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電子足跡:旧甲州街道歩き旅
鶴瀬宿から石和宿へ 甲府盆地を歩く道
プロローグ
この道は東京の高尾付近から続いてきた山間の道が笹子峠を越えて終わり、甲府盆地に足を踏み入れる道です。これまでの行程とは全く印象が異なります。平原の周囲を360°山に囲まれ、時節柄街道筋には花が咲き乱れ、お伽の国と言ったら大げさですが、物凄く大きな美しい箱庭の中を歩いているような感じがします。と言っても車は通り過ぎますし、足は痛くなりますし、お腹は減りますし、現実は直ぐ隣に居ます。
都道府県 | 区間 | 歩いた日 | GPS 移動距離 |
備考 |
山梨 | 甲斐大和駅-石和温泉駅 | 2021年03月27日 | 16.7km |
↑GoogleMapと地理院地図にGPSログと写真がマッピングされた地図が開きます | GPSログを GoogleEarthでツアーする方法 |
カシミール3D 国土地理院
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)
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鶴瀬宿
甲斐大和駅から西に向かって進むと、昨日笹子峠から降りてきた道に出会います。ここからは日川が削った谷に旧甲州街道が続いています。
武田勝頼公腰掛石
長篠の戦で敗北した武田勢はその後の失策もあり家臣の離反で弱体化していたなかで、織田・徳川勢の侵攻を受け、武田勝頼は瀧川勢に追迫されて落ち延びる途中 腰掛石からは数km上流の田野で自刃したと伝えられています。落ち延びる勝頼勢は鶴瀬宿(或いは駒飼宿)に陣を置き、小山田信茂からの迎えを待ちますが、小山田信茂の裏切りを知った後に、この石に腰掛けて先行きを思案したと言われています。
家臣の離反・寝返りが続くなかで、死出の旅に旅立つ前にこの石に座って、脳裏にどんな思いが駆け巡ったのかと思うと、小さな石でも見た目以上の重みを感じます。
鶴瀬関所跡・常夜燈
江戸への出入りはこの地を通らないと難しいので、入鉄砲と出女を特に警戒したとの事です。関所の遺構は残っていませんが小字名に ”木戸下” と云う地名が残っているそうです。鶴瀬宿は小さい宿場だったようでアッと云う間に通り過ぎてしまいます。
勝沼宿への道
観音堂
カシミール3Dで旧甲州街道のGPSルートをプロットしているとき、ここのルートがどうなっているのか良く分かりませんでした。地理院地図にはお寺の地図記号が記載されていて、参道と思える道が途切れ途切れに画かれています。おそらく本来の旧甲州街道は国道20号線長柿洞門の斜面の上側を通っていたようです。鶴瀬宿から歩いて来ると長柿洞門の手前に斜面を登る道があります。観音堂とそばの墓地に通じる道ですが旧街道の面影を色濃く残している道だと思います。
皆さんも歩くときは長柿洞門を通らず、坂はきつく道も悪いですが、こちらの道を通る事をお勧めします。
観音堂からの風景
観音堂から勝沼側に降りる道
武田不動尊祠
観音堂から降りて直ぐの日川の断崖の上に小さな祠があります。武田勝頼勢が瀧川勢に追迫され、先が長くないことを悟った勝頼は、奉持していた不動尊を里人に託した場所と伝えられていると説明板に書いてありました。
観音堂周辺もそうですが、この地は険阻な道で往時の旅人は苦労しただろうなと容易に推測できます。
共和付近
旧甲州街道は国道20号線の下側を通っています。その街道沿いに集落があります。よくこんな急斜面に集落ができたなと思いました。日川のせせらぎを聞きながら満開の桜の木の下を歩くのは贅沢な時間です。
えっ!ママチャリで・・・ タケヒロムービー紹介
共和集落を過ぎて、国道20号線を勝沼に向かって歩いていると、遠くに体格の良い若い男性がママチャリを脇に置いて撮影をしていました。ママチャリなので地元の方なのかなと思って近づいて行くと、 [松戸~甲府 タケヒロムービー 検索] と書かれた段ボールが付けてありました。ママチャリでツーリングしながら撮影しているのかと気づいて、 「後でタケヒロムービーを検索してみます。」 と約束して分かれました。話した時間は1分にも満たない時間でしたが、もしロードバイクに乗って競輪選手の様な服装の方でしたら、声をかける事は無かったと思います。体格の良い若い男性がママチャリに乗って松戸と甲府を往復するというアンバランスさに親しみを感じた次第です。
若い頃なら、スポーツカーに乗って颯爽としているほうがカッコ良いと思ったと思いますが、歳を重ねた今は、汗をかき、ジタバタしながら、ひと漕ぎひと漕ぎ進んで行くほうが共感と好感を持ちます。
下記がタケヒロムービーさんのリンクです。ダラダラ続く坂道で時々本音をつぶやきながら漕ぎ続ける動画が泥臭くてカッコ良いです。
ママチャリで山梨県甲府市に行ってくるわ 風の巻- YouTube
ママチャリで山梨県甲府市に行ってくるわ 林の巻- YouTube
ママチャリで山梨県甲府市に行ってくるわ 火の巻- YouTube
ママチャリで山梨県甲府市に行ってくるわ 山の巻- YouTube
タケヒロさんのinstagramリンク
注:タケヒロさんの許可を得てリンクを貼らせて頂きました。
柏尾古戦場
甲陽鎮部隊になった近藤勇率いる新選組と板垣退助率いる新政府軍が戦った古戦場です。説明板によると、幕府軍は柏尾橋の東詰に本陣を置き、宿内2箇所に柵門を設け侵攻を防いだのですが、板垣退助率いる新政府軍は3手に分かれて柏尾に進軍し、甲州街道を東に進む新政府軍に押され、更に新政府軍3番手の因幡藩隊が山越えに成功して深沢川の上流から幕府軍の本陣に攻め入った為、幕府軍は柏尾の茶屋と深沢川に架かる柏尾橋を焼いて江戸方面に敗走したとの事です。その間、1時間程だったとの事です。
近藤勇像 (甲陽鎮撫隊後は大久保剛と改名)
敗走した近藤勇は再起を図る為、現在の千葉県流山に駐屯し、新しい隊士の訓練に当たりますが、既に関東に進軍していた新政府軍は流山の屯所を急襲しました。近藤勇は自刃を決意しますが、土方歳三に押しとどめられて、板橋の新政府総統府に送られて、板橋刑場で斬首されました。
旧中山道板橋宿 現在のJR埼京線板橋駅のそばに近藤勇の墓所があります。
勝沼宿
柏尾古戦場を過ぎると山間の道は終わり、甲府盆地と南アルプスの山々が見えてきます。
甲府盆地の地形図を見ると釜無川、笛吹川、合流して富士川がYの字に盆地を流れ、そこに無数の河川が合流している様子が見えます。
甲府盆地の地形は周辺の山から河が流れ込み、盆地周辺では複数の扇状地が形成され、盆地中央部では山々から供給される大量の土砂で沖積低地が形成されています。勝沼宿は扇状地の扇頂部付近に発達した宿場です。
勝沼氏館跡
館跡を全て発掘してある訳ではないですが、写真は家臣の屋敷跡付近です。職人居住棟跡、金属加工工房跡などが広がっています。
脇本陣・本陣跡
建物は取り壊されていますが、脇本陣には立派な石垣が残り、本陣には”槍掛けの松”が残っています。槍掛けの松は大名や公家などが宿泊すると目印に槍を立て掛けた事に由来します。写真左:脇本陣跡
写真右:本陣跡
勝沼宿の家並み
写真左:旧田中銀行社屋(国登録有形文化財・経済産業省近代化産業遺産)
写真右:仲松屋 奥:江戸時代後期 手前:明治前期 の豪商の建物
時が止まっている?
上の写真の仲松屋の前に白いトラックが止まっていますが、度々閲覧して参考にさせて頂いている ”街道歩き旅.com”さんの 勝沼宿の仲松屋の写真にも同じ形のトラックが同じように止まっています。街道歩き旅.comさんが勝沼宿を歩いたのは2008年1月20日と書いてあるので13年間同じ場所に同じトラックが止まっているのではないかと思います。展示品として廃車が置いてあるのかな?と思いましたが、別の方角から写した写真はナンバープレートが付いているので現役で走れるトラックのようです。ちょっとした謎です。
ようあん坂
勝沼宿で最も急な坂。
甲州街道は扇状地の斜面を下る様に西に続いていますが、この写真からもそれを感じて頂けますでしょうか。
栗原宿
栗原宿まで来ると扇状地のなだらかな坂も益々緩やかになり、360°の視界に山並みが連なる風景が見える様になります。山並みの向こうに富士山頂が見えるかなと思いましたが、雲が邪魔をして見る事ができませんでした。
栗原宿は宿場の面影は希薄ですが、果樹栽培が盛んで街道筋でも桃の花が咲き誇る風景が堪能出来ました。
この写真は栗原宿を過ぎて日川の土手から南側を写した写真です。山間の扇頂部から扇の様に広がる扇状地の地形をよく観察できます。
石和宿
栗原宿を過ぎて石和宿に至る道にも、桃・菜の花・水仙の花が咲き誇っていました。
石和宿には土手を歩いて笛吹川に架かる笛吹橋を渡って入ります。昔は今程大きな川ではなかったとの事で写真の看板付近から対岸のビル付近までまっすぐ道が続いていたとの事です。
石和は現代では 石和温泉 として有名ですが、昭和31年(1956年)、現在 場外馬券場(ウインズ石和)になっているコマツ遊覧農場で井戸を掘っていたところ温泉が沸いたのが始まりとの事です。高度成長期に発展した温泉街ですので大きな温泉施設が多く鄙びた温泉街とはいきませんし、かつての宿場だった印象はありません。
今、私は街道を歩いて古い家並みを見て数100年前の人々の生活を想像しますが、もし数100年後、この景観が残っていたら、数100年後の人達はこの街並みを見て何をどう想像するのかなと思います。
笛吹川北岸の松並木
笛吹橋を渡った北詰の所から土手沿いに植樹されています。
「ちゃんと歩ける甲州街道」の記述によると明治40年(1907年)の大水害の後に植樹されたとの事です。
笛吹権三郎之像
松並木が終わった付近に建っています。
昔 笛吹川は北から西に流れ、昔の方角で言うと「子」から「酉」の方角に流れていたので子酉川(ねとりかわ)と呼ばれていました。
昔、笛の名手 笛吹権三郎と母親が子酉川のそばに住んでいましたが、天正5年(1577年)の洪水で母子ともに洪水に流されてしまいます。権三郎はなんとか助かりますが、母親は濁流にのまれ行方不明になりました。笛を吹けば母親を呼び寄せられると考えた権三郎は笛を吹きながら母親を探し続けますが、疲れ果て権三郎も川に流されて亡くなってしまいます。
これ以後、川の音が笛の音の様に聞こえる様になった事から笛吹川と言われる様になったとの事です。(YBS山梨放送ホームページより)
笛吹川という名称は深沢七郎の小説で若い頃に知りましたが、”笛吹川”という響きは、美しく、どこか物悲しい感じがします、こんな由来があったと初めて知りました。
テアトル石和
石和の中心部からは少し離れていますが、閉館した映画館がありました。
物凄く昭和を感じるネーミングと建物です。
この映画館で多くの人が笑い・泣き・感動したことでしょう。
映画館で観る映画は同じ映画でもTVで観るのとは異なった感動を覚えます。
石和宿の家並み
写真左は笛吹権三郎像から直ぐの街道筋です。桜が咲いているだけで歩いて心地よいと思えます。
写真右は石和宿の中心部です。
大きな温泉旅館や商業施設が立ち並び宿場の雰囲気はありません。
有名な温泉地で、昭和の頃の団体旅行が減ったとは云え、華やかな感じがします。
石和本陣跡
石和の中心部、大きな温泉施設などがある付近です。
明治13年(1880年)の石和の大火事で建物は焼失し土蔵1棟が残るのみです。
この後、石和温泉駅付近に止めた車まで行って今日の歩きは終わりです。
街道の道筋に桜・桃・菜の花・水仙が咲き、暖かな日差しに包まれて歩いた良い道でした。
エピローグ
本日の温泉 公衆浴場石和温泉
インターネットで石和付近の日帰り温泉を探したら見つかったのでお邪魔しました。
食堂と一緒になった温泉で入口を入ると食堂で食堂の奥が温泉の入口になっています。なんと入浴料は430円です。
温泉は小さめの銭湯という雰囲気で嬉しい事に富士山のペンキ絵が描いてありました。近所の方達なのか数人の方と一緒に湯舟に浸かり疲れを癒しました。学生の頃通った銭湯を思い出して懐かしい気持ちになりました。
車でなかったら風呂上りに食堂でビールを飲みたいところですがグッと我慢しました。
いつまでも残っていてほしいものです。
END
2021/04/30 作成
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