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電子足跡:北国街道歩き旅
 田中宿から追分宿
  北国街道始終点分去れの道標へ


プロローグ


北国街道最後の歩きです。北国街道の始終点 旧中山道との追分 ”分去れの道標” までの歩きです。

田中宿を過ぎると、現在の東御市には江戸相撲の大力士 雷電為衛門の生家と墓所が在ります。更に進むと往時の面影が色濃く残り、道の向こうから島崎藤村が歩いて来るのではないかと錯覚するような小諸城下を通り、小諸を過ぎた辺りからは現在も噴煙を上げる浅間山の雄大な姿を望みながら歩く事が出来る良い道です。

都道府県
区間 歩いた日 GPS移動距離 備考
長野県 しなの線
田中駅~信濃追分駅
2020年11月18日 24.5km

↑GoogleMapと地理院地図にGPSログと写真がマッピングされた地図が開きます GPSログをGoogleEarthでツアーする方法
カシミール3D  国土地理院
(GPSログをカシミール3Dにより国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)

田中宿


前日は日が暮れてから田中宿に到着しました。日が暮れて暗い道を歩くと、風景が楽しめない、史跡や歴史的建造物に気が付かないなどで街道歩きの魅力が半減してしまいます。

田中宿の中心地は田中駅前の交差点の東側付近に在ったらしいのですが痕跡には気が付きませんでした。
旧北国街道の道は電線が埋設してあってスッキリとした空が広がっています。

宿場の中心地を離れると旧街道らしい道が続いています。旧街道らしいと言っても何がどう新しい道と違うのか?と思いますが微妙にカーブしていたり、少し道が狭かったり、どことなく違います。

力士雷電の碑


田中宿を離れ、東御市滋野地区の交差点に江戸相撲の大力士 雷電為衛門 の碑が建っています。雷電はこの地で明和4年(1767年)に生まれ、天明4年(1784年)17歳で江戸相撲に加わるまでこの地で過ごしました。



碑がある交差点を北に曲がって1.5km程離れた所に雷電の生家と少し離れて墓所が在ります。
生家の説明板に書かれていた事ですが、江戸相撲本場所21年間に254勝10敗の成績を残したそうです。身長がなんと197cmで当時の男性の平均身長が157cmなのでかなりの大男だったとの事です。因みに白鳳の身長は192cmです。



小諸に至る道


高峯山、黒斑山、そして浅間山の連山の裾野に続いている開放的な道を進みます。

注:あぐりの湯 こもろ から写した写真です。

有名な史跡や神社・仏閣はありませんが、街道筋のちょっとした光景に旧街道の面影を感じる事が出来ます。





布引観音の碑  牛に引かれて善光寺
この大きな石碑は小諸城下に入る手前の小さな谷の所にあります。
布引観音は千曲川の対岸の河岸段丘崖の絶壁にある天台宗の寺院です。

川で晒していた布を牛が角に引っかけて走り去り、強欲で信仰心のない婆さんが牛を追いかけていったら善光寺にたどり着いて、それ以後、日頃の行いを悔い改め信心する様になったという、「牛にひかれて善光寺」の逸話の舞台になったお寺です。牛は布引観音の化身だったとい事です。

小諸城下


小諸城下の北国街道を歩くと違和感を感じるのですが、城跡から城下町を歩くと少しずつ道を登って城下町より城の方が低い場所にあります。

小諸城は千曲川の河岸段丘の上に築城されています。
この場所は浅間山からの溶岩や火砕流の堆積物で出来た台地を千曲川が削った断崖や裾野に刻まれた田切地形を天然の掘り・石垣として使っています。本丸は千曲川の断崖の上、現在の懐古園に在り、大手門(城の正門)はそこから少し上に登った所にあります。
その為に武家屋敷や城下町の方が城より高い場所に発達しました。別名を穴城とか鍋蓋城と言われる由縁です。

小諸本陣

小諸城の立地は上記の通りですが、本陣も田切地形の谷を登って直ぐの上り坂の所にあります。
説明版によると、江戸時代後期(1801~1900年)に建築され、当時としては珍しい桟瓦葺の総二階建ての建物です。歩いた時は補修工事中で一階部分は白いシートで覆われていました。


脇本陣 粂屋

本陣から100m弱離れた所に脇本陣があります。現在でも旅館・茶屋として営業しています。
当日は残念な事に茶屋は休みでした。インターネットで検索したら粂屋のホームページがありました。写真をみると時代を経た重厚な柱と梁で建てられた落ち着いた部屋が掲載されていました。


小諸城 大手門

現在は大手門公園として整備されています。
大手門は城の正門です。前記の様に小諸城の本丸は千曲川の段丘涯の上にありましたので、大手門の方が本丸より高い場所にあります。



 小諸なる古城のほとり (島崎藤村 落梅集)
   小諸なる 古城のほとり
   雲白く 遊子(ゆうし)悲しむ  (注:遊子=旅人)
   緑なす 蘩蔞(はこべ)は萌えず
   若草も 籍(し)くによしなし
   しろがねの 衾(ふすま)の岡辺
   日に溶けて 淡雪流る

街道沿いの城下町


小諸城下の北国街道は趣のある建物が多くの残っています。



大和屋紙店 島崎藤村も紙を買った!
説明板に、歌人の俵万智さんの小説トリアングルの一節とともに紹介されていた事ですが、島崎藤村が小諸で教師をしていたときに紙を買いに来た創業260年以上の紙店。

島崎藤村は明治32年 28歳で小諸に赴任して、同年に結婚しています。既に 若菜集 などを出版していますが小諸在住の頃から小説へと移行して行ったとの事です。

浅間山


小諸市街を過ぎると家並みの間の左手に今も噴煙を上げる浅間山が見える様になります。
裾野が伸びた山を見ると何故か気持ちが華やぎ開放的な気持ちになります。

まるで新民謡の 「小諸馬子唄」 の一節の様な風景です。

 小諸出て見りゃ 浅間の山に
 今朝も三筋の 煙建つ








浅間山と言えば天明3年7月8日(1783年8月5日)の大噴火です。
現在の風景からは想像も出来ないですが、直接的な被害だけでも 死者1443名 流家数975棟もの被害を発生させました。それ以外に関東平野一円に火山灰を降らせ、利根川水系に水害をもたらし、そして既に始まっていた天明の飢饉に追い打ちをかけ、当時の日本の生活基盤を揺るがす大噴火でした。

旧街道を歩いていると ”天明3年” と刻まれた石仏や石柱、或いは天明の飢饉の供養塔などが多い事に気が付きます。
本ホームページにも下記の4箇所掲載しています。

 日光街道 慈眼寺の石仏群
 日光例幣使街道 五料宿 五料宿関所跡
 奥州街道 沢辺宿 三界万霊供養塔
 奥州街道 小湊宿 天明の飢饉供養塔

奥州街道小湊宿は浅間山から直線距離で550km程離れていますが、供養塔の説明版には「飢饉で家屋の半数が空き家になった」と書かれていました。

ゴール 分去れの道標


いよいよゴール地点です。と言っても特に何がどうこうと言う様な風景ではありません。ゴールの風景は目で見るものではなくて心で感じるものなのでしょう。
2018年6月13日に中山道を歩いて以来約2年半振りの再訪です。北国街道は中山道との分去れの道標が始終点です。

”分去れ” とは道が分岐する場所の事で一般的には ”追分” の事です。
以前、中山道を歩いたとき軽井沢側から歩いてこの地点を通ったときは、これまで一緒に中山道を歩いて来た人が、ここで片や京都方面に向かい、片や善光寺方面に向かうという状況ですと 確かに ”分去れ” だなと思いました。
今回、善光寺方向から歩いて来ると 中山道を行きかう人達に出会うので、分去れの道標というより ”出会いの道標” と言った方がふさわしいと感じました。
「同じ場所でも見方を変えれば全く別の概念になるのだな~。」と思い至りました。
2年半経って、私も少しは成長しているのかもしれません。

北国街道から中山道の分去れを撮影


分去れの道標
写真 左側が中山道 右側が北国街道


エピローグ

新潟湊から歩いて来た北国街道歩き旅はここで終わりです。
信濃川河口の港から新潟市の大都会を通り、砂丘の道を進み、日本海の海岸線を歩き、一転して妙高山・黒姫山を望み、善光寺をお参りし、千曲川を遡り、浅間山の噴煙を見上げ。
変化に富んだ道でした。

分去れの道標を東に進めば江戸へ、西に進めば京都に続いています。
画面下側の ”To Kyoto” のボタンをクリックすると、分去れの道標から中山道を京都に行く道のページにリンクしています。
まだ歩き疲れていなかったら ”To Kyoto” のボタンを押して中山道の歩き旅を楽しんでください。


END

2021年02月06日 作成

Column


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