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電子足跡:旧甲州街道歩き旅
 石和宿から甲府城下を通り韮崎宿へ
  満開の桜越しに富士山を望む道


プロローグ

このページは旧甲州街道を石和温泉から甲府城下を通り韮崎まで歩いたページです。富士山やアルプスの山々の眺望が良いという事では旧甲州街道の中でも群を抜く区間だと思います。それに加えて満開の桜が咲き誇り、日本に生まれて良かった~!と思える道です。
という事で街道歩きのホームページなのに街道沿いの史跡より富士山をはじめアルプスの山々の写真が多いページです。

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都道府県 区間 歩いた日 GPS
移動距離
備考
山梨 石和温泉駅-韮崎駅 2021年03月29日 20.0km



↑GoogleMapと地理院地図にGPSログと写真がマッピングされた地図が開きます GPSログを
GoogleEarthでツアーする方法


カシミール3D 国土地理院 
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)

石和宿
 

石和宿は現在では温泉地として有名になっています。石和駅周辺に大きな温泉旅館が立ち並び、ひと頃ほどの賑わいではないと思いますが、それでも街が華やかな感じがします。宿場の雰囲気は無いので足早に通り過ぎてしまいました。


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石和宿から甲府城下への道


青梅街道追分
 山崎三差路
写真の車が出てきた道が青梅街道です。
日本橋から歩いてくると甲州街道は新宿三丁目の伊勢丹前を左に曲がって進みますが、真っすぐ進む道が青梅街道です。
いつも思うことですが、追分を見ると、もし青梅街道を歩いてここまで来たら途中どんな風景が見れたのだろうと思います。

山崎刑場跡
追分のすぐそばに刑場跡があります。大きな名号塔とその下に小さな六地蔵が並んでいます。処刑は見せしめの意味合いがあったので通行量の多い街外れの街道沿いにある事が多いです。どの街道の刑場跡も、多くの場合そこが刑場跡と知らなくても、どこか異様な雰囲気を感じます。


酒折宮
道標を右に進むと酒折宮に行く道です。
日本武尊が東征の帰途、この地で翁に「火打袋」を与えたものを御神体としているとの事です。
日本武尊の東征は古事記・日本書記に書かれている事ですが、それぞれの成立は古事記(712年) 日本書紀(720年)で日本武尊の東征はそれより400年程前に遡る伝承です。
ところで勝手な想像ですが「火打袋」を御神体にしているとの事ですが、この火打袋は日本武尊が相模国の野原で火攻めにあったとき、火打石で火をつけ火勢を相手側に向かわせて難を逃れたと言う伝説と関係がある火打袋なのかな~ と想像を逞しくしました。


甲府城下
 

甲府市街は美しい街です。なんの変哲もない近代的なビルが並ぶ街ですが、標高が少々高い為か空気が澄んでいる感じがします。そしてなんと言ってもビルの間から雪を頂いた山が借景の様に見え隠れする事で街並みの印象を各段に良くしています。




韮崎宿への道

甲府城下を越えて荒川と貢川が合流する付近で運よく富士山にかかっていた雲が切れ始め、まるで舞台の幕が上がるときの様な高揚感を感じました。
甲府市街もこの付近まで来ると高いビルは途絶え周囲の山並みがよく見える様になります。


写真左:貢川河畔の桜
写真右:南アルプス農鳥岳を背景に咲く桜


南アルプス (写真中央付近から 広河内岳 農鳥岳 西農鳥岳)


八ヶ岳
 (左から 編笠山 三ツ頭 阿弥陀岳 赤岳 横岳)


竜王付近の球形道祖神
これまで見た道祖神は中山道などの双体道祖神、北国街道の正統派道祖神(名称を書くのが少々憚られる)、或いは道祖神と書かれた石柱などでした。
丸い道祖神は初めて見ました。現代の感覚から言えば群馬や長野の中山道や北国街道はそれ程離れていると言うものではありませんが、昔は甲斐国、上野国、信濃国と分かれ、行政区は勿論 文化圏も異なる土地だったのでしょう。現代の様に何処に行っても同じ様なスーパーマーケットで同じ様なものが売られ、同じ様なものを着て、同じような言葉を話す均質化した世界より遥かに多様で変化に富んだ社会だったのではないかと感じます。
左:中山道板鼻宿付近の双体道祖神
右:北国街道長野付近の正統派道祖神

赤坂
竜王駅付近で旧甲州街道は北西に向かって進みます。JR中央線の踏切を越えて少し進むと登り坂になります。
ことさら登り坂と書いたのには訳があります。電線が邪魔するのは仕方ないですが、登って行きながら道を振り返ると富士山がより良く見える様になるからです。


自分で言うのもなんですが、凄く俗っぽい写真です。やはり日本人です。富士山と桜の組み合わせを見るとどうしても写したくなります。


これまで旧街道を随分歩きましたが、満開の桜並木の中を歩く経験はそう多くはありません。
はんなりとした桜の香りが鼻腔をくすぐり、春の訪れと相まってどこか嬉しく感じます。


そして、赤坂を登りきると・・・

視界に甲斐駒ヶ岳の屹立した荒々しい岩肌が飛び込んできます。

下今井の家並み

如何にも旧街道という感じの道筋にナマコ壁の家が建って風情のある一角です。
インターネットの情報ですと、なまこ壁は富士川・釜無川の水運により、伊豆半島から持ち込まれたと言われています。


天真山 自性院
明和2年(1765年)に敷かれた石畳


下今井は河岸段丘の上に開けた町です。高速道路を越えたあたりで釜無川の氾濫原に降ります。

泣石
塩崎駅のそばにある高さ3.7m、幅2.7mの大きな岩です。説明版によるとかつては現在地より約100m南東にあって、中央部から水が流れていたが、鉄道の開通により水脈が絶たれてしまい今は流れていません。
天正10年(1582年)武田勝頼一行は完成したばかりの新府韮崎城に火を放ち、岩殿城に落ちのびる途中、勝頼夫人は燃える韮崎城を振り返り涙を流したという言い伝えがあるとの事です。

旧庄屋宅
釜無川の氾濫原に建つ大きな旧庄屋宅です。立派な門に驚きます。
何時頃から建っているのか分かりませんが、氾濫原にこんな大きな家を造るかな?と疑問に思いましたが、武田信玄以来の治水工事で意外と氾濫はしなくなっていたのかな、などと思ったりもしました。




それは兎も角、氾濫原で広く障害物が無いので富士山が良く見えます。


韮崎宿
 

韮崎には塩川に架かる塩川橋を渡って入ります。塩川橋からも富士山が良く見えます。


韮崎の市街はあまり特徴は無いですが、街中からも韮崎駅そばの高台の平和観音が見え隠れします。


韮崎駅の手前1km程の所を歩いていたら、私と同世代と思われる女性から声を掛けられました。『韮崎駅に行きたいのですが、迷ってしまいました。』との事。
同じ方向に行くので道案内をする事になり、道すがらお話を伺うと、八王子から韮崎に来て、韮崎大村美術館に行って帰ろうと思ったら韮崎駅に行くバスが出た後だったので歩いて駅まで行く途中で迷ってしまったとの事でした。
韮崎大村美術館は2015年にノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智博士が収集した美術品を韮崎市に寄贈した作品を展示しているとの事でした。
八王子に住んで居ながら隣県の山梨を訪れるのは初めてで、東京の隣にこんな美しい所があるとは知らなかったと感動していました。
それにしても、その女性、韮崎駅とは反対方向に向かって歩いていました。私は街道歩きで地図を持っていたので少しお役に立てました。

エピローグ
 


武田神社

甲府市街の北側に武田神社が鎮座しています。武田信虎・信玄・勝頼と武田家が滅亡するまでの武田家当主の館跡です。境内の桜は勿論、参道の桜並木は圧巻です。

昭和14年1月から8か月、新婚時代の太宰治は甲府に住み、富嶽百景、女生徒、新樹の言葉などの作品を執筆し、『春昼(しゅんちゅう)』という作品なかに武田神社の桜について書いています。(境内の説明版を要約)






END

2021/05/17 作成
 

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