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電子足跡:長崎街道歩き旅 桂川駅から原田宿へ
最大の難所 石畳が残る 冷水峠越え

プロローグ

長崎街道を歩き始めて3日目、今日は桂川駅から内野宿、山家宿、原田宿まで歩きます。
内野宿と山家宿の間は長崎街道最大の難所と云われた冷水峠を越します。冷水峠は標高300mほどですのでそれ程高い峠を越す訳ではありません。
そして冷水峠は、なんと云ってもかなり長い区間に石畳が残っています。
山間の深い森のなかに続く少し湿った石畳の道を小鳥のさえずりを聞きながら歩くのは風情があります。

冷水峠を越すと山家宿です。古代の街道がどの様なルートだったのかは分かりかねますが山家宿から北西へ6㎞ほどの所に大宰府があります。
もしかしたら、菅原道真や東国からほぼ強制的に連れてこられた防人達が通った道かも知れません。

原田宿は古来から北九州の交通の要所で、多くの人と物資が行きかった宿場です。そして原田宿はこの地方の地名の由来になった筑紫神社が鎮座しています。

歩きデータ
都道
府県
区間 通る宿場等 歩いた日 GPS
移動距離
福岡 篠栗線(福北ゆたか線)桂川駅‐鹿児島本線 原田駅 内野宿、冷水峠、山家宿、筑紫神社、原田宿 2023/10/07 23.2㎞



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桂川駅から内野へ

昨日歩いた桂川(けいせん)駅からスタートです。桂川駅は筑豊本線と博多方面に行く篠栗線(福北ゆたか線)の接続駅です。桂川は地方の小さな町で、歩き始めると廃屋が在ったり、彼岸花やコスモスが咲く田園の風景が広がっていたり良い雰囲気でした。






内野宿
 


内野宿は小さな宿場だった様で、下の絵図に書かれている東西の構口間の距離は400mほどです。
その間に古風な民家が点在していますし、取り壊された家屋にもかつての屋号が書かれた看板が立てられていて昔の面影を想像する事ができます。





内野宿から山家(やまえ)宿へ  冷水峠越え

内野宿と山家宿の間は3里ほどです。これまでそれほど高い峠を越す事はありませんでしたが、この区間は大難所と云われた標高300mほどの冷水峠を越えます。


冷水峠遠望


冷水峠の石畳
冷水峠の登り口付近から峠付近までかなり長い区間に石畳が点在しています。
この石畳を参勤交代の武士、坂本龍馬、勝海舟、シーボルト、吉田松陰、伊能忠敬、そして徳川吉宗に献上される象も歩きました。




首無し地蔵
登り道の途中 谷川の所に社が2つ建っています。
社のなかに首無し地蔵が安置されていました。

-首無し地蔵の謂われ-
昔、悪者がこの峠で旅人を殺害した。悪者はこのことを道ばたのお地蔵様に向かい、誰にも言うなという。お地蔵様は「ワシは言わぬがわれ言うな」という。悪者は驚いてお地蔵様の首を叩き落として行方をくらました。
その後何年かして二人の旅人がここを通りかかる。谷川の水で喉をうるおし、お地蔵様を拝すると、首がないのに一人は驚くがもう一人の男はあの悪者であった。悪者は「ワシは言わぬがわれ言うな」のお地蔵さまの言葉を忘れて、その首のないわけについて何年前かの自分の仕業を自慢げに白状した。話を聞いた男は、前にここで殺された旅人の血縁であったので、仇打ちが行われた。(飯塚観光協会HPより)

この謂れの前半の部分は中山道 熊谷宿の手前の荒川土手にある "藪原の権八地蔵" の謂われと同じです。中山道の権八地蔵は歌舞伎や講談で知られる 白井権八のエピソードがベースになっているとの事なので、推測ですが、冷水峠の首無し地蔵も歌舞伎や講談の話が伝わって伝承になったのではないかと思います。

首無し地蔵の隣の社には仏像が納められていました。

首無し地蔵は谷筋にあります。この川が "冷水峠" の名前の由来になったとの事です。
谷筋ですので大雨の時は増水すると思われますので大雨の後などは飯塚観光協会などに歩けるか確認した方が良いかもしれません。


冷水峠付近


写真左:大根地神社鳥居  本殿は標高652mの大根地山の山頂付近です。
写真右:郡境石  『従是東穂?? と読めます。』
  かつて存在していた穂波郡と御笠郡の境界石との事です。


峠を越えると舗装道路になりますが旧長崎街道の雰囲気は続いています。
それにしても緑が深い森です。


冷水峠からかなり下ってきて、国道200号線の冷水トンネルの西側出入口付近の道路脇に谷方向に向かって"長崎街道"と書かれた道標がありました。
谷側の斜面を確認したら、道の痕跡がありましたが、歩けそうもないので舗装道路に戻りました。



人家が見えるようになってきて、長崎街道最大の難所と云われる冷水峠越えは終わりです。



 冷水峠を越えたので、チョットひと休み。

 Instagramが開きます。

 音楽が流れます。音量注意!

山家(やまえ)宿
 

筑豊本線筑前山家駅の北側が山家宿でした。

筑豊本線の踏切を渡ってすぐに山家宿東構口が在りました。
となりには大庄屋役宅跡の長屋門跡がありました。
大庄屋は江戸時代に郡を更に幾つかに区分した行政区で現在で云えば市や町を区分した支所のようなものかもしれません。年貢の割り当て、土木工事の割り当て、参勤交代の人馬の手配など行政の実務的な役割を担っていました。


現在の山家郵便局を越えて直ぐに西に曲がります。

郡屋跡
郡屋は郡内の村役人たちが集まって打ち合わせをする施設だそうです。今でいえば市役所・町役場の会議室のようなものかもしれません。
現在は当時の建物の基礎だけが残っているそうです。

恵比寿石神像
レリーフ状に恵比寿様が彫られています。
背面に下の西構口は慶長16年(1611)に初代代官の桐山丹波守によりつくられたと記されているそうです。

山家宿西構口跡
山家宿の西側の出入り口の跡です。道の両脇に漆喰の白壁が見えますが、本体は粘土を積み重ねた土壁で、平成8年に漆喰を塗りなおして修理したものだそうです。福岡県内で現存する唯一の土塀との事です。



日田街道 山家宿追分
西構口を越えて500mほど歩いて来ると筑豊本線の踏切があります。
長崎街道は右(北西)に曲がって続いています。左(南東)に曲がると日田街道です。今回九州の旧街道を歩いて長崎と鹿児島へ行く計画ですが、長崎街道を歩き終わったら、ここに戻って来てここから鹿児島に向かう予定です。I will come back here again.

どちらが長崎街道?
私は山家宿をピンクの線の様に歩きましたが、上の山家宿追分を右に曲がって少し歩いていると、山の麓に長崎街道と書かれた道標が立っていました。
道標は下の地図の "青い線" が長崎街道であると表示していました。
青の線が長崎街道のルートかも知れません。或いはいつの時代か道が付け替えられてどちらも長崎街道なのかも知れません。


山家宿から原田宿へ


郡境石(二境界石)
山家宿の長崎街道と日田街道の追分を曲がり600mほど北西に向かって歩くと、今度は南西方向に曲がります。その交差点から50mくらい福岡側に行った所に郡界石があります。従是   西御笠郡   東夜須郡 と彫られています。現在でも筑紫野市と朝倉郡の境です。

何故、この郡境石の事を書いているのかという事ですが、この石柱の前の道を北西に歩いて行くと直線距離で6㎞ほどで大宰府があるからです。更にその先には博多があり、大陸と繋がっています。

大宰府と聞いてまず思い出すのは、菅原道真です。
  東風吹かば においおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ

そして、多くは東国から家族と別れて連れてこられた防人達 。
  筑紫辺(べ)に 舳(へ)向かる船の いつしかも
         仕へまつりて 本郷(くに)に舳(へ)向かも

 (筑紫に舟のへさきの向いているこの私が乗っている舟が、いつになったらその任務を終えて、なつかしい故郷へ、そのへさきを向けるのであろうか。)

  韓衣 裾に取りつき 泣く子らを 
           置きてそ来ぬや 母なしにして

  (衣服の裾にとりついて泣き叫ぶ子どもたちを置いて出てきてしまったことだ。あの子らにはすでに母もいないのに。)

1000年以上前に、この道を多くの人達が望郷の念と、残してきた恋人・家族への思いを胸に抱いて歩いて行ったと思うと涙を誘います。
家は建て替わり。道はアスファルトになり。どんなに科学技術が進んで便利になり物質的に豊かになっても、人の心の芯の部分は何も変わる事がないと改めて思います。

注:防人の歌は インターネットの "長柄町/長柄町デジタルアーカイブ" から引用させて頂きました。

原田(はるだ)宿
 

歩く為にルートを調べていた時に原田宿は "はらだ" と読むと思っていました。実際に来てみたら "はるだ" でしたのでチョット戸惑ってしまいました。

原田宿は福岡県と佐賀県の県境付近の都市です。JRは筑豊本線と鹿児島本線が交わり、天神大牟田線は博多方面から続いている線路が南に曲がり有明海に向かいます。
昔も長崎街道は筑豊の飯塚を経由して小倉へ向かっていますし、博多街道は原田の筑紫神社前で長崎街道から分岐し、太宰府を経由して博多へ接続しています。
昔も今も、今も昔も原田宿は有明海方面と博多方面、飯塚方面の結節点であり分岐点で。北九州の交通の要衝でした。

筑紫神社
筑紫神社は奈良時代以前から鎮座する古い神社で、この地方を筑紫国と呼ぶのも筑紫神社に由来があると言われています。
祭神は 筑紫の神 (平和・交通安全 筑紫の国魂) 、坂上田村麻呂(武神)、玉依姫命(縁結び・子孫繁栄)の三柱。

長崎街道を北から歩いて来ると筑紫神社の裏参道を通って参拝する事になります。


原田市街
市街は宿場の雰囲気はありませんが、歩道が広く、電線が埋設されてスッキリとした家並みでした。


今日は原田駅がゴールです。

エピローグ
 

長崎街道の難所と云われている冷水峠を越しました。山間の緑の深い石畳を歩く気持ちの良い道でした。雰囲気としては旧東海道の箱根旧道の感じに近かったですが、勾配は箱根旧道ほどではなく歩き易かったです。
なんと云っても石畳の旧街道は、もしかしたらこの石の上を坂本龍馬、勝海舟、シーボルト、伊能忠敬、江戸に向かう象が歩いたかもしれないと想像しながら歩くと時間旅行をしている様な不思議な感覚になります。


END

2024年07月04日 作成

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