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電子足跡:北国街道歩き旅
 出雲崎宿から柏崎宿へ


プロローグ


このページは北国街道を 佐渡金銀の荷揚げ湊であり、清貧の僧 良寛の生家がある出雲崎宿から柏崎刈羽原発にほど近い柏崎宿まで歩いたページです。

旧北国街道はほぼ日本海の海岸線に沿って続いています。
爽やかな潮風に吹かれて日本海を見ながら歩く道は爽快感があります。

途中、世界最大級と言われる柏崎刈羽原子力発電所を通ります。
旧北国街道の道筋は柏崎刈羽原子力発電所の敷地内を通っていたので勿論今は歩く事はできません。原発の敷地に沿って新しく作られた道路を歩いて進みます。

車を柏崎駅前に駐車して、越後線で出雲崎駅まで来ます。出雲崎駅は北国街道が通る海岸線から離れているので更にバスに乗り良寛堂前まできました。

都道府県
区間 歩いた日 GPS移動距離 備考
新潟県
出雲崎-柏崎
柏崎駅駐車
柏崎駅-出雲崎駅-バス-良寛堂前
2020年4月29日 28.0km

↑GoogleMapと地理院地図に
GPSログと写真がマッピング
された地図が開きます
GPSログを
GoogleEarthでツアーする方法

北国街道_出雲崎-柏崎 概略ルート地図
カシミール3D  国土地理院
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)

出雲崎宿

出雲崎はかつて佐渡金銀の荷揚げ湊、北前船が寄港する湊として栄えた宿場で、江戸時代は天領でもありました。
そして清貧の僧侶 良寛さんが産まれた宿場でもあります。

徳川幕府の財政を支えた一つに佐渡金銀山の存在がある事はよく知られています。
佐渡の小木湊で積まれた金銀はこの出雲崎湊で荷揚げされました。
荷揚げされた金銀はこの北国街道、中山道を通り江戸まで運ばれました。

妻入りの街並み
佐渡金銀の荷揚げ、北前船の発着湊として賑い、北国街道が物流の中心として利用されていた時代の面影を感じるのが街道沿いに3.6km続く妻入り造りの家屋の家並みです。





良寛生家 橘屋跡
前ページの弥彦から出雲崎では夕景の良寛堂でしたが今日は朝早く良寛堂からスタートです。

良寛は宝暦8年(1758年)出雲崎の名主橘屋の長男として生まれます。幼名は山本栄蔵と言います。
18歳で長男として名主見習いを始めたのですが、すぐに突然出家をします。
理由は幾つか伝わっていますが、名主見習いで盗賊の処刑に立ち会わされ、人の世のむごさ、命のはかなさを感じて出家したとも伝わっています。



良寛堂の裏手、海岸側に良寛の座像があります。日本海に浮かぶ佐渡を見ながら座っています。

 いにしへに変はらぬものは荒磯海(ありそうみ)と向かひに見ゆる佐渡の島なり

 たらちねの母が形見と朝夕に佐渡の島べをうち見つるかも

 この里に手鞠つきつつ子供らと遊ぶ春日は暮れずともよし




以下は良寛晩年の漢詩の読み下し文です

 少年父を捨てて他国に走り
 辛苦虎を画いて猫にも成らず
 人有り若し箇中の意を問わば
 只是従来の栄蔵生

   (注:箇中=こちゅう 物事の奥深い道理。仏教の根本精神や要諦のこと。)

 重い決意の末出家し、釈迦や道元を追慕して励んだつもりでも、
 突き放して自分を見れば、昔のままの山本栄蔵ではないか。


解釈は各人各様と思いますが、この漢詩を紹介して下さった先生は、この漢詩が良寛の悟りの深さを最も良く表していると仰っていました。

金銀御用小路
佐渡で船積みされた金銀は出雲崎湊で荷揚げされ、この小路の先にある御金蔵に一時的に保管されました。
昔はもう少し広い道だったのかもしれませんが、今ではこの小路が江戸幕府の財政を支えた道なの?と思うような狭い小路です。

松尾芭蕉と出雲崎
当ホームページの ”日本海夕日海岸歩き旅” にも書きましたが、
曽良旅日記によると、松尾芭蕉と曽良は元禄2年7月4日(1689年8月18日) 申の上刻(午後5頃)に出雲崎に到着して宿泊したと書かれています。

越後路の段には

 文月や六日も常の夜には似ず

 荒海や佐渡によこたふ天河

の二つの句がおくのほそ道に掲載されています。

街道沿いの芭蕉園 には芭蕉の銅像とおくのほそ道の句碑が建っています。
説明版には 芭蕉園の斜め向かいの大崎屋に宿泊したと書いてありました。




獄門跡
出雲崎の町はずれに 獄門跡 があります。罪人を極刑にした場所です。
ここが獄門跡と知らなくても、独特な雰囲気を感じます。

若き良寛はここで罪人の処刑に立ち会ったのでしょう。

毎年9月1日に供養祭を行って処刑された人々を弔っているとの事です。

石地宿から椎谷宿の間

出雲崎を過ぎると、海岸沿いの道が続きます。

写真左:振り返ると歩いた弥彦山が海の向こうに見えます。
写真右:久寛荘 内藤久寛生家(政治家)の長屋門 
 明治天皇行在所 多野藤岡広域圏臨海学校 の看板が掲げられていました。


歩いたのは4月29日です。雪国の遅い春がやってきました。


写真左:防風の為に板塀で囲われた民家
写真右:恋の懸橋
 岩礁にロマンチックな名前が付けられています。神話があるのですが割愛します。


椎谷宿

椎谷宿に行くには観音崎という岬を越えます。
観音崎は写真の様に岬を越える道があるのですが、出雲崎側から登る道は通行止めになっていました。登り口の隣に新しくトンネルが出来ているのでそちらを抜けて柏崎側から観音崎を訪れました。

観音崎


観音崎からの風景
写真左:歩いて来た出雲崎方面 遠くの山は弥彦山
写真右:これから歩く柏崎側 写真左側の鉄塔は柏崎刈羽原子力発電所。遠くの山は米山


椎谷宿
椎谷はかつて椎谷藩(1616~1871年)の中心地で陣屋が置かれていました。
陣屋跡は街道筋から少し外れた小高い丘の上にありました。訪れてみましたが、特に遺構は無く神社が建っていました。

椎谷宿は馬市が盛んだった宿場で明治でも馬市のときは約千~四千頭の馬が売買されていたそうです。
勿論現在ではその面影はありません。

話は少し変わりますが、
田中角栄の父角次は馬喰(牛馬商)だった事は知られていますが、田中角栄の生家は椎谷から直線距離で5km程の所にあります。
おそらく父 角次は椎谷の馬市でも牛馬を売買したのではないかと想像します。



椎谷宿側から観音崎を望む


大湊


図説 新潟県の街道(郷土出版社) の記述によると 大湊から荒浜付近はかつて砂漠の様な原野が続いていた場所だったとの事です。江戸時代後期には蝦夷地(北海道)との交易が盛んで廻船も出入りする湊だったそうです。
今は原子力発電所のそばの人家も疎らな集落に変わっていますが、良い波が来るときはサーファーが集まる海岸になっています。



柏崎刈羽原子力発電所




現在では荒野だった場所に柏崎刈羽原子力発電所があります。
海越しに見えている鉄塔とコンクリートの建屋が原子力発電所です。
北国街道は原子力発電所の敷地内を通っていました。工事で道は消滅したでしょうし、敷地内に入る事はできません。

発電所の周囲を囲む様に付けられた新しい道を進みます。
その距離5km程で歩くと1時間かかります。
直線距離で5kmは東京駅からですと西は新宿駅手前、東は錦糸町駅付近、北は日暮里駅付近、南は田町駅と品川駅の間くらいです。
如何に大きな原子力発電所なのかを実感します。

写真左:発電所の外にある原子力発電を説明する広報施設
以前見学したときは、原子炉の模型や、E=mc^2(エネルギー=質量×光速度の2乗)の数式とともに原理を説明する展示がありました。

写真右:放射線量測定設備


話は少し変わりますが、私はよくキャンプをします。キャンプのマニュアル本を読むと、食べた後に食器を洗うときは、紙で食器の油や汚れを拭き取ってから水洗いすると河川の汚れが低減してECOです。と書いてあります。その様にしていたのですが、ある時、「あれ?この紙は元は樹木だよな。樹木を伐採して紙を作っているのだよな。紙で拭き取ることが自然に本当に優しいのか?」と思うようになりました。

話をもう少し大きくすると、火力から原子力発電にする事で二酸化炭素の排出が無くなり、空気汚染もなく、地球温暖化を抑制できる。
でも一度原子力発電の事故があって広範囲に放射能が飛散すれば、広範に渡って何十年あるいは何百年とその土地に住むことすら出来なくなる。
いったいどちらがECOなのかという疑問が頭の片隅から離れません。

荒浜


荒浜は地名の様にかつては荒野だったのですが、それでも人はそこで生活を営んでいました。
図説 新潟県の街道(郷土出版社)には 安政5年(1858年)に新刻が発行された 『道中記』には ”荒浜から新潟へ下り舟 があった” と紹介されています。

北国街道は現在は車が頻繁に行き来する道に変貌し、海岸側は防風・防砂の為に松が植林されています。
荒浜を過ぎると地名も 松波 に変わります。

鯖石川
鯖石川は柏崎と荒浜を隔てる川でかつては悪田の舟渡しと言われていた渡しでした。
図説 新潟県の街道(郷土出版社)には天保2年(1831年)の渡し賃がひとり6文、馬一疋10文だったと書かれています。

かつて悪田新田と言われていましたが、名前から推測するに鯖石川の河口ですので度々氾濫していたのではないかと思います。それを傍証するように地形図を見ると小規模ですが三日月湖(沼?)が確認できます。

柏崎宿

鯖石川に架かる安政橋を渡ると柏崎宿です。

柏崎は今でも大きな都市ですが、幕末は桑名藩(三重県桑名)の越後における飛地領の中心地で、明治維新後は一時的に柏崎県が置かれていました。

昔の街並みは雁木が続く雪国の街並みでしたが、柏崎刈羽原子力発電所が立地してからは市内の中心部は大きく変貌しています。

子供の頃、柏崎駅に降りると、甘いバターの香りが鼻をくすぐりました。
今は ブルボン に名前が変わりましたが、北日本食品のお菓子工場が柏崎駅前にあって、そこからお菓子の都会的な香りが流れてきていました。



閻魔堂
市内に閻魔堂があり閻魔様が祭られています。
えんま市は毎年 6月14日から16日までの3日間開催されるお祭りで、閻魔堂がある本町通りに露店が2kmにわたって並びます。
もう何10年も前ですが、子供の時に一度えんま市に行った事があります。その時の人混みは今でも記憶に残っています。そして進学して東京に出て、通勤電車に乗るまではそれ以上の人混みを経験したことはありませんでした。


エピローグ

今日歩いた椎谷から大湊付近の道は子供の頃に何回か歩いた事があります。
勿論その頃はそこが北国街道とは知らず海岸沿いの田舎道としか思っていませんでした。
この歳になって歩いても、原子力発電所が出来た事と空き家が目立つ様になった以外はそれ程大きく風景は変わっていませんでした。

子供の頃に見た、日本海に浮かぶ佐渡島の夕景は今も記憶に残っています。


END

2021年04月25日 良寛 少年父を捨て・・の漢詩を追記
2020年12月02日 作成

Column


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