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電子足跡:旧甲州街道歩き旅
 御射山神戸(ごうど)から下諏訪宿へ
  甲州街道始終点  中山道追分


プロローグ
 

このページは旧甲州街道を長野県神戸(ごうど)から甲州街道の始終点である下諏訪宿の中山道との追分まで歩いたページです。

甲州街道のクライマックスは諏訪湖を左に見下ろしながら進む風景の良い道で、甲州街道と中山道が交わる場所には諏訪大社下社秋宮が鎮座しているので参拝の道でもあります。


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都道府県 区間 歩いた日 GPS
移動距離
備考
長野 すずらんの里駅-下諏訪駅 2021年04月01日 22.9km


↑GoogleMapと地理院地図にGPSログと写真がマッピングされた地図が開きます GPSログをGoogleEarthでツアーする方法

旧甲州街道 御射山神戸から下諏訪宿
カシミール3D 国土地理院 
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)


御射山神戸(みさやまごうど)
 

神戸は正式な宿場ではなく間の宿でした。

すずらんの里駅
御射山神戸はJR中央線 すずらんの里駅 が近いです。すずらんの里駅は無人駅で八ヶ岳の裾野を宮川が浸食した段丘涯の真下にあって周囲の土地より少し高い位置にあります。その為に駅からの眺望が良く独特な雰囲気があります。


家並みが途切れる付近に三叉路があります。風化が激しく私は文字を読む事は出来ませんが石柱が建っています。(ちゃんと歩ける甲州街道 には馬頭観音と書かれている) 左側の坂道が旧街道のルートです。


石仏・石塔群
坂の途中に多くの石仏石塔が集められた場所があります。よく見ると 馬頭観音 と書かれている石塔が多い様に感じます。中には 名馬あか号 と書かれた馬頭観音もありました。かつて荷役の多くを馬が担っていて、その馬が亡くなると馬を弔う為に馬頭観音を建てたのかなと想像します。
現在では想像するのも難しいですが、当時は馬と人の関係が濃密だったのだと思います。


御射山神戸の一里塚
坂を登り切った所にあります。説明板によると日本橋から48里目(49里目とする説あり)の一里塚です。対で残っている上に西側の塚木(写真では手前)は塚が築かれた慶長年間(1596~1615年)に植えられた欅と言われています。
圧倒的な存在感です。


写真左:神戸方面を望む 旧街道は国道20号線より高い所を通っていました。
写真右:ゆるぎ石
 触ると揺れたと言われていました。
 江戸時代はこの巨石を金沢宿の出入口の目安にしたそうです。


金沢宿
 

旧街道の道筋から再び国道20号線に合流した付近から金沢宿の家並みが始まります。現在の金沢宿の家並みは国道20号線に沿って長く続いています。 現在の交通網から考えると意外な感じがしますが、金沢宿からは西側の金沢峠を越えると伊那地方に繋がり、東は佐久・小諸、そして甲州街道を通じて北は諏訪、南は甲州と繋がり人流・物流の結節点として栄えた宿場だったとの事です。

旧宿場内は所々当時の建物が残っています。
天保14年(1843年)の記録には旅籠が17軒あったそうです。
全体の印象としては、一般的に江戸時代の家並みは各戸の間口が狭く奥行きが長い印象がありますが金沢宿の建物は間口が広く伸びやかな印象です。

旅籠 丸屋
説明版によると、火事で何回か建て替えられたたそうですが、元は 間口10間、奥行き8間で当時としては大きな旅籠だったそうです。
建物の一部は中山道でよく見た出梁造りになっています。


中馬宿(ちゅうまじゅく) 馬宿(うまやど)
説明版によると、江戸中期以後商業が発達し荷物の運送が増えると、公設の問屋経由の運送では間に合わなくなり、私設の荷物問屋(中馬宿)が発達し輸送を担う様になったとの事です。この馬宿は江戸時代から明治38年まで150年間営業していたとの事です。当時は24頭の馬と馬方を泊める事ができたそうです。
道路脇に馬を繋ぎとめる 馬つなぎ石 が一基残っています。


構造上 梁の木口に彫刻を施す必要は無い訳ですが、神社の様な彫刻が施されている家屋がありました。当然手間と費用が掛かるので経済的に裕福な宿場だったのかと想像します。


稚児塚・一里塚

金沢宿を過ぎると田んぼの中を歩きます。「寒天の里」と大きな看板が建っています。
寒天は極寒の屋外で作られるので、今日の春のうららかな日差しとは裏腹に冬場の寒さは厳しいのだろうと思います。

さて稚児塚・一里塚へは少し分かりにくく、精神的に歩きにくい道を進みます。険しい道ではないですが派手なホテルの裏側に旧街道が通っています。サングラスをして帽子を深くかぶっている姿は怪しい親父と思われるかな?などと要らぬ心配をしてしまいます。

写真左:稚児塚
後醍醐天皇の第八王子宗良親王が関東の北朝方との戦いに向かう途中、この地で御子が亡くなりここに葬って弔ったとの事です。

写真右:金沢の一里塚
日本橋から49里目 道路の改修や中央線の敷設などにより塚は無くなったとの事です。


上諏訪宿への道

木舟集落を過ぎると段丘涯と宮川の間に人里離れた雰囲気の良い道が続いています。




茅野市街
これまで宮川に沿って歩いてきました。宮川と弓振川が合流する付近までくると東側に続いていた段丘涯が途切れかつては諏訪湖の湖底だったのかな?と思える谷底平野が開けます。
茅野市街は大きな街で街道沿いの道の電線も埋設されていたのスッキリとした空が広がっています。


双体道祖神
茅野市街の中心部から少し離れた路傍で見かけました。中山道でよく見かけた双体道祖神です。
この付近は中世は上原城の麓で城下町を形成していたのだと思いますが鍛冶小路、塔所小路、播磨小路、遊女小路などの名前が付いた道があります。この道祖神は甲州街道と塔所小路の交差点にありました。

この道祖神を過ぎて少し行くと旧甲州街道は東に曲がり国道20号線から離れて、
山麓の小高い雰囲気の良い道を進む様になります。





常夜燈と道標
諏訪市四賀桑原という所の交差点の真ん中にあります。道を新しくしたときに移設しないでそのまま残したのかと思いますが、道標に書かれている文字が 諏訪方面から見て ”左江戸みち 右大明神江” と書かれています。”大明神”が諏訪大社上社本宮の事だとすると坂を下って上社本宮方向、真直ぐ進んで江戸方向に行くという事なのかなと思いますが、 ”左江戸みち”を額面通りに受け止めると東側の山に登る事になるので、今一つ良くわからない道標です。


旧甲州街道は山麓の高台に続いていますが、上の道標を越えて進むと、諏訪方面の街並みが見えてきます。
遠景の山並みの鞍部になっている所は中山道が通っている塩尻峠ではないかと思います。


上諏訪宿
 


祝言道祖神

道祖神は一般的には集落の境や三叉路に建てられる事が多いのでかつてはこの付近が上諏訪宿の入口だったという事なのかと思います。
上諏訪の街に入る手前 武津公民館の前にありました。中山道でよくみた様式の道祖神です。

よくぞ残った道
”ちゃんと歩ける甲州街道” を参考にしてカシミール3DでルートをプロットしてGPSデータを作っていたとき、諏訪市清水2丁目の付近は国道20号線から僅かに外れて細い道が書いてあったので、この道はいったいどんな道だろう?と思っていました。
まさか旧甲州街道が家と家に挟まれた路地で現代でも生活道路として隣近所を繋いでいる道だとは思いませんでした。
この様な道を歩くと、ここで昔から営々と人々が暮らし、命を繋いで来たのだと思い、今ここに居る事が当たり前ではなく、文字通り ”有難い” ”有る事が難しい” と感謝する気持ちになります。
一応 私もボッーと歩いているだけでなく、いろいろな事を感じながら歩いているんですよ。

上諏訪宿内
街道沿いの家並みは徐々に都会的な雰囲気になってきますが、所々に旧街道の面影が残った建物があります。それにしても造り酒屋が多い土地です。

写真左:染一染物店
写真右:宮坂醸造


写真左:酒ぬのや本金酒造
写真右:舞姫(酒造)


どちらを歩くか?
宮坂醸造が在る交差点に北に向かって斜めに接続して上諏訪駅に向かっている道があります。GoogleMapではその道に ”旧甲州街道” と書かれています。
”ちゃんと歩ける甲州街道”には国道20号線を通るルートが掲載されています。
GPSルートデーターをプロットしていた時はGoogleMap書いてある方の道をプロットしていたのですが、実際歩いた時は国道20号線を歩きました、時代によって道筋が変わったのか、どちらが旧甲州街道なのかは分かりません。
ちなみに、シングルおやじの気ままな一人旅の歩人かっちゃん氏は国道20号線を歩いた様です。

正解はこちら
と、上記の様に書いて一旦公開したのですが、Twitterでフォローさせて頂いている街道歩きの方達からご意見が寄せられました。
その中に上諏訪宿の絵図を示した方の意見がありました。
その絵図には現在 ”鍵之手交差点” と言われている枡形が記載され、GoogleMapに ”旧甲州街道” と書かれている宮坂醸造の所から北に曲がる脇道も描かれ、角間川も描かれています。
更に、以前歩いた時に国道20線沿いに小平本陣跡も在ったとの話もあったので、国道20号線が旧甲州街道だったと思うに至りました。
Twitterでフォローさせて頂いている皆さん有難う御座いました。
もしこれから旧甲州街道を歩く方は迷わず国道20号線を歩いてください。

注:
ここに記載している絵図に関しては 郵政博物館のホームページに掲載されている ”『五街道分間延図』と『宿村大概帳』の制作 杉山正司” に掲載されている ”図19 上諏訪宿貼紙” を確認させて頂きました。

上諏訪駅でそばを食べてから歩きを再開しました。
道は駅前を通る国道20号線ではなく東側の崖下に続く道です。

その崖下の道を歩くと道は急カーブになり、より東の標高が高い山側を歩く事になります。

諏訪市湯の脇・温泉寺
正式な地名が ”諏訪市湯の脇” で そこに在るお寺が ”温泉寺”。 地名はあり得る地名かなと思いますが、お寺の正式名称が ”臨江山 温泉寺” というのは少々驚きます。上諏訪温泉の源泉を守る為に二代高島藩主諏訪忠恒が寛永17年(1640年)に建立し、高島藩主諏訪家の菩提寺との事です。


場所的には諏訪湖東岸の間欠泉センターがある七ツ釜温泉源湯がそばにあります。
古来より温泉が湧いていた土地なのでしょう。

下諏訪宿への湖畔の道


先宮神社(さきのみや)
創建は古事記の国譲り神話の一節にも書かれているとのです。
かつて別名を鷺宮と言っていて濁点がとれて ”さきのみや” になりその音に”先宮”をあてたと書いてある情報もありました。

先宮神社を過ぎると街道筋からも諏訪湖が良く見える様になってきます。
中山道、北国街道を歩いて琵琶湖を見た時も感じましたが、湖の風景は穏やかで平和な感じがします。頭の中で NHK小さな旅のテーマ曲 大野雄二作曲の「光と風の四季」が静かに流れます。




茶屋橋本政屋
街道に面して江戸時代後期の古風な建物が残っています。門は高島城三の丸門を移築し、龍・亀・鯉のコテ絵が描かれた土蔵や大きな石灯籠などが残されているそうです。茶屋と聞くと現在の喫茶店を連想するかもしれませんが、当時の茶屋は料亭の事で諏訪湖で獲れる魚とりわけ鯉料理が有名だったとの事です。
裏側からは諏訪湖が見渡せ、高島藩の殿様も諏訪湖の風景を楽しみながら食事をした事でしょう。



注:橋本政屋の公式ホームページには、建物は基本的には閉め切りですが、中を見学したい場合はホームページに記載されている連絡先まで連絡くださいと書かれています。

明治天皇駐輦址
駐輦(ちゅうれん)とは天皇が行幸の途中で車をとめること。輦は天皇が乗る車。だそうです。
この碑が建っている場所はとりわけ諏訪湖の眺望の良いところです。明治天皇も風景が良いので思わず車を止めて諏訪湖で投網で漁する風景を見たとの事です。





最後の一里塚
日本橋から53番目の一里塚で甲州街道最後の一里塚です。
あと11町(約1100m)で下諏訪宿の中山道との追分に着きます。


諏訪湖の湖面の変化
これまで現在の諏訪湖の湖面よりかなり高い場所に続く旧甲州街道を歩いてきました。水を確保する、諏訪湖で漁をする、諏訪湖を使って物資を輸送するなどを考えると街道は湖岸に近い方が便利なはずと感じます。
また地形を見ても茅野駅付近から北は元々は湖底だったのではないかと思われる地形です。元々諏訪湖の湖面は今よりかなり高かったのではないかと自然に疑問が沸きます。

そこで調べてみました。長野県のホームページの中に諏訪湖の湖面の変遷に関する記述があったので紹介します。
以下は長野県のホームページ 第9章 諏訪湖にまつわる話 49諏訪湖の御身渡り (nagano.lg.jp) からの引用です。

● 変化した諏訪湖の湖面
諏訪湖の面積が最大となった時には、標高800m近くまで広がっていたことは、地質的に上諏訪中学校庭下の泥炭層、河湖成段丘の存在などにより確認されています。この標高で湖畔線を推定しますと、岡谷の湊側は中央道下になり、諏訪大社の上社、茅野市の西山団地、坂室、茅野市役所、そして諏訪市の清陵高校上、上諏訪中学校付近、温泉寺を経て、下諏訪町の諏訪大社下社の秋宮付近、岡谷市の長地中村、山の手、川岸へと結ぶことになります。
その後、湖面は河川からの土砂流入と天竜川の釜口の河床低下による湖水位の低下により縮小されていったといわれています。さらに、江戸時代の浜中島、弁天島の撤去などの湖尻の切り開きや埋立て、干潟の出現により小さくなっていきました。明治18年の測量では、湖の面積は約 14.5km2 とされています。その後の埋立て、干潟の出現、湖底の
浚渫土による埋立てにより、現在の湖面積は約 13.3km2となっています。(A)
また、宮坂宮司(八剱神社)は、「八剱神社には、江戸時代の諏訪湖を写した絵図があります。これらをずいぶん諏訪湖の大きさが違っていたことがわかります。また、鎌倉街道を結ぶ線が、この標高800m と一致しますし、諏訪大社を
はじめ、手長、足長神社等の主だった神社もこの街道沿いにあります。その後、甲州街道、国道20号と主だった道の位置が変わっていったのは、湖面の変化と無関係ではないでしょう。」と指摘されまた。


注:図中 文字の囲み、方位、昔の湖面の水色は筆者が加筆しました。

次に ”国幣中社諏訪神社下社絵図” を見ると下諏訪宿や中山道・甲州街道のそばが湖になっています。
甲州街道や中山道が成立した頃は秋社・下諏訪宿の前まで湖面が迫っていた事が分かります。

注:絵図は民家の入口に掲示されていたものを使わせて頂きました。 赤文字は筆者の加筆です。

以上の様に諏訪湖の湖面は現在は標高760mくらいですが、時代によって変化したものの今より最高で40m程高かった様で、湖の大きさも現在より数倍大きかった様です。JR中央本線下諏訪駅は明治38年(1905年)開業ですので、開業の頃、湖岸は上の絵図より後退していたのではないかと思います。
かつて甲州街道を行き来したご先祖様達は今と違った風景を見ていた事になります。

下諏訪宿
 

いよいよ甲州街道と中山道の追分がある下諏訪宿、ゴールです。
下諏訪宿は宿場であると同時に諏訪大社下社秋宮の門前町でもあります。更に中山道の街道筋で唯一温泉が沸いていた宿場です。甲州街道は諏訪大社秋宮の前を通っていました。
諏訪大社は諏訪湖を挟んで南側の上社 本宮・前宮、北側の下社 秋宮・春宮の二社四宮の境内があります。全国にある諏訪神社の総本社です。


諏訪大社下社秋宮




甲州街道と中山道追分
写真左:甲州街道から追分を望む
 手前の石畳の道が甲州街道/直進方向は中山道和田峠方面/左は京方面
写真右:追分から京方面を望む


甲州街道・中山道合流地点 ゴール


この地を訪れるのは2018年6月15日以来です。そのときは中山道を和田峠方面から歩いてきました。その時は和田峠越えで疲労困憊の状態で歩いてきたのでゆとりが無く、この合流地之地の石柱を見落としてしまいました。諏訪大社も参拝したものの疲労で写真も殆ど写さなかったです。
今日は湖岸のアップダウンも少ない道を歩いたので気持ちにゆとりがあります。
諏訪大社をゆっくり参拝し旅の無事を感謝しゴールする事が出来ました。

これで2019/11/26に日本橋を出発してからコロナ禍で中断したもののようやく甲州街道を歩き終えました。1年半ちかくに及んだ歩き旅は終わりました。

ここ下諏訪宿で旧甲州街道の歩き旅は終わりです。
でも、道はまだまだ続いています。興味と体力そしてなにより好奇心が旺盛な方は画面下の 「To Kyoto」 ボタンを押して中山道の歩き旅を楽しんで下さい。「中山道歩き旅 下諏訪宿から贄川宿へ」のページにジャンプします。

エピローグ
 

甲州街道を歩いた感想ですが、最初の都内の道は都会に住んでいる方達にとっては何の変哲もない普段の道かもしれませんが、地方出身で一時期東京に暮らしていた私にとっては若い頃を思い出す懐かしい道でした。

高尾山付近からは旧街道の面影が色濃く残る良い道で、都心からこんな近い所に雰囲気の良い旧街道が残っている事に驚きました。

甲府盆地は周囲を山に囲まれ、富士山や南アルプスの山並みが見え、美しく巨大な箱庭という雰囲気でした。

韮崎から先は前方に八ヶ岳を望み、30kmに及ぶ七里岩断崖を右に見て、左には甲斐駒ヶ岳を仰ぎ見る地形的にも興味深く風景の良い道でした。

長野県に入り諏訪湖を望む道は湖面の穏やかさによるのだと思いますが、静かで平和な風景という印象でした。

ゴール地点には諏訪大社が鎮座し、TVで良く見る御柱祭の木落の勇壮な映像とは裏腹に、深い森に囲まれた荘厳な社殿で、ここまで歩いてこれた事に感謝しこれまでの時間を振り返る瞬間でした。

ふろく
 

諏訪大社下社秋宮から北西に直線距離で1km程の所に春宮が鎮座しています。
中山道を和田峠方面から来ると、中山道は春宮の境内の東側を南に向かって通っていて、鳥居が在る付近で東南に進路を変え秋宮の方向に向かいます。

諏訪大社下社春宮


万治の石仏(ばんじのせきぶつ)
春宮の西側を流れる砥川を渡って直ぐの所の万治の石仏があります。
岡本太郎が万治の石仏を見て感動し何回も訪れたというのは有名です。
プリミティブで素朴、そして少しユーモアがある親しみやすいお姿はホットした気持ちになります。





END

2021/06/24 作成
 

Column


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