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電子足跡:北国街道歩き旅
越後柏崎宿から高田城下へ
プロローグ
京都を目指して越後長岡城下から長岡街道を歩き始めて今日は柏崎宿からスタートです。柏崎から高田までは北国街道を進みます。この区間は海岸沿いの変化に富んだ風光明媚な旧街道です。さらに奥の細道の一部でもあります。ところどころ松尾芭蕉が訪ねた痕跡があります。歩いた日 | スタート地点 | スタート時刻 | ゴール地点 | ゴール時刻 | GPS移動距離 |
2016年4月27日 | JR柏崎駅 | 7時30分 | JR潟町駅 | 17時50分 | 35㎞ |
2016年4月28日 | JR潟町駅 | 8時10分 | えちごトキめき鉄道高田駅 | 14時50分 | 25㎞ |
GPSログをGoogleEarthで ツアーする方法 |
↑地理院地図(電子国土Web)に詳細ルート地図とポイントの写真が開きます。 |
カシミール3D 国土地理院
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)
柏崎宿
JR柏崎駅を出て昨日の終点の西本町交差点を西に曲がってスタートです。昨日はあまり気が付きませんでしたがところどころ路傍に石仏が安置されています。
立地蔵
(写真左)説明板には立地蔵と書いてありましたが更に読むと中央が薬師如来像,左が日光菩薩,右が月光菩薩との事です。珍しいのはこれら3体が一枚の安山岩質礫岩にレリーフ状に彫られている事です。これまで路傍の石仏を何体も見ま
したが礫岩の石仏は初めて見た様に思います。写真でも礫岩である事がお分かり頂けると思います。
ねまり地蔵
(写真右)説明板によるとねまり地蔵とは延命地蔵菩薩との事です。ねまり地蔵も立地蔵と同じく安山岩質礫岩に彫られているとの事です。礫岩は柏崎市の「東の輪海岸」の岩礁に見られる岩石だそうです。
番神岬/番神堂 日蓮漂着の地
写真左のひと際高い建物の付近が番神岬です。海岸から切り立った普通の断崖の岬ですが,決定的な出来事が1274年(文永11年)に起こりました。日蓮が鎌倉幕府の怒りをかい佐渡に島流しにされましたが1274年(文永11年)に罪を許され佐渡を離れ寺泊(今は魚屋さんが集っている場所として知られています)に上陸する予定でしたが嵐にあってここ番神岬に流れ着いた場所です。写真中央は流れ着いたと言われている岩礁です。写真右が岬の上に建つ番神堂です。
流れ着いた場所で日蓮が三十番神(毎日交替で国を守護する30柱の神々)を祀ったのが始まりです。それで番神岬。
実は小学生の頃に番神岬や番神堂という名前は聞いていました。面白い名前なので何か曰くが有るのだろうと思っていましたが,今回初めて訪れて初めて謂れを知りました。
番神堂境内の石碑
三十番神の石碑ですがよく見ると 〔安政二歳乙卯四月 江戸八丁掘北嶋町 松尾屋辰五郎〕 の銘が読み取れます。
1855年に寄進したのかと思いますが,江戸の方がどんな思いで番神堂に石碑を寄進したのか疑問です。柏崎出身で幼少の頃に江戸に出て,その後松尾屋辰五郎として成功を収めて故郷に恩返しをしたかったのかな?などと勝手立志伝的な想像をしてしまいました。私が今見ている物は「石」ですがそこに古の人の思いや人生を見るような気持ちになります。
境内から見た柏崎港
休日は防波堤釣りで賑わいます。
20年程前の事ですが,群馬県から車で来た定年退職されたご夫婦と隣合わせで釣りをした事があります。そのご夫婦は何と!ワンボックスカーに「畳」を敷いて車中泊をしていました。
米山さん
柏崎市内からもよく見える山です。
柏崎地方では親しみを込めて「よねやまさん」と呼びます。
標高992.5mですが海岸から直ぐに起立するようなピラミッド型の山容ですので新潟県の海岸線を歩いているとかなり遠くからも確認する事ができます。
この地方の民謡「三階節」では
「米山さんから雲が出た いまに夕立が来るやら ピッカラ シャンカラ ドンカラリンと 音がする (以下略)」
と歌われて親しまれています。
青海川付近
青海川駅東側の海蝕崖の道北国街道は国道8号線を脇に入った旧道の車道脇の小さな小道です。
海蝕崖を降りて行きます。この小道は地理院地図には記載されていませんが道路脇の木柱に 「青海川駅(北国街道・六割坂)」 と書いてあります。道は狭くかなり急峻な小道です。当時の道幅と勾配がそのまま残っているのでしょう。まるでそのまま日本海にダイビングしてしまいそうです。
鷗が鼻
下る途中で振り返ると[鷗が鼻] と呼ばれている岬の風景が綺麗です。海食崖の上には日本海フィッシャーマンズケープにあるホテルシーポートが見えます。ホテルのレストランは西に面しているので日本海に沈む夕陽を見ながら食事をするには最高のロケーションだと思います。
JR信越線 青海川駅
JR青海川駅は日本で一番海に近い駅として知られています。
TVドラマのロケ地として使われた事もあるのでご存じの方もいらっしゃるかもしれません。
日本海に面したホームで歩いて火照った体を潮風に吹かれて休憩しました。潮風に吹かれながら何を考えるともなく時間を過ごすのは至福の時間です。
青海川駅西側の海食崖の道
西側の海食崖も急登です。でも登るとポスター写真のような風景の中に今歩いた道が続いているのが望めます。
登り切ると江戸時代から続いている「酒の新茶屋」というお店があります。壁に「ここは芭蕉も旅した旧北国街道青海川 2階のギャラリーでどうぞごゆっくりと 無料です」と書いてあります。急登を登った昔の旅人も疲れを癒したのでしょう。
小さな青海川の部落の中に「明治天皇青海川行在所」(あんざいしょ)の碑があります。明治天皇も日本海に沈む夕陽の美しさを眺めたことでしょう。
笠島付近
笠島漁港JR信越本線笠島駅を中心にした小さな漁港です。北国街道は30m程上がった海食崖の上に続いています。
牛ヶ首層内褶曲
説明板によると,地層の上下は整然としていますが中央部の地層は曲がったり,途切れていたりしています。
褶曲した地層がサンドイッチの様に挟まれています。約500万年前に地層が形成されるときに局所的な海底地滑りが起きて形成たと考えられているとの事です。
話は変わりますが,上の写真右の右端の方にトンネルが有るのが分かりますでしょうか?旧信越本線五号隧道の坑門です。レールは撤去され遊歩道として整備されていましたが中越沖地震や水害による土砂崩れなどで分断され現在は通行できるのか定かではありません。この先の聖ヶ鼻では土砂崩れの為に遊歩道が完全に埋まっています。
上輪付近
明治天皇上輪新田御小休所江戸時代末期に建てられた六宣閣という旅館です。明治11年に明治天皇行幸の際に休憩所になった立派な和風建築です。国の登録有形文化財になっているとの事です。明治天皇行幸の石碑は各地で見ますが建物が残っている所は珍しいです。
北国街道の痕跡?
谷を這う様に北国街道が続いています。赤い鉄橋は国道8号線です。
鉄橋を見上げた足元に写真右のガードレールが切れた所に下に降りる道らしき痕跡があります。
おそらく北国街道はこちらの小道だったと思われますが今は草むして歩けないです。
仕方がないので鉄橋の下に続いている舗装道路を歩いて迂回します。
なんと。大きな礫岩!
上輪海水浴場の海岸近くの道路脇にかなり大きな礫岩があります。あまりにも大きかったので最初は一塊の岩だと思わなかったくらいです。地域の人達の信仰の対象なのでしょう。周囲には幾つか石碑が建てられています。
柏崎市内でみた礫岩の石仏はこの様な岩を素材にして彫られたのではないでしょうか。
聖ヶ鼻
聖ヶ鼻柏崎からここまで変化に富んだ風光明媚な海岸を歩いてきました。聖ヶ鼻が最後の岬です。
地理院地図では聖ヶ鼻から直線距離で34㎞離れた鳥ヶ首岬までは岬らしい岬の地名はありません。
聖ヶ鼻を通る旧街道は土砂崩れの為に分断しています。牛ヶ首層内褶曲のところで書きましたが旧信越本線廃線跡を遊歩道にした道も土砂に埋もれています。
米山トンネル
本来は写真下のトンネル右脇に旧道が続いているのですが立ち入り禁止になっています。
仕方がないのでトンネルを通行します。トンネル内は細いですが路面から一段高くなった歩道がありますが大型トラックが脇を通り過ぎるときはかなりな風圧を感じます。注意して通行します。
鉢崎宿
鉢崎宿米山トンネルを越えて聖ヶ鼻方向に向かうと眼下に山と海に囲まれたわずかな平地に鉢崎宿があります。遠望するとディテールが分からないのでまるで江戸時代の宿場が広がっている様に見えます。ちょっと感動しました。
鉢崎宿には関所が設けられており交通の要所になっていたとの事です。
松尾芭蕉投宿 たわら屋跡
松尾芭蕉は1689年(元禄2年)の奥の細道の旅では秋田県の象潟から日本海側を南下して来ますが,旧暦7月5日にはここ鉢崎宿のたわら屋に投宿しています。
予定では出雲崎(注)を出て柏崎に宿泊する予定が柏崎の宿の当てが外れて一気に鉢崎宿まで来てたわら屋に宿泊しました。出雲崎から鉢崎までは約40数㎞。着いたのが申の下刻(午後4~5時頃)です。
ちなみに私は出雲崎の手前の柏崎から鉢崎まで僅か16㎞を休んだ時間も含めて5時間30分ほどかかりました。
注:出雲崎は演歌歌手のジェロが2008年に歌った「海雪」の歌詞に出てくる地名なのでご存じかもしれません。
それにしても 作詞:秋元康 作曲:宇崎竜童 という組み合わせで演歌というのが驚きです。
柿崎地区
聖ヶ鼻・鉢崎宿を越えると比較的平坦な海岸沿いの道を進みます。JR信越線米山駅を越えて柿崎地区に入るまでの道は国道8号線を歩きますが歩道が狭く大型トラックもかなり通るので少し怖い感じがします。
写真左:国道8号線と分岐して右側の旧北国街道へ進みます。すると道は一転して静かな旧街道になります。
写真右:柿崎市街地
川越山 浄善寺
市街地の中にまるで教会のような建物があります。れっきとした浄土真宗本願寺派の仏教寺院です。ホームページによればインドのパゴダ様式の鉄筋コンクリート造りでこの様式の本堂としては日本で初期のものだそうです。
瓦葺の大屋根の寺院を見慣れているので見たときは違和感を感じましたが,考えてみれば仏教は元々インドが発祥ですし築地本願寺もインド様式の伽藍なのでむしろこの建築様式が正統派なのかと納得してしまいました。
親鸞聖人のお枕石
浄善寺の門前にあります。越後に追放された親鸞がこの地の「扇屋」に一夜の宿を願ったが断られやむなく軒先で石を枕に一夜を過ごされた。
その状況でも仏に感謝し念仏を唱える親鸞聖人の姿に我が身を省みた扇屋の夫婦は親鸞聖人を中に招き入れて教えを乞い,その後帰依したのが浄善寺の始まりとのことです。
柿崎~大潟~直江津手前
長い海岸通り柿崎の市街地を越えて直江津手前で南に曲がるまで潮騒が聞こえてきそうな海岸沿いの旧北国街道を進みます。
地理院地形図にはその間約17㎞の道程に 「浜」 と付く地名が直海浜,三ッ屋浜,上下浜,雁子浜,九戸浜,四ッ屋浜,土底浜,下小船津浜,上小船津浜,渋柿浜,西ヶ窪浜,夷浜,遊光寺浜,下荒浜,上荒浜と15個もあります。
街道を振り返ると米山さんが綺麗にみえます。
街道沿いは砂防林と部落が断続的に続き新しい道には無い趣と懐かしさを感じます。
鵜の浜温泉JR信越線潟町駅のそばにある温泉地です。
1956年(昭和31年)に石油試掘中に湧きだした温泉です。
鵜の浜は昔からある地名ではなく,温泉が湧きだした後に,その地の鵜の長者伝説により新しくつけられた名前だとの事です。上記に書いた地理院地形図の「浜」が付く地名の中に鵜の浜という地名はありません。
まだ子供達が小さい頃,鵜の浜の海岸でキャンプをしたことがあります。松の防風林の中のキャンプサイトは快適でした。
日帰り温泉もあるので海で遊んで,温泉に浸かり,松の森で潮騒を聞きながら夜を過ごすのは贅沢な時間です。
本日の行動はここまでです。
北国街道二日目 JR潟町(鵜の浜温泉)~高田城下
2016年4月28日 昨日までの快晴と打って変わり今日は朝から雨です。昨日の終点鵜の浜温泉から歩きはじめます。雨の街道も風情があって良いものです。蓑笠をまとった農民が足早に通り過ぎる光景を想像します。
雨に濡れた農民を昔も今も同じ場所で六地蔵尊が見守っていたのでしょう。
JR信越本線黒井駅前
取り残された町黒井駅前は信越化学や新日鉄住金の大きな工場が立ち並ぶ地域です。
その中にポツンと取り残されたような昭和感が漂う雁木通り(注)の町が残っています。
カシミール3D 国土地理院
(注)雁木=雪国に多く見られる商店街などの歩道のことでで各家屋のひさしを長く張り出してその下を歩道にした構造の歩道の事です。家屋と一体になったアーケードのようなものです。
現在は道路に地下水を出しての雪を消す消雪パイプの設備があるので冬でも道路を通行できますが,昔は数メートルの積雪が道路を覆うため通行出来ず人は雁木の下を歩いていました。
直江津
木造旧家1971年に直江津市と高田市が合併して上越市になっています。直江津の街は北国街道沿いを歩いても旧街道の面影は殆ど残っていませんが,春日新田を西に進み関川手前の交差点付近に立派な門がある格子戸のお宅がありました。古い木造家屋の重厚感は周囲を圧倒して存在感があります。
高田城下
慶長19年(1614年)に築城された平城の高田城の城下町として発展しました。高田から直線距離で6㎞ほどのところに上杉謙信の居城として知られる山城の春日山城がありました。 詳しい事は春風亭昇太に譲ります。高田城下の北国街道
高田城の外堀として使われた関川を越えると高田城下です。
雨のお陰でモノクロームに染まった雑然とした感じの北国街道の街並みが望めます。
雑然感がむしろ当時の賑わいを感じさせますし古くからある町のイメージを演出してくれます。
城下の桝形 (クランクに曲がる旧街道)
右の地図を見るとお分かりのように,城下町の道にはよくありますが高田城下の北国街道も所々クランク状に折れ曲がっています。道がクランク状に曲がった市街地をみると城下町に来たという感じがします。
北国街道と北陸街道(加賀街道)の追分に続く最後の直線
北国街道を歩くのはこの直線道路が最後になります。
突き当りが北国街道と北陸街道(加賀街道)の追分です。
北国街道と北陸街道(加賀街道)追分
現在の住所では本町7丁目交差点が追分になります。写真左側の道が今歩いてきた直江津から続く北国街道。それを南に曲がる中央の道が長野県軽井沢町の追分宿まで続く北国街道。そしてクランクに曲がって右の道がこれから歩く北陸街道(加賀街道)です。
追分の道標
勿論当時は追分に有ったのですが昭和10年に交通の障害になるので追分から100m程離れた宇賀魂神社の境内に移設されました。「右おゝしう道」「左かゝみち」の文字が読み取れます。
今歩いて来た道は往時は「おおしう道」と言われていたのかと知りました。
宇賀魂神社
道標が設置されている宇賀魂神社です。拝殿の左側に設置されています。
エピローグ
追分で今日の行動は終わりです。次回からは北陸街道を歩きます。車を取りに高田駅まで行きましたので駅までの道の写真を掲載します。・昔懐かしい「ナショナルボーヤ」,
と言っても若い世代には分からないと思いますが,現在のパナソニック(株)がナショナルと言っていた頃のマスコットキャラクターです。
・古い雁木道も改修すると風情が増します。
・現代版雁木道
・えちごトキめき鉄道 高田駅
END
2016/09/05 ver3.20:内部処理修正
2016/06/20 作成
Column
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