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電子足跡:旧甲州街道歩き旅
 関野宿から鳥沢宿へ 相模と甲斐の国境


プロローグ
 


旧甲州街道を関野宿そばの藤野駅から鳥沢宿まで歩いたページです。
ルートは JR藤野駅→関野宿→境川(相模国・甲斐国 国境)→上野原宿→(鶴川)→鶴川宿→野田尻宿→犬目宿→下鳥沢宿→JR鳥沢駅 です。

この区間は、上野原宿を過ぎると鳥沢駅付近まで、旧甲州街道はJR中央線や国道20号線から離れ進みます。中央高速道が旧街道とほぼ平行に走っている区間がありますが、それでもかつての雰囲気がよく残り、街道歩きを楽しむ者にとってはたまらなく風情のある道です。
とりわけ、中央高速道の ”上り談合坂SA” 付近で跨道橋を渡った矢坪から新田までの1km弱の区間は地理院地図に道の記載が無いのですが、未舗装の山道は探検をしている様なワクワク感を感じる良い道です。
また気が付くと富士山が目の前に見える風景は浮世絵の世界に入り込んだ様な感じを覚えます。


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都道府県 区間 歩いた日 GPS
移動距離
備考
神奈川/山梨 藤野駅~鳥沢駅 2019年11月30日 19.6km

↑GoogleMapと地理院地図にGPSログと写真がマッピングされた地図が開きます GPSログを
GoogleEarthでツアーする方法

カシミール3D 国土地理院 
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)


関野宿
 


吉野宿を過ぎて少し進むとJR中央線の藤野駅です。昨日は藤野駅がゴールでしたので、今日は藤野駅からスタートです。昨日に引き続いて今日も趣のある旧街道歩きです。

ところが、しょぱなにルートを間違えてしまいました。旧甲州街道は藤野駅から桂川に向かって下っていくと国道20号線があり、更にその下の道が旧甲州街道のようです。私は国道20号線を歩いてしまいました。旧甲州街道を1kmほど歩くと跨線橋あって国道20号線と合流して関野宿に入るのが旧街道のルートのようです。
合流してすぐに関野本陣跡があり、説明版が立っているらしいのですがそれも見落としてしまいました。

境川  相模と甲斐の国境


境川を渡るには国道20号線の名倉入口を下の方に下って行きます。
境川は 相模国 と 甲斐国 の国境の川で 境沢橋という5間(約9m)の土橋が架かっていたとの事です。(ちゃんと歩ける 甲州街道 山と渓谷社) ここを渡るといよいよ甲斐の国に入る事になります。
現在でも神奈川県と山梨県の県境の川です。

写真左:名倉入口
写真右:相模国 と 甲斐国 国境
 写真上側の道路が国道20号線 下に小さく見える道が旧甲州街道


境川は「五街道細見」(岸井良衛 青蛙房)に 『この所にて夏の頃あゆ漁やすし。』 と書かれています。
現在は下流に相模ダムがあり、相模湖・島田湖があるので、流れが速い清流という感じはしませんが、かつては鮎がいくらでも獲れる川だったのでしょう。

国境(くにざかい)

写真左:国境の境川
写真右:川面に立つ朝霧


上野原宿
 


甲斐の国に入りました。

諏訪番所跡
「五街道細見」には ”境川御関所 俗に諏訪の御関所といふ。” と書かれています。付近の地名が”諏訪”である事や元々は諏訪神社の東側から移転した事などが関係しているのだと思います。

説明版によると
建物は40.25坪の平屋で、役人は10人との事なので、それ程大きな番所という事ではなかったようです。

通行手形改めの項に 『・男は上り下り不用 ・女は江戸へ入用 下り不用』 と書かれています。

『入り鉄砲に出女』を取り締まるんじゃなかったっけ?と思いましたが 女は江戸へ入用 下り不用 の理由は分かりません。

明治4年(1872年)に廃止になるまで続きました。

上野原市街

上野原宿は現在は上野原市になっていますが、北側は山が迫り、南は桂川、東は境川、西は鶴川に挟まれた河岸段丘に発達した宿場です。高尾を越えた付近からどちらかと言うと小さな集落を通ってきたので、上野原市の中心部に来た時は、なんでこんな山間の地に大きな街が発達したのだろう?と思ったくらいです。調べると、この地は明治・大正・昭和を通じて絹織物の街として栄えたとの事です。

国道20号線と旧甲州街道合流点付近


鶴川宿
 


甲府側から来ると鶴川宿を過ぎて、鶴川を渡って上野原宿に向かうことになります。上野原宿までは1.5kmほどしか離れていません。かつて鶴川は渡しで、鶴川が川留めになった場合は賑わったと ”ちゃんと歩ける甲州街道” に書いてありますが、五街道細見には ”宿つぎばかり泊りやなし。” と書かれています。川留めの場合に利用する宿場だったのではないかと思います。

上野原市街の西の外れから北に向かう道に入ると河岸段丘涯を下る細い道になります。
河岸段丘涯を下る道からみえる鶴川宿は建物こそ建て替わっていますが、山間の小さな宿場という感じで趣があります。



段丘を下る道で見かけた小さな風景
標高は250m位ですが、歩いたのは11月30日です。流石に朝は冷え込みます。


鶴川宿の家並み


趣のある旧家。説明板は無かったのですが、おそらく問屋を営んでいた加藤家ではないかと思います。

鶴川宿を過ぎて少し進むと、旧甲州街道は中央高速道と付かず離れず進む様になります。
旧街道の道筋に近代的な高速道路が走っているコントラストが面白いです。


大椚宿


”大椚宿発祥の地” と書かれた木柱がありました。
”ちゃんと歩ける甲州街道” には宿場として紹介されていません。おそらく間宿だったのではないかと思います。
現在では民家もそれ程多くはありません。そこで生活している人たちは日々の生活で忙しいのだと思いますが、通り過ぎるだけの旅人が見るとのんびりとした時間が流れている雰囲気があります。



野田尻
 


渋滞情報で一度は聞いたことがあると思いますが、中央高速道の ”談合坂SA(下り)” の北側に野田尻宿があります。昔も今も旅人が休む場所という組み合わせが面白いです。
”談合坂”という地名の由来は諸説あるようで確定はしていないようです。

その野田尻宿には中央高速道の跨道橋を渡ります。渡って、切通の坂を下ると野田尻宿です。


旧宿場内には出梁造りの家屋が数棟残っていて宿場町の雰囲気が醸し出されています。




西光寺
宿場の外れに西光寺があります。西光寺は平安初期 天長元年(824年)の創建で、鎌倉時代に鎌倉建長寺の末寺になった歴史あるお寺です。境内の雰囲気もそこはかとなく歴史を感じます。


石仏・石塔群
西光寺の手前の道を右側に進むと坂道になっていますが、坂の途中に旅人を見守る様に石仏・石塔が並んでいます。


未舗装の道
坂を登りきると再び中央高速道の跨道橋を渡って中央高速道の南側に出ますが、その先、僅かな区間ですが未舗装の往時のままと思える道が残っています。


富士山が見えました
中央高速道がすぐ隣を通っているとは思えない様な田舎道を進んで、上り談合坂SAと下り談合坂SAの中間付近に来たら山の向こうに富士山が見えました。
甲州街道を歩いて、他の旧街道と少し異なるのは富士山がまじかに見える事ではないかと思います。
それも、甲州盆地に入る前の道は、富士山が山に見え隠れするので、気が付くと突然、目の前に富士山が現れるという驚きがあります。


地図に無い道


中央高速道の ”上り談合坂SA” の手前で再度 中央高速道の跨道橋を渡ります。
矢坪坂と言われる山道ですが、ここから1km弱は地理院地図に記載されていない道を歩きます。
地図には記載が無いのですが、甲州街道を歩く人が多い為と思いますが、狭い道ながら道は整備されていて迷う事はありませんでした。

地図のピンク色の部分が地図に記載されていない区間です。

南側から中央高速道、県道30号線があり、更にその北側に旧甲州街道が通っています。
カシミール3D 国土地理院 
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)


矢坪地区
中央高速道跨道橋から見た矢坪地区、背後の山の中を旧甲州街道が続いています。

矢坪坂古戦場跡
説明板によると、この地は享禄3年(1530年)甲斐国の郡内領主の小山田信有の軍勢が相模国の北条氏綱の軍勢を矢坪坂で迎え撃ち死闘を繰り広げた地との事です。
小山田軍は敗れ多数の死者をが出たと伝えられているそうです。

雰囲気の良い山道が続きます
旧街道で地図にも無い様な山道は往時の雰囲気が残っている、と言っても私はその当時生きていた訳ではないのであくまで推測です。ただ、ここが旧街道だったと思いながら歩き、当時からそこに鎮座していたと思える石仏や石塔を見ると、タイムトラベルをしているようで、歩いていて楽しいです。




座頭転がし
座頭(視覚障害者)が転落して亡くなったと言われている坂道です。ほぼ垂直な崖の中腹に道が切り開かれています。

それにしても、地形図を見るともう少しなだらかな所もあるのですが、どんな理由でこの様な地形の所に道を付けたのか理由が思いつきません。

中山道の碓氷峠を越える道にも 座頭ころがし という坂がありましたが、甲州街道の座頭転がしの方がはるかに危険な道と感じます。

犬目宿
 


地図に無い道を歩き終わって、新田・安達野地区に入ります。安達野地区に入った所に ”ここより犬目宿” の案内板がありました。
本陣は犬目地区に在りましたが、新田地区に尾張家の定宿が在ったりしたので、新田・安達野・犬目地区が一体となって宿場を構成していたのではないかと思います。



出梁造りの建物とそして火の見やぐらが残っていました。
江戸から昭和の風景が混然一体となっています。


義民 犬目宿兵助 の生家跡  逆光で見苦しい写真で恐縮です。

説明板によると
天保7年(1836年)犬目宿で旅籠水田屋を営んでいた兵助は、天保の大飢饉と商人の米買い占めで苦しむ村民を救うため、百姓一揆を起こしたとの事です。
一揆は、兵助の意図に反して暴徒化し、甲斐一国を巻き込む激しい打ちこわしに発展しました。”天保の甲州一揆(甲州騒動)”と言われているそうです。

兵助は予め幕府の激しい処分を覚悟して、妻と離縁し、生後間もない娘が旅籠を継げるようにして一揆を決行したそうです。

暴徒化した一揆に絶望して、逃亡の旅に出ますが、日記には野宿先で娘を抱く夢を見たと書かれているそうです。

逃亡後の足取りは定かでは無いとの事ですが、一説には犬目に戻って家族とひっそり暮らして、慶応3年(1867年)71歳で亡くなったと言われているそうです。

浮世絵の富士山
犬目宿を越えるとすぐに富士山が目に飛び込みます。段々と富士山の姿がより良く見えてきます。
「葛飾北斎 富嶽三十六景甲州犬目峠」 「歌川広重 不二三十六景犬目峠の富士」はこの付近で描かれたそうです。


紅葉と茅葺屋根
冒頭にも掲載しましたがこの風景は犬目宿を過ぎた付近で撮影しました。
富士山を見れて満足した上に、日本の原風景の様な紅葉と茅葺屋根のコラボレーションが見れて、歩いて来て良かった!という気持ちになります。


恋塚


”恋塚”は ”君恋坂” という坂の途中にあります。
君恋坂は日本武尊が東征のとき横須賀の走水沖合で暴風にあい、海神の怒りを鎮めるために、弟橘姫が自ら海に身を投げた事を、帰り道のこの坂で弟橘姫を偲んだ事に由来すると言われています。
群馬県の嬬恋村も同様な話で ”嬬恋” と言う地名になったと言われています。

せっかくのロマンチックな話ですが、興覚めな事を書きます。
この項を書くとき ”こいさか” と入力したら ”恋坂” と ”越坂” が候補に上がりました。峠の坂道なので元々は ”こしさか” と言われていた坂が いつの時代にか ”恋坂”の漢字あてられ、更に”君恋坂” になったのかなと想像します。

ちなみに群馬の ”嬬恋” の ”つま” なのですが、例えば中山道の妻籠(つまご)、あるいは新潟県の信濃川上流の長野県との県境に近い地方を妻有(つまり)と言います。
だんだんと狭く細くなって行き止まるような地域を ”どんづまり” の意味で ”つま” とか ”つまり” と言うのではないかと思います。
実際群馬の ”嬬恋” は草津白根山と浅間山に挟まれて渋川側から西に行くと徐々に山が迫ってきて、山間の道を長野県に抜けるような地形になっています。
ですので ”嬬恋” は元々 ”つまった所を越す” という意味で ”つまこし” とか ”つまごえ” と言われていた場所に ”嬬恋” の漢字をあてたのではないかと想像します。文献を調べていないので、私の勝手な想像です。読み飛ばしてください。 

話が反れました。
その 君恋坂 の途中にある一里塚が恋塚です。
日本橋から21里目の一里塚です。
片側の塚は消滅して南側の塚だけが残っています。

石畳の道


恋塚を越えてすぐに、県道30号線の北側に10軒ほどのこじんまりした集落があります。旧甲州街道はその集落の中を通っています。集落が終わった付近から未舗装の道になり、僅かな区間ですが石畳が残っています。
おそらく昔からの石畳と思われ、甲陽鎮部隊となった新選組の近藤勇や土方歳三もこの石畳を踏みしめて進軍したと思うと感慨深いものがあります。


大月側から坂を登って来た場合は石畳の入口に消えかかった文字で石畳の小さな案内板があります。



山谷


山谷は山の中腹にある集落です。ここは立場(人足が駕籠や馬を止めて休憩した場所)があった所です。
私は今回、坂を下る方向で歩いて来ましたが、この坂を登るとしたら結構疲れると思います。
昔の人達も体力が有ったとは言え休みたくなる場所だったのだと思います。

その坂を下る途中からも富士山がよく見えます。


下鳥沢
 


立場が在った山谷からは県道30号線を歩くように推定したルートをGPSに入力していたのですが、実際に歩いてみると、旧甲州街道と思える道が県道30号線と付かずづ離れずの場所を通っていました。GoogleMapをよく見ると旧甲州街道と表記されています。急遽県道30号線から外れて旧道を歩きました。

県道30号線から斜めに接続している旧街道に入ると、道の感じが旧街道のまま残っていると感じます。





中央高速道の高架を潜ると下鳥沢宿です。今日は鳥沢駅まで歩いてゴールです。


エピローグ
 


この区間は往時の街道の雰囲気がよく残る良い道です。
段丘涯を下る細い道、山の中に続く未舗装の道、ほんの少し残った石畳、一軒だけポツンと残る茅葺屋根の家、一つ一つは小さな痕跡が富士山の眺望と共にそこに在ると、日本の原風景の中を歩いているという気持ちにさせてくれました。


END

2020/05/24 作成

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