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電子足跡:北海道縦断歩き旅
 稚内から宗谷岬へ 日本最北端の地


プロローグ

北海道をほぼJR鉄道路線に沿って函館から宗谷岬まで歩いて縦断しました。

このページは稚内から日本最北端の宗谷岬まで歩いた最後のページです。
稚内から宗谷湾に沿う 国道238号線にを歩き、豊磯漁港からは宗谷丘陵と宗谷湾がせめぎ合う海食崖の下の道を進みます。
これまでは北海道のほぼ内陸部を歩いて来たので宗谷湾を見ながら歩く道は新鮮です。これから日本最北端の地に向う高揚感に加え、 前を見ると宗谷丘陵の日本離れした海食崖の風景、左を見れば宗谷湾、振り返ると利尻富士が見える、北海道縦断歩き旅のフィナーレを飾る美しい道です。

注:厳密には日本最北端の地は宗谷岬の西側1kmほど西にある弁天島ですし、北方領土を含めると択捉島のカモイワッカ岬が最北端の地です。

注意点
稚内から先に鉄道路線はありませんので、稚内駅前にある ”道の駅 わっかない” に車を置いてスタートです。

宗谷岬は観光地ですので宗谷岬と稚内駅前バスターミナル間は路線バスがあります。私が歩いた6月24日は1日7便のバスがありました。観光シーズンとオフシーズンでは便数が異なるかもしれません。歩くときは事前に調べた方が良いと思います。

この日は快晴でしたが北風が冷たく厚手のウールのシャツを着ていましたが少々寒かったです。ウインドブレーカーを持参した方が良いと思います。


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↑地理院地図(電子国土Web)に詳細ルート地図とポイントの写真が開きます。
 

GPSログを
GoogleEarthでツアーする方法
 

注:この地図は収集したGPSログをカシミール3Dにより国土地理院地形図に表示した画像を加工したものです。

稚内

日の出と共に稚内をスタートです。
稚内は最北端の寒くて人もまばらな寂しい街というイメージでしたが、活気のある街です。稚内港に係留されている船舶も多いです。
厳しい気象条件の中でも人が生活しているのを見ると、人間ってたくましいと感じます。
と言っても真冬に訪れた訳ではないので、通り過ぎるだけの旅行者の勝手な感想です。

稚内港のうしろに昨日訪れた、昭和53年(1978年)に建設された開基百年記念塔が見えます。





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声問付近

稚内駅から8km程歩くと宗谷湾にチョコッと突き出た声問岬付近に来ます。
想像ですが、この地形は声問川の河口なので川が運んだ砂礫で出来た砂州なのかなと思いました。

この付近から振り返ると歩いて来た稚内市街と利尻富士が良く見えます。




松浦武四郎宿営の地

説明板によると、
本ホームページ 名寄から天塩中川へ のページで紹介した北海道の命名者である松浦武四郎は,弘化3年(1846年)、安政3年(1856年)、安政5年(1858年)に宗谷地域を訪れ東浦・宗谷・声問・恵北・抜海に宿泊して調査し「古以登以日誌」「北岬日誌」等を残しています。
この地はその声問(古以登以)に宿泊した場所との事です。

松浦武四郎が書いた日誌には
「コイトイは近世の通称にして、其名義は此地低きが故に其上を波が打越るによって号(なずく)るなり。」
との記述があるとの事です。

インターネットで検索した 「白糠のアイヌ語地名」 に掲載されていたのですが、
アイヌ語では コイ(=波)・ドィエ(=崩れる・壊れる) で ”波が崩す” ”波が越える” の意との事。川の下流が海岸砂丘の後を横流ししている処で、海波が荒い時に、その砂丘を破って川に打ち込む処から呼ばれた名前であると解説されていました。

地理院地形図をみると、確かに宗谷湾に向かって北に流れて来た声問川がこの地で西に流れを変えて砂丘の裏側を通って宗谷湾に流れ込んでいます。




注:この地図は国土地理院地形図をカシミール3Dにより表示した画像を加工したものです。

狐がこんなにそばまで!

住民の方達にとっては日常の出来事なのだと思いますが、
声問の街を越えて廃屋の軒下で休んでいたら、キツネが近づいて来て足元に座ってしまいました。
北海道に来てこれまで何度かキツネに遭遇しましたが、これまでは10m~20m位離れた所で私の方を見ていたのですが、まさか手が届く所まで近づいてくるとは思いもよりませんでした。

最初は少々怖かったのですが、狐の方から私に攻撃をする様子は無かったので暫く様子を見ていました。
おそらくですが狐は人間が餌を持っていて、滅多な事では攻撃してこないと知っているのだと思います。
野生動物にエサをやるのは良いことではないと聞いたことがあったので、ただお互いに見ているだけでしたが暫くしたら草原の方に行ってしまいました。
野生動物とここまで近くで対峙したのは生まれて初めての経験でした。

注:狐はエキノコックスが寄生しているので、体に触れたり排泄物に触れない様にしてください。



「ごんぎつね」について
まだ子供達が小さかった頃、児童文学作家の新美南吉の 「ごんぎつね」 を絵本で読んであげた事があります。
その時は『いくら何でも狐がこんなに人のそばに居て、人間と関わるなんて・・・』と思っていました。
さすがに狐が栗や松茸を持ってくる事はないと思いますが、こんなにそばまで近寄ってくると、かつて狐は犬や猫の様に人間のすぐそばに当たり前に居て人間と深く関わっていた動物なのだと思いました。

屋根が崩れ落ちた廃屋
何の建物だったのかは分かりませんが、屋根が崩れ落ち荒れるに任せて放置された建物。

こんな風景にも ”北の最果ての地” を感じます。

稚内空港付近

国道238号線は観光地でもある宗谷岬に行く主要道路であると同時に稚内空港から稚内市街に向かう道路でもあります。道路は良く整備されていて車道と並行して側道が設けられ歩き易い道です。

今回の北海道縦断は大半の道を内陸部を歩いて来たので海を見ながら歩くのは新鮮な感覚です。
前方にはこれから向かう宗谷岬方面が、左手には宗谷湾が、右手には宗谷丘陵のなだらかな曲線が、そして振り返ると利尻富士が見えます。

「真っ直ぐ前だけを見て歩く。」というスポーツ根性漫画のような精神論はさて置いて、横を見たり、振り返って見たり、時には下を見たり、ウロウロ・キョロキョロする歩きも味わいがあります。
もう少しでゴールだという高揚感と目に映る風景の美しさが頭の中で入り乱れ、説明できない感情が支配しています。





下の写真を見て ”♪アスファルトに咲く花のように・・・” というフレーズを思い出す方も多いと思います。
この光景を見たあと、岡本真夜さんの "Tomorrow" が頭の中で暫く鳴り続けました。


富磯漁港付近

増幌川に架かる増幌橋渡ると、風景は海食崖が海岸線まで迫る風景になります。
宗谷丘陵が海に切れ落ちる地形です。ここから宗谷岬まではこの海食崖の下の海岸線までの僅かな平地の中に続いています。

そして振り返ると宗谷湾の向こうに利尻富士が稚内の街を包み込む様に裾野を広げ、広大な空と大地と海に囲まれた自分という小さな存在を感じます。





この日は神社のお祭りで、それも一つの神社のお祭りという事ではなく付近に鎮座する複数の神社のお祭りだったようです。船には大漁旗が掲げられ、見かける神社には幟が建てられ紅白の幕が張られていました。

この時間はまだ10時頃だったのですが、小学生の女の子二人がランドセルを担いで足早に追い越して行きました。「学校は終わったの?」と聞いたら、「今日はお祭りなので授業は終わったの、大切な神社のお祭りなので学校は休みになるんです。」と言って足早に過ぎ去って行きました。

この地域の方達の多くは漁業を生業にして、危険と隣り合わせの労働であり、気象という人間にはコントロール出来ない自然を相手にしているので、現代になっても神様を大切に祀っているのでしょう。私の様に困った時の神頼みとは全く次元が異なる、営々と続く神様との関係なのだと思いました。



宗谷村清浜付近

間宮林蔵渡樺出港の地
宗谷岬手前3kmほどの所にあります。ここからサハリン(樺太)の南端までは直線距離で44kmほどです。

説明板のよると
間宮林蔵は2回樺太を探検しています。
1回目は文化5年4月13日(1808年5月8日) 松田伝十郎とともに宗谷を出発。シラヌシから東海岸を調査した後、西海岸のノテトで伝十郎と合流。間宮海峡の存在を確認して、閏6月20日(新暦8月11日)にシラヌシから宗谷に戻った。

2回目は宗谷帰着から20日ほど後の7月13日(新暦9月3日)。単身で樺太(サハリン)に渡って6人のアイヌを雇い、西海岸を北上。トンナイで越冬し海峡を確認した後、ノテトから交易に向かうニブフ達に同行して大陸のデレンに渡ってその年の晩秋に宗谷に帰って来たとの事です。

(筆者注:ニブフ=サハリン北部、アムール川下流域に住む少数民族。)

参考 松田伝十郎について
間宮林蔵と一緒にサハリン(樺太)に渡った松田伝十郎は新潟県柏崎市米山町鉢崎の出身で鉢崎は北国街道の宿場です。松尾芭蕉が奥の細道でこの地を訪れて鉢崎のたわら屋に宿泊しています。

鉢崎の岬には松田伝十郎の碑が北を見ながら立っています。左の写真の右側に小さく見える家並が鉢崎です。

その碑の説明板には間宮林蔵は樺太東岸を北上し、松田伝十郎は西岸を北上して、林蔵と合流する3日前にラッカ岬に立ち樺太海峡を発見したと書かれています。

宗谷岬

間宮林蔵渡樺出港の地から1km程歩いて、岬と言うほどではないですが少し海に突き出た場所に来ると海を挟んで宗谷岬のモニュメントが小さく見えます。ここからゴールまでは直線距離であと2kmです。



ゴールが見えるともう冷静ではいられません! 気が急きます! 観客は誰も居ませんけど、マラソンで言えば42km走ってスタジアムに入ってきたような気分です。 

あと100m。


あと10m。

注:宗谷岬に到達したのは昼前でしたが、観光客が多く、観光客がいないモニュメントを撮影する事が出来なかったので夕方再度車で訪れて撮影したものです。

ゴール! って、 何?この石?
モニュメントの後ろ側の護岸の石です。モニュメントより更に数m北の風景です。本当の最北端の地です。

他の観光客が怪訝そうな目で私を見るのも構わず、この石を何度も撫で回しました。

出来れば抱き付きたい気持ちでしたが、そこまでやると、さすがに危ない親爺になるので止めました。

エピローグ

2019年5月26日から6月24日まで北海道をほぼJRの路線に沿って函館から宗谷岬まで歩きました。
GPSの測定値で総歩行距離は 727.3kmでした。
宿泊は車中泊でだいたい5日間歩いて1日休んで洗濯と休養するという感じでした。

最初の函館から森までの2日間は北海道とは思えない猛暑で歩くのがかなり辛かったです。それ以後、何日か雨に降られましたが、北海道らしい爽やかな天気で天候にも助けられました。

歩いている時にトラブルは何も無かったと言えば嘘になります。余市を越えたあたりから古傷のある左足が痛む様になりそれは宗谷岬まで続きました。ただ足に肉刺(まめ)が出来なかったのは幸いでした。

1か月間歩くという経験は初めてですし、歩くという行為は足が痛い、疲れる、暑いなど それなりに辛いです。
でも、その辛さがあってこそ、風景の美しさを感じ、そよ風の心地良さを感じ、歩き終わった後の入浴とビール、そして何より歩いた後の達成感を得る事が出来ます。何ものにも変えられません。

本ホームページのメールやSNSで応援して下さった皆さん。私に気づくとセンターラインにハンドルを切って下さったドライバーの皆さん、旅の途中で出会った皆さん本当に有難うございました。

そして、こんな事が出来る身体に産んでくれた両親。一か月以上家を空けても嫌な顔もせず送り出してくれた妻に感謝です。

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ふろく 宗谷丘陵の風景


宗谷岬から南に続く大地は 「宗谷丘陵周氷河地形」 と言われています。稜線はなだらかで谷も浅く独特な地形です。ヨーロッパの田園やモンゴルの草原の様な風景で日本離れした風景です。

この地形は今から約1万年前に終わったウルム氷河末期に形成されたと言われています。
岩石の割れ目に入り込んだ水が凍結と融解を繰り返しているうちに岩石を砕いて、急峻で荒々しい地形もなだらかな地形へと変化するそうです。(ホームページ 稚内観光情報の記述を要約)

本の題名は忘れたのですが、2017年に亡くなった北海道大学教授で地図や旧道、廃線跡歩きのエッセイストだった堀淳一氏はこの風景を「女性の身体のようだ。」と表現しました。名言です。






END

2019/10/15 作成

Column


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