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電子足跡:長崎街道歩き旅
  久保田宿から西九州新幹線武雄駅へ
    大空を感じる道

プロローグ

このページは長崎街道を久保田宿(間の宿)から牛津宿、小田宿、北方宿、高橋宿(間の宿)、西九州新幹線のターミナル駅 武雄温泉駅まで歩いたページです。
どこからどこまでを筑紫平野と云うの分かりませんが、東の福岡県の冷水峠を越えて山家宿付近から空を感じる風景の中を歩き、筑紫平野の西の端である武雄温泉に向かうこの日は、『佐賀インターナショナルバルーンフェスタ2023』 の公式練習飛行の日で 筑紫平野の空におびただしい熱気球が浮かんでいる光景、つまり大空を感じる道を歩きました。
武雄温泉まで歩くとこれまで歩いてきた広大な筑紫平野は終わります。

かつてこの道は 東よりの小田宿-鳴瀬宿-塩田宿‐嬉野宿 と通っていた街道筋が塩田川の度重なる氾濫で宝永2年(1705)に 小田宿-北方宿-塚崎宿(武雄)-嬉野宿 と私が歩いた道筋に切り替えられました。

歩きデータ
都道
府県
区間 通る宿場等 歩いた日 GPS
移動距離
佐賀 長崎本線久保田駅‐佐世保線・西九州新幹線武雄温泉駅 久保田宿(間の宿)、牛津宿、小田宿、北方宿、高橋宿(間の宿)、西九州新幹線武雄温泉駅 2023/10/31 26.0㎞



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久保田宿
 

JR長崎本線久保田駅から日の出とともに歩き始めました。
久保田宿は間の宿でした。地名として久保田町大字久保田として残っています。

久保田宿  祇園社と恵比寿様


久保田宿の西の外れ付近の空におびただしい熱気球が浮かんでいました。
この日は 佐賀インターナショナルバルーンフェスタ2023 の公式練習飛行の日でした。長崎本線久保田駅の隣駅は 『バルーンさが駅』 で嘉瀬川の会場から飛び立った熱気球です。
こんなに多くの熱気球が浮かんでいる光景を見るのは勿論初めてです。熱気球に乗った事はありませんが、風任せのゆっくりとした雰囲気は魅力を感じます。


牛津宿


牛津宿は長崎街道と牛津川の水運で栄えた宿場でした。

写真右:牛津赤れんが館


下の写真は牛津駅前にあった壁画です。往時はこのような賑わいだったのでしょう。


砥川大橋から見えた熱気球
久保田宿で最初に熱気球を見てから3㎞弱歩いて砥川大橋からまた熱気球が見えました。久保田宿で見た熱気球と同じ熱気球かどうかは分かりませんが、熱気球は歩く速度とそれほど変わらない早さで移動しているという事になる訳で、なんともゆったりとした空の旅です。親近感がわきます。

牛津宿から小田宿へ

この付近から長崎街道は筑紫山地の麓、別な言い方をすると筑紫平野と筑紫山地の際を通るようになります。

東照寺 身代わり観音
長崎本線の江北駅付近の東照寺の『身代わり観音』が鎮座していました。

東照寺は1160年の観音寺として創建。
身代わり観音はコンクリート製で1953年に建立されました。

小田宿方向の風景
月並みな表現ですが空が青く広いです。
この風景付近で鉄道路線が長崎本線と佐世保線に分岐しています。


小田宿





関川家住宅
説明板によると、明治中期に建築されたと推定されています。農商銀行株式会社として使用されていた建物で、事務所兼住宅との事です。

銀行が在ったという事はそれだけ経済活動が活発な宿場だったのでしょう。

馬頭観音堂楠樹
佐賀県の名木・古木に指定されている樹齢1200年のクスノキです。
奈良時代の天平9年(737年)に小田を訪れた高僧行基(668年~749年)が、大楠に馬頭観音像を彫ったという伝説が残っているそうです。


小田宿から北方宿へ


土井家住宅

佐世保線大町駅の1.5㎞ほど佐賀市寄りに建っていました。
説明板では、昭和49年に国の重要文化財に指定されています。
建物の特徴から19世紀前半に建てられたと推定されています。明治の初めに土井家所有になる前は造り酒屋だったそうです。


詳細に調べた訳ではありませんが、柱や梁を組み合わせるのに釘は使っておらず「木組み」だけで組み立てられている様に思います。匠の技を感じます。


大町駅付近の石仏・石碑


景行天皇・神功皇后行宮之遺跡
説明板が無かったので詳しい事は分かりません。調べると景行天皇は第12代天皇で実在したとすれば4世紀前期から中期の大王で日本武尊(ヤマトタケル)の父親という事らしいです。
その時代は南九州を勢力範囲にしていた熊襲(くまそ)征伐があり、景行天皇は自ら西下して熊襲征伐にあたったと言われています。
神話の域をでない話なので説明板も設置していないのかも知れませんが、行宮(あんぐう)は天皇の行幸時などのときの一時的な宮殿を意味するので、もしかしたら景行天皇の熊襲征伐のときに一時的な宮殿が在ったのかも知れません。古代のロマンを感じます。


十三塚
十三塚は各地に在り、民間信仰による土木構造物で一般的に13基の塚が造られるそうです。


北方宿


下の写真は説明板に描かれていた元禄年間に描かれた北方宿の絵図です。
街道に沿って家が並んでいますがあまり大きな宿場という感じはしません。
旅人は温泉地で旅籠が多かった隣の塚崎宿(武雄)に宿泊する事が多かったそうです。

北方宿の家並み


北方宿本陣跡
文化9年(1812)には幕府測量方 伊能忠敬一行が宿泊しているそうです。


北方宿から武雄温泉駅へ

高橋宿付近
高橋は間の宿で、佐世保線高橋駅付近の集落です。ここで南西に進んでいた長崎街道が突然北西に方向を変え500mほど進むとまた南西に方向を変えます。その500mほど高橋宿は六角川の舟運で栄えた集落で、武雄領内で唯一の川湊がありました。現在の有明海の海岸線までは直線距離で17㎞あります。
特に景観を保全している訳ではないようですがそこはかとなく往時の賑わいを感じる家並みです。


高橋宿が武雄領内で唯一の川湊だったと書きましたが、別な言い方をすると、これより上流には川船が入る事が出来ないという事です。
これまで筑紫平野を歩いてきましたが、この付近が筑紫平野の西の外れと云う事になるのかと思います。

前方に今日のゴール武雄温泉の御船山が見えてきました。


八並(やつなみ)の石塔
説明板によると、建久4年(1193) 源頼朝が富士山麓で催した『富士の巻狩り』は曾我兄弟の仇討でも知られています。曾我兄弟は無事に仇を遂げますが、兄の十郎は殺され、弟の五郎は捕らえられ、やがて牢獄で病死します。
十郎の許嫁だった東海道大磯宿の虎御前は嘆き悲しみ出家して尼になり兄弟を弔いました。
虎御前は、佐賀に西国一の岩蔵寺が建つと聞いて九州に下り、途中 中国と四国に石塔を建て冥福を祈り、三番目に建てたのがこの八並の石塔だと云われています。虎御前は小城の岩蔵寺で写経と読経をして生涯を閉じたそうです。



西九州新幹線 武雄温泉駅
2022年9月23日に開業した武雄温泉と長崎を結ぶ新幹線の路線です。
歩いて来た今日は2023年10月31日ですので開業1年ほどしか建っていません。駅舎が新しいですし、開業に伴って駅周辺も再開発されたのでしょう。1300年前からある武雄温泉の中に在っては真新しく新しい時代の始まりを感じます。

今日はこの武雄温泉駅まで歩いて行動終了です。あとは武雄温泉で汗を流すだけです。

塚崎宿が在った武雄温泉は次ページに掲載します。

エピローグ
 

この道は歩き始めの朝に無数の熱気球を見ました。佐賀県で熱気球大会が毎年開催される事は知っていましたが、偶然にもその時にそこに居合わせる事になるとは思ってもいませんでした。
広大な筑紫平野という事は、空が広いという事に他ならない訳で、そこに無数に熱気球が浮かぶ風景は空の広さを強く感じました。


END
2024年08月24 日 作成

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