葉まで退いたとの事です。乃木希典はこのとき軍旗を奪われた事は痛恨の極みで、生涯苦しんだとの事です。

味取新町宿(植木)
ここから豊前街道を歩きます

瀬高で豊前街道と別れ三池往還を歩いてきました。味取新町宿で三池往還は再び豊前街道と合流します。

元々、豊前街道の宿場町はこの合流地点の北3kmほどの "味取" という場所でしたが元禄年間に、豊前街道と三池往還が合流するこの地に移され "味取新町" と言われました。近くに大樹が茂る "植木の森" があったことから "植木町" と呼ばれ町名になりました。

豊前街道・三池往還追分
歩いて来た三池往還を望む
現在は道路改修が行われ、豊前街道は緩やかなカーブで三池往還(国道208)と接続していますが、かつて豊前街道ははこの地点で枡形の様にクランク状に曲がっていました。

豊前街道の熊本方面を望む
直線的な道路ですが、昭和6年に部分修正された地図をみても植木天満宮まで500mほど続く直線道でした。

植木天満宮
追分から直線的な道を進み、植木天満宮の所で東側の道に入ります。

植木から熊本城下へ

Google Mapを見ると、植木天満宮から続く坂道に "向坂" と書いてあります。乃木少佐が薩摩軍と遭遇し交戦した場所です。

河原林少尉戦死の地
上記、舞尾の板碑・乃木大将記念碑の項でも書きましたが、この地で乃木少佐が率いる14連隊が薩摩軍と遭遇して交戦し、軍旗の旗手、河原林少尉が戦死した場所です。ここから舞尾の板碑・乃木大将記念碑までは1.5㎞ほど離れています。

阿蘇山遠望
住所としては熊本市北区明徳町付近です。熊本といえば熊本城と並んで阿蘇山が思い浮かびます。これまでも見えていたのかも知れませんが、ここで初めて阿蘇山を見る事ができました。


明徳官軍墓地
阿蘇山が見えた場所の直ぐそばに、官軍墓地がありました。

説明板によると、現在122基の墓石があります。戦死の日は明治10年3月20日、田原坂が陥落した日です。
政府軍は一気に熊本城下まで攻め込もうとしますが、向坂で薩摩軍の猛反撃にあい、植木まで撤退し、ここから先には進軍できませんでした。この日から4月15日まで植木の町を南北に分断して両軍が対峙しました。




徴兵令が発せられたのは明治6年(1873)です。自分の意思とは関係なく徴兵され、訓練もそこそこに戦争に駆り出され、この地で戦死しました。
埋葬されている兵士達の出身地は熊本県から山形県まで全国に広がっています。もしかしたら皆さんのご先祖様もこの地で眠っているのかもしれません。

御馬下の角小屋(みまげのかどごや)
植木と熊本城下の中程の所にあります。
江戸時代から残る庄屋屋敷で熊本市指定有形文化財に指定されています。
当時、奥座敷は島津・細川藩公の参勤交代のときなどには休憩所として使用されていました。
その為、庄屋さんが質屋・酒屋の商いをする町屋部分と殿様を迎える座敷部分が組み合わされた珍しい構造をしているそうです。
また説明員の方がおしゃるには、天璋院篤姫も徳川家定に輿入れするとき豊前街道を北上し、ここで休憩したそうです。

街道に面した場所にある 四方寄六地蔵付庚申塔


写真左:街道に面した正面
写真右:裏手の御成門




下の左の写真の旗の様な布地に 紋 が見えますが、島津家から "丸に十の字"の紋を許されましたが、恐れ多いとの事で 十 ではなく T にしたそうです。


島津・細川藩公が使った奥座敷


殿様専用トイレ
便器の下には砂を厚く敷き詰めた砂箱が置いてあり、排せつ物をその度ごとに藩医が調べていたそうです。

右側の小さな衝立は "衣掛け" と言われて、着物の裾をかける為に使いました。ですので衝立がある方が後ろになります。諸説ありますが、"衣掛け" が変化して "きんかくし" になったと言われています。

また、江戸時代から続く都市伝説の類かも知れませんが、ここで休憩した天璋院篤姫は当時18歳の若い盛りでしたが、ここで用を足したとき、小水の音がかなり大きかったそうです。若いですし健康状態はかなり良かったのでしょう。

柱に残る銃口の圧痕
西南戦争で使用されたスナイドル銃、スペンサー銃の銃口のサイズと良く一致するそうです。政府軍・薩摩軍双方ともにスナイドル銃、スペンサー銃を装備していたのでどちらの軍が付けたのかは決められないそうです。

それにしても、嘉永6年(1853)に天璋院篤姫が豊前街道を北上して徳川家定に嫁ぎ、その後、慶応4年(1868)薩摩藩は篤姫の婚家である徳川討幕を目指して北上し鳥羽伏見の戦いを端緒として戊辰戦争に突き進み、明治6年(1873)征韓論に敗れた西郷隆盛はこの道を南下。その後、明治10年(1877)旧薩摩藩士族の不満が爆発し西郷隆盛率いる薩摩軍は北上。それを阻止するために大久保利通を中心とする政府軍が南下し西南戦争が勃発。かつての盟友達が相まみえる戦争になりました。
四半世紀の間にこの街道を、歴史に名が残る人も、残っていない人達も多くの人達が豊前街道を北に南に行きかい歴史がつくられました。運命という言葉で一括りにするのもなんですが、歴史とは皮肉なものです。

山伏塚
熊本城から北に3㎞程の所にあります。
加藤清正が熊本城を築城するとき、上方から山伏を招いて地鎮祈祷をしました。祈祷は無事終わり、帰る山伏を送る為に開いた宴席で、山伏が城の構造についてふと話をしたため、城の秘密が漏れると考えた家臣達は山伏のあとを追い、熊本城の北、現在の池田町で山伏を切り殺しました。
この塚は山伏を葬った墓と言われています。


熊本城下
 


熊本城まであと1.8㎞の地点まで来ました。ここまで来る車も多くで都会に来たという感じがします。

熊本城には北側の新堀橋を渡って入ります。豊前街道は熊本城の西側を城に沿って続いています。

橋を渡るとすぐに新堀櫓があります。右の写真の人物と高さを比べるとその石垣の高さに驚かされます。


百間石垣


旧細川刑部邸
熊本城の三の丸にある武家屋敷です。細川刑部家の祖は細川忠興の五男の細川興孝との事です。熊本地震(2016)の影響なのか休園中でした。




細川刑部邸を過ぎ、ゴールの 里程元標跡 まで台地の緩やかな下り坂を下ってあと少しです。


清爽園
坂を下った所に清爽園という庭園が在ります。この庭園は明治11年(1878)明治政府の熊本鎮台が参加した佐賀の乱、台湾出兵、神風連の変、西南戦争の戦没者を祀る記念碑が建立された事に始まる庭園です。
その庭園に里程元標があります。


里程元標跡
ゴールです。福岡県山家の長崎街道と豊前街道の追分から、南下して豊前街道を歩き、みやま市の瀬高の豊前街道から三池往還を歩き、熊本県植木で豊前街道に合流してここまで歩きました。

この里程元標跡は元々は熊本城の西の玄関口である新一丁目御門があり、肥後藩(熊本)の政令を掲示する広場=札ノ辻でした。
九州の豊前・豊後・薩摩・日向街道の距離はこの札ノ辻を基点に里数が測られ、一里ごとに街道の両側に榎を植えて里数木と呼んでいました。
五街道であれば東京の日本橋の様な場所で、現在でも一里木、二里木などの名称のバス停や駅名があるそうです。


里程元標から歩いて直ぐの所に路面電車の駅があるので、そこから熊本駅まで行って豊前街道・三池往還の歩き旅は終わりました。

この後、引き続き薩摩街道を歩いて、鹿児島 鶴丸城御楼門 まで歩きました。

エピローグ
 

小学校入学前に知った地名 田原坂 を訪れました。
歴史を知らなければ、そして哀愁をおびた田原坂の歌を聞かなければ、なんの変哲もない小鳥がさえずる緩やかな尾根筋の坂道でした。

END

2025年2月16日 作成

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