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電子足跡:長崎街道歩き旅
吉野ケ里遺跡から佐賀城下を通り久保田宿へ
プロローグ
このページは長崎街道を吉野ケ里遺跡から、水田が広がる広大な筑紫平野を通り、風情のある佐賀城下を抜け、長崎本線久保田駅まで歩いたページです。吉野ケ里遺跡の発掘のニュースを見たときは衝撃的でした。一度は訪れてみたいと思い続けていました。実際に訪れてみて丘の上に広がる "ムラ" は思っていた以上に広く、そこで弥生人達が生活していたと想像すると、悠久の歴史を感じました。
吉野ケ里遺跡を離れて、弥生時代はほんの一部が水田だったのでしょうけど、それ以来、営々と続く水田の広い平野の中を歩いて佐賀城下まで行きました。
佐賀城下は大きな都市に変貌していましたが、意外と中心部には古民家や道標などが残り良い風情の街並みでした。
歩きデータ
都道 府県 |
区間 | 通る宿場等 | 歩いた日 | GPS 移動距離 |
佐賀 | 長崎本線吉野ケ里公園駅 - 久保田駅 | 吉野ケ里遺跡、田手宿(間の宿)、神崎宿、境原宿、佐賀城下、旧古賀銀行、高橋(扇町橋)、俊寛の墓 | 2023/10/10 | 23.6㎞ |
GPSログをGoogleEarthでツアーする方法
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吉野ケ里遺跡
説明するまでもないのですが、吉野ケ里遺跡は佐賀県筑紫平野の北側、脊振山地と筑紫平野の際に在る遺跡です。
写真 手前から脊振山地・吉野ケ里遺跡・筑紫平野・有明海・雲仙普賢岳。
(道の駅 吉野ケ里から撮影)
豊穣の大地という言葉が浮かんできました。
地図をご覧頂けるとお分かりになる様に吉野ケ里遺跡の南側に長崎街道が通っています。
吉野ケ里遺跡は北側の脊振山地から南に舌状に延びた段丘上に在ります。また周辺には脊振山地の麓に沿って複数の遺跡が点在しています。
弥生時代の道がどの様なルートだったのかは分かりませんが旧長崎街道は元々は弥生人達が行き来して踏み固めた道だったのかもしれないなどと想像をたくましくしながら歩きました。
以前、青森県の縄文遺跡の三内丸山遺跡を見学した事があります。
三内丸山遺跡は縄文時代前期~中期、現在から約5,900~4,200年前の遺跡です。吉野ケ里遺跡は弥生時代、現在から4300~1700年前の遺跡です。
三内丸山遺跡は丘の上に広がる平地に竪穴式住居と高床式の倉庫、集会場として使用していたのではないかと云われている平屋の大きな建物、そして用途が良く分からないと説明を受けましたが三階建ての望楼の様な建物がありました。伸びやかな感じがする風景でした。
一方、
吉野ケ里遺跡は竪穴式住居に加えて、
建物が著しく高く大きくなり、
周囲に環濠が巡らされて、逆茂木 (先端を尖らせた木の枝を外に向けて並べて地面に固定し、敵を近寄らせないようにした障害物)、防護柵、高い望楼, まるで天守閣のような祭殿がありました。
稲作になり、収穫物、水、土地をめぐる争いが起きる様になった事はいろいろな場面で知りましたが、吉野ケ里遺跡を見て、その当時のムラ・クニの閉鎖性、排他性を感じずにはいれませんでした。
ですが、この地で田を耕し、収穫し、周囲のムラと交易し、子供を産み育て、そして老いれば亡くなり、収穫の祭りを行い、時には雨乞いを行い、時には争いもあり、現代まで営々と続く弥生人の生活を感じました。
唐突ですが。
かなり前に見た核戦争を描いたアメリカの映画のラストシーンで、放射線障害を発症して帰宅する男性が破壊された市街を歩いて自宅に帰ると、乳飲み子を抱いた女性 (聖母マリアと生れたばかりのキリストの様に見える) が佇んでいる。
男性は
『どいてくれ、そこは、私の場所だ。』
『・・・・・』
『いや、止めよう、これが全ての始まりなのだから・・・。』
というシーンを思い出しました。
人は多面的でいろいろな側面を持ち、その側面のひとつに博愛の心もありますが、もう一つの側面である残忍性・攻撃性が時代を経るごとにより大きくなっている。人の精神は進化しているのだろうか?という疑問を感じざるを得ませんでした。
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田手宿(間の宿)
吉野ケ里公園駅からスタートです。田手宿は吉野ケ里遺跡が在る段丘の麓にある宿場です。
おそらく弥生時代も、この付近で稲作が行われていたのではないかと想像します。それにしても、筑紫平野は広い。
写真左:田手宿の家並み
写真右:北村醤油醸造
写真左:田手大神宮
写真右:田手川に架かる橋から見えた吉野ケ里遺跡
田手宿から神崎宿へ
ひのはしら一里塚
説明板によると長崎街道で唯一現存する一里塚との事です。
これまで見た一里塚のなかでも大きな方で基部が東西11m 南北14m 四方は1~3mの石垣が積まれています。その上に高さ4mの塚が築かれています。頂上には地蔵尊の石仏が祀られています。
ひのはしら一里塚付近から見た吉野ケ里遺跡
1㎞以上離れた所から撮影しています。遠望すると段丘の上に遺跡がある事が分かります。現代の家と比べるとその大きさにビックリします。
神崎宿
神崎町は周辺を水田の囲まれた昭和感溢れる地方の小さな町という感じです。どこか懐かしいです。
街のなかを流れる馬場川ですが、水路として使われていたのかなという雰囲気があります。
写真左:櫛田神社
写真右:旧古賀銀行神崎支店
神崎宿の中心部
この付近に脇本陣が在り、今は勤労者体育館になっている場所に本陣(御茶屋)が在りました。
神崎宿西木戸口
神崎宿の長崎側の出入り口です。城原川の堤防付近が出入口でした。
ここから城原川の堤防の上を南に向かって歩いて行きます。
神崎宿から境原宿へ
この付近は海抜3~4mくらいです。おそらく弥生時代はまだ海なのか陸なのか判然としないような低湿地だったのではないかと思います。現在は水路が張り巡らされ田園地帯になっていますが、所々にかつての風景を彷彿とさせる風景が残っていました。境原宿
地名で云うと原ノ町が境原宿でした。
宿場だった頃の面影は無くて写した写真もこれ一枚でした。
宿場の中心地から1㎞ほど歩くとかつての神崎郡と佐嘉郡の境界でした。
郡境石
従是 東神崎郡 西佐嘉郡 と彫られています。
江戸時代神崎郡と佐嘉郡の境界の石。現在は神崎市と佐賀市巨勢町の境界です。
それにしても郡境石が建っている家が随分立派なので見入ってしまいました。
佐賀城下
佐賀城下は都市のなかの旧街道ですが、所々に旧家や遺構が残り風情のよい家並みの中を歩きました。牛嶋構口
佐賀城下の東の入口は 溝川に架かる木橋が入口で "牛嶋構口 " と呼ばれて、番所がありました。現在は公園になっています。
牛嶋構口に在った説明板に掲載されていた城下の地図です。何重にも枡形(敵の進路を妨害する為に道筋を意図的に直角に曲げた場所)を作り城の北側に長崎街道が通っています。
注:クリックすると大きな地図が開きます。
思案橋
地図をご覧になると分かりますが城下は至る所に水路が張り巡らされています。城下の川は有明海の干満により流れが変わりその流れが変わる事を利用して、舟運が盛んにおこなわれていました。
思案橋は長崎街道と紺屋川が交わる場所にあり、かつては舟運の河岸がありました。かつては最も賑やかな商業地だったそうです。
佐賀市柳町付近の古民家
佐賀蘭学の始祖 島本良順邸
説明板によると、代々漢方医の家に生まれ、跡を継いで漢方医業を営んでいたが、寛政年間に西洋医学の真価を悟り一念発起して長崎で蘭学、西洋医学を学び、佐賀に帰った後に開業すると共に蘭学塾を開いたそうです。保守的な佐賀では新しい医学・学問の浸透は進まなかったそうですが、真摯な診療と講義で次第に認められ佐賀に蘭学・西洋医学が浸透していったとの事です。
佐賀市重要文化財 旧古賀銀行 (佐賀市歴史民俗館)
長崎街道道標と道しるべ恵比寿
呉服元町8-6の "和菓子ひぜんえびす屋さん" の前に在ります。
ここは長崎街道が枡形になっている所で、東側から歩いてくると、ここで直角に北に曲がります。
人差し指で方向を示し こくらみち ながさき道 と彫られています。
道標の隣には長崎街道でよく見かける恵比寿様が鎮座しています。
森永太一郎・江崎利一 像
二人の名前を読んだらチョコレートやキャラメルを思い出しました。
現在の森永製菓と江崎グリコの創業者です。日本を代表するお菓子メーカの創業者が佐賀出身とは思いもしませんでした。
札の辻・佐賀八幡宮
八幡宮付近に高札場がありました。高札場があった場所を札ノ辻といいました。近代になり八幡宮が少し北側に遷座したため元々の長崎街道の道筋は八幡宮の境内になりました。
本願院の石仏群
高橋(扇町橋) 佐賀城下西の出入口
高橋って、苗字みたいな橋の名前です。この橋は佐賀城下の西側の出入り口でした。
本庄江に架かるこの橋は行き来する船の帆柱が橋にぶつからないようにする為に橋桁を高くしたことから 高橋 と呼ばれる様になったとの事です。本庄江と佐賀城下に張り巡らされた水路を使い多くの物資が運ばれたのだと思います。
ムツゴロウ?
高橋は有明海の河口から本庄江を約5.5㎞遡った、海抜約4mほどの所に架かっています。
その高橋を渡っている時、何気なく川面を見たら、何か動くものが目に留まりました。慌てて写真を写しました。TVで見るムツゴロウと同じ様に見えます。有明海の干満差は6m位あるそうなのでここにムツゴロウが居ても不思議ではないのかと思います。それにしてもムツゴロウを見たのは生れて初めてです。ちょっと興奮しています。
佐賀城下から久保田駅へ
別れの松
この先に刑場があり、刑場に曳かれる罪人はこの場所で肉親や知人と別れを告げなければならなかった。
罪人はこの松の所で駕籠を止めて見送りの者と水杯を酌み交わす事を許されていたそうです。
俊寛の墓
歩いているとき 『俊寛』 という文字を見て、どこかで聞いた事があると思いました。治承元年(1177)平家討伐の謀議を図り、鬼界ヶ島に流された僧の名前ですが、その史実が記憶に残っていたのではなく、菊池寛や芥川龍之介の小説の題名でその名が記憶に残っていました。
久保田村追分石
長崎街道のルートを調べていたときこの付近に追分石が在ると書いてありました。実際に訪れたらそれらしい石柱が見つからず、周囲を探してようやく見つけたのが写真の追分石です。商業施設の駐車場の入口にありました。
久保田村道と彫ってあり裏側には佐賀縣と彫ってありました。明治になってから設置された道標なのでしょう。
嘉瀬川から見た筑紫平野
嘉瀬川を越えて、今日は長崎本線 久保田駅まで歩きました。
エピローグ
長年、訪れてみたいと思っていた吉野ケ里遺跡を歩きました。遺跡や発掘物を見ると、その時代の人達の 泣き声・笑い声・嘆き・祈り・苦しみ・喜び・歓喜の声 を感じます。そこに確かに人の暮らしがあり、生活があったと感じます。
現代まで営々と続く営みを感じると、自分が今ここに居る事の不思議な感覚と、今の暮らしが愛おしく思えます。
END
2024年08月08日 作成
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