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電子足跡:北国街道歩き旅
 柏原宿から善光寺宿へ
  歩いて善光寺参り


プロローグ

このページは北国街道を長野県 柏原宿から善光寺 まで歩いたページです。

古間宿から牟礼宿の間の北国街道は往時の面影が良く残る山の中の道です。
歩いたのは秋でしたので紅葉が美しく涼しい風が吹き抜けとても良い道でした。

またこの道は善光寺を参拝する道です。かつての人々も心の安らぎを求めて同じ道を歩いて参拝したと思うと何処かこれまで歩いた旧街道とは少し気持ちが違います。
と言っても多くの人達は信仰心もさることながら、参拝後の精進落としを楽しみにしていたのかもしれません。そこは現代人の観光気分と同じなのかなと思います。

柏原宿は俳聖 小林一茶 が生まれそして亡くなった地です。街道沿いには一茶の旧宅が残り、少し離れた俳諧寺にお墓があります。


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都道府県
区間 歩いた日 GPS移動距離 備考
長野県 しなの線黒姫駅-長野駅 2020年11月14日 25.8km

↑GoogleMapと地理院地図に
GPSログと写真がマッピング
された地図が開きます
 
GPSログを
GoogleEarthでツアーする方法
カシミール3D  国土地理院
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)

柏原宿 小林一茶 出生・終焉地


江戸期の俳聖 小林一茶 はここ柏原宿で生まれ、そして亡くなっています。

 やせ蛙 負けるな一茶 これにあり

 名月を とってくれろと 泣く子かな

 我と来て 遊べや親の ない雀

 やれ打つな はえが手をする 足をする

どこかで一度は聞いた事のある俳句です。半径10m位の目の前の小さな情景を詠んだ句が印象的です。松尾芭蕉の句の印象とは明らか異なっていて、たった17音の文字でこれだけ個性が異なる俳句が出来るって、俳句の世界、そして日本語の奥深さに驚きます。

写真左:小林一茶旧宅
写真右:小林一茶墓所


写真左:墓所のそばにある小林一茶像
写真右:一茶記念館


一茶記念館から見た戸隠山 一茶も見たはず。


写真左:柏原宿の家並み
写真右:柏原宿本陣跡


野鍛冶住宅(旧中村家)
野鍛冶とは鍛冶屋の分類のひとつで、包丁、農具、山林刃物など生活に密着した道具の製造・修理を担っていた鍛冶屋です。

他に刀を専門に作る ”刀鍛冶”。包丁・鋤・鉈・鋸などを専門的に作る ”専門鍛冶屋”がありました。
知ったかぶって書いてますがインターネットの情報です。

古間宿


柏原宿から1km程の所に古間宿はあります。
説明版によると柏原宿とは月の後半を荷継する合宿(あいしゅく)でした。規模はそれ程大きくはなく文化15年(1818年)の家数は85軒だったとの事です。

写真左:古間宿本陣跡
写真右:古間宿の家並み


古間宿の宿はずれ
右側の坂道が旧北国街道です。

道を間違い易いです。
正直に言いますが私は道を間違えで左の道を進みました。
ルートを入力してあるスマホアプリのスーパー地形のアラームが鳴ったので気が付きました。

三叉路や旧街道と新道が近い道は間違え易いです。

古間宿から牟礼宿の山道


古間宿を過ぎると,家並みも途切れて小古間地区、落影地区を通って進みます。
高度成長期やバブル期の開発とは無縁だったと思われる落ち着いた風景が残っています。
おそらく、若い人達は都会に出ていき、年老いた方達が住んで居るのだと思いますが、静かな良い集落です。





山の中の未舗装の道
落影地区を過ぎると、この道のハイライト! 牟礼宿の手前まで往時の面影が残る山中の道が4.5kmほど続いています。所々舗装されていますが土の道が残り木立の中を歩くのは心地よいです。
それにしても、山の中の道は旧街道に限らず何処にでもあるわけですが、同じ木立の土の道を歩いても気持ちが全く異なります。
やはり何百年も前から同じこの道を、上杉謙信の軍勢も佐渡金銀の御金荷の役人・馬子も、そして佐渡金山に送られる無宿人(囚人)も色々な思いを持って歩いていたという事を感じながら歩く事が旧街道歩きの魅力なのだと思います。











江戸時代の古道の分岐
小玉地区手前の小玉坂と言われている坂の途中に ”古道と新道の分岐”(地図の黄色の矢印)があります。
私が歩いた道(ピンクのライン)は明治9年(1876年)に新設された道で、青いラインは江戸時代からの道だという事です。そうと知っていたら江戸時代の道を歩いていたのですが・・

カシミール3D 国土地理院


牟礼宿


小玉道中堺碑(武州加州道中堺)
牟礼宿手前の小玉地区にある石碑です。
石碑には 武州 加州 道中堺 と彫られています。
説明版によると、江戸(武州=武蔵国)と金沢(加州=加賀国)を結ぶ道程のちょうど中間にあたることから前田家が建てたと言われています。前田家はこの場所に到着すると、江戸屋敷と金沢城へ早飛脚送って旅の無事を知らせたとの事です。

金附場跡
説明版によると、”金附場” とは佐渡の金銀を江戸まで輸送する途中に設けられた中継施設です。野尻宿の御金蔵で一夜保管され、午前中にこの場所に着いて、新しい馬に付け替え、昼までには善光寺宿に送っていたそうです。

後に流れる鳥居川の浸食で敷地が削られて、現在は僅かな敷地ですが、元々は300坪あったとの事です。

十王坂
鳥居川の河岸段丘を下る坂です。證念寺(しょうねんじ)の前を通っています。この坂を下ると牟礼宿の中心地になります。同じ旧街道でもとりわけ坂道は風情があります。


牟礼宿の家並み
多くの建物は建て替わっていますが うだつが上がった民家もあって、かつての繁栄を偲ばせます。




牟礼宿から新町宿のあいだ


牟礼宿を越えると山間の風景が開けて伸びやかな風景が広がります。

写真左:牟礼宿を越えて飯綱山を望む


写真左:四ツ屋付近の民家
写真右:善光寺へ10.9km 三本松付近


写真左:昭和感溢れる火の見櫓
写真右:正統派の道祖神 掲載して良いのか少し躊躇しました。
 旧街道が三叉路になっている場所にあった訳ではないので移設したのだと思います。


写真左:田子池の風景
写真右:船地蔵尊
石船に乗った地蔵尊 干ばつの時に首に縄をかけ二人で担いで田子神社の湧き水に漬けて、一粒でも雨が降ると元の座に奉還したそうです。


新町宿


北国街道も新町宿付近に来ると家並みが続く様になり、長野市街との境も曖昧になります。
交通量も増えて街道の雰囲気も少ないですが、微妙にカーブした道、ごちゃごちゃした家並みが旧街道の余韻を残しています。


善光寺宿


善光寺に向かう長野市街の北国街道は益々ごちゃごちゃ感が強くなって行きます。
山の中の自然に囲まれた旧街道は勿論良いのですが、この、ごちゃごちゃして微妙にカーブしている道も人の生活感が感じられて良い道です。


宿坊街
長野市街に入り、北国街道を西に向かって進んでいると、善光寺の参道の一本手前の狭い通りに宿坊が多く並んだ場所がありました。町名で言うと本善町と言います。
どの宿坊も立派な門構えでホテル・旅館とは趣が異なります。


善光寺


私が説明するまでもありませんが、約1400年の歴史を持ち 一光三尊阿弥陀如来が本尊の無宗派の寺院です。
なんと言っても本堂の壮大さは群を抜くと思います。
寺院の建築様式は知りませんが、民家で言えば入母屋造の様な、大きな親鳥が雛を包み込むような印象を受けます。







善光寺表参道
善光寺から長野駅に向かう参道です。


セントラルスクゥエア
表参道の途中にあります。
1998年 長野冬季オリンピックの表彰式会場だった場所です。屋根が付いたステージでメダル授与式が行われました。

今でもオリンピックでの数々のドラマが頭をよぎります。
スピードスケートの清水宏保選手の500m金 1000m銅 を獲得したシーンは忘れられません。あのスタートの瞬間、世界中から音が消えた様な張りつめた映像、そして号砲とともに爆発した様なスタートは今も記憶に残っています。

そしてなんと言っても、競技のシーンではないのですが、スキージャンプ・ラージヒル団体で原田選手の 「舟木~」 と言う不安とも期待とも何とも表現できないような表情と言葉が深く印象に残っています。


聖火台


エピローグ


本文にも書きましたが、古間宿から牟礼宿の間の山道が印象に残っています。
紅葉の時期でしたし、やはり旧街道は未舗装の山道が良いです。

善光寺は何度か訪れていますが、全てを包み込んでくれる様な本堂の伽藍の佇まいはいつ見てもホットした気持ちになります。

善光寺の表参道を下って長野駅に行く途中のセントラルスクゥエアのオリンピック記念施設は22年前の記憶を呼び覚ましてくれました。普段は殆ど意識していないですが、何かのきっかけに爽やかな感動と興奮の記憶が呼び覚まされます。


END

2020年12月28日 作成

Column


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