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電子足跡:長崎街道歩き旅 木屋瀬宿から桂川駅へ
NHK朝ドラ "花子とアン" で描かれた
歌人白蓮が暮らした旧伊藤伝右衛門邸を通ります
プロローグ
このページは長崎街道を木屋瀬宿から飯塚宿を通り筑豊本線桂川(けいせん)駅まで歩いたページです。この区間は、木屋瀬の宿場らしい家並みを通り、直方の段丘涯の上の立派な多賀神社を参拝してから歩いて行くと、明治・大正・昭和初期に筑豊の炭鉱王と云われた伊藤伝右衛門の邸宅の前を長崎街道が通っています。
伊藤伝右衛門とその妻 柳原白蓮はNHK朝ドラマ "花子とアン" で描かれたのでご存じの方も多いと思います。
伊藤伝右衛門邸は公開されており、明治・大正・昭和初期の筑豊地方の石炭産業の隆盛に思い馳せ、伝右衛門と白蓮の夫婦の関係を知り、結婚・家族・家庭というものが何なのかを考えるきっかけになると思います。
歩きデータ
都道 府県 |
区間 | 通る宿場等 | 歩いた日 | GPS 移動距離 |
福岡 | 筑豊電鉄:木屋瀬駅-筑豊本線:桂川駅 | 木屋瀬宿、大師六角堂、直方、多賀神社、郡境石、旧伊藤伝右衛門邸、飯塚宿、瀬戸の渡し跡 | 2023/10/06 | 28.8㎞ |
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木屋瀬宿
東構口から西構口(構口=宿場の出入り口)まで1100mの宿場でした。
その間に写真の様に宿場らしい家屋が残っています。
写真左:船庄屋跡(梅本家)
写真右:旧高崎家住宅
写真左:村庄屋(松尾家)
写真右:追分の道標 右赤間道 左飯塚道
赤間道=福岡県宗像市赤間へ 飯塚道=長崎街道 福岡県飯塚市へ
西構口跡
木屋瀬宿長崎側出入口。石垣が残っています。
木屋瀬宿から
木屋瀬宿を過ぎると遠賀川に沿って道が続いています。九州の道は見慣れている東日本の風景と異なり高い山脈が無いせいか、開放的で開けた感じがします。
遠賀川の架かる日ノ出橋を渡ると直方(のおがた)市街地を歩きます。
長崎街道は市街地の真ん中を通っています。
大師六角堂
通学の高校生の集団が過ぎ去ったあと、静まり返ったアーケード街を歩きました。街はまだ眠っています。
多賀神社
直方市街の河岸段丘の上に大きな神社が鎮座していました。私が住む新潟県ではあまり馴染みがない神社です。多賀神社は祭神は国生み神話の伊邪那大神・伊邪那美大神の二柱との事です。
尾崎口御門跡
多賀神社に参拝してから少し進むと尾崎口御門跡が在りました。
直方が黒田支藩の城下町だった時代のなごりで城下の南の出入り口だったそうです。
旧城下を過ぎると人家も疎らになり田園地帯を歩きます。
郡境石
『従是北鞍手郡』『勝野村』と刻まれています。現在でも郡境石付近の北側は鞍手郡ですし、勝野という地名も残っています。それにしても、何100年も前の境界が現在の行政境界まで続いているのは驚くと同時に、現在は過去の上に成り立っているのだという事を思い起こさせてくれます。
ここが長崎街道?
閉店したパチンコ屋さんの前の駐車場が長崎街道でした。住所としては飯塚市目尾です。旧街道とパチンコ屋さんの組み合わせが予想外でした。
この辺りで、チョットひと休み。
Instagramが開きます。
音楽が流れます。音量注意!
旧伊藤伝右衛門邸
伊藤伝右衛門と柳原白蓮の名前を知ったのは、NHKの朝ドラ 『花子とアン』を見た時でした。
伝右衛門はこの地方で生れ、幼少期から幾つかの商売を手伝い、その為寺子屋に通うことも出来ず成人しました。父親は幕末頃から石炭の将来性に着目して伝衛門もそれを手伝うなかで筑豊の炭鉱経営者になりました。明治36年(1903)衆議院議員に当選しています。
そして、同時に 25歳年上の伝右衛門の妻であった 歌人の柳原白蓮 の名前もそのときに知りました。
詳しい話は他の方達にお任せしますが、『花子とアン』で描かれていたように、伊藤伝右衛門も柳原白蓮も、そのときの時代と云ってしまえばそれまでですが、数奇な人生、複雑な夫婦関係でドラマ以上の悩みや葛藤があったのだと思います。
それにしても、ドラマでは伝右衛門役の吉田剛太郎さんの鬼気迫る演技と仲間由紀恵さんの静かな中にも情念が燃えるような演技は圧巻でした。
俳優は現実以上に現実の感情を表現するものだと感じました。
伊藤伝右衛門邸は長崎街道に沿って塀が続き、大きな寺院かと見まがう様な門がありました。
写真左:白蓮の居室 写真右:居室から見える庭の風景
朝ドラを見た後に訪れていますので、ドラマの影響がより強く私の感情に投影されているのだと思いますが、『家』と『庭』と書いて "家庭"。 この立派な『家』と『庭』には "家庭" は無かったのだと思いました。
飯塚宿
このページを読んでくださっている皆さんの中の何%の方が左の写真を見て
『おっ!』と思われるか分かりませんが、私はかなり小さい時に白黒のブラウン管TVでリアルタイムに "チロリン村とくるみの木" を見ました。
注:"チロリン村とくるみの木" は1956~1963年にNHKで放送された人形劇
オランダ屋敷跡
長崎街道を行きかったオランダ人が宿泊した建物が在った場所。
江戸に参府するケンペルやシーボルトも宿泊したのではないかと書かれていました。
飯塚本町商店街
かつての長崎街道がそのままアーケードの商店街になっています。
昭和感溢れる商店街でした。ただ人通りが少なかったです。
写真左:森鴎外文学碑
写真右:飯塚宿構口跡
飯塚宿から桂川(けいせん)駅へ
飯塚宿を過ぎると長崎街道はほぼ筑豊本線に沿って続いています。瀬戸の渡し
住所で云うと嘉穂郡桂川町瀬戸90の泉河内川を渡る "瀬戸の渡し" は今はありませんので迂回路を進む事になります。
私は右図の様に歩きました。(青線=推測ルート ピンク=実際に歩いた道)
泉河内川
かつては川幅10間(約18m)ほどで、当時は徒歩渡りだったようです。
渡し場の傍らには川波家が川庄屋を務めていて、川を渡る旅人は川波家で休憩したそうです。
昭和47年に泉河内川に架けられた "ひのくま橋" を渡って西岸に来ました。
今日のゴール桂川駅はもう少しです。
国道200号線の信号を横断して長崎街道に戻りましたが、交差点の名称が "寿命 (Jumei)" でした。この付近の地名が 寿命 らしいのですが、初めて出会った地名です。
"寿命"と書かれた隣が赤信号はチョット気になります。
今日は筑豊本線 桂川駅まで歩いて行動は終わりです。
エピローグ
この道はなんと云っても旧伊藤伝右衛門邸を訪れた事でした。個人の家とは思えないくらい大きく立派な建物と庭でした。
係りの方に「もし、現代にこの建物を建てたらどのくらいの費用が掛かるのでしょうか?」と聞いたら『想像できないくらいの費用が掛かると思うし、そもそも建材がもう調達できないので建築する事が困難だと思います。』『例えば、そこの杉の戸は一枚の杉板から出来ています。こんな大きな杉の一枚板を入手するのは困難です。』という答えが返ってきました。
そして、何より朝ドラの『花子とアン』を見てから訪れたのですが、その当時の伝右衛門と白蓮の愛憎や悩み葛藤が渦巻いていた空間が、今は全てを包み込んでいる様な静かな空間でした。
ありきたりきな言葉ですが、人が幸福を感じるときに、立派な家も庭も物も必要はなく、優しさに包まれた家族・家庭があれば充分なのだと思えました。そして、どんな事が起こっても、時が全てを包み込んでくれるとも感じました。
END
2024年06月15日 作成
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