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電子足跡:長崎街道歩き旅
彼杵宿から永昌宿(諫早)へ
大村湾の穏やかな海をみて、鈴田峠を越える道
プロローグ
このページは旧長崎街道を彼杵宿から大村湾岸を歩き、鈴田峠を越えて永昌宿(諫早)まで歩いたページです。この区間は穏やかな大村湾を見て、江戸時代そのままの雰囲気が残る鈴田峠を越して永昌宿(諫早)まで歩きます。
旧長崎街道で海岸沿いを歩くのは彼杵宿から松原宿まで10㎞くらいの大村湾の沿岸だけです。
大村湾が外海と繋がっている場所は、僅か200mほどの針尾瀬戸(伊ノ浦瀬戸)の海峡だけですので非常に穏やかな海です。絶景という事ではないのですが心が落ち着く良い風景です。その10㎞の区間に、鉄道マニアの間では有名な、ホームの前が海になっている大村線千綿駅があります。
現在では長崎空港がある大村市では江戸時代、"郡崩れ" と云われた隠れキリシタン弾圧の史跡を見る事が出来ます。"郡崩れ" は603名が捕縛され、そのうち406名が斬首されました。
大村宿を越すと、鈴田峠を越します。鈴田峠の道筋は旧長崎街道の面影を色濃く残した趣のある良い道筋です。
歩きデータ
都道 府県 |
区間 | 通る宿場等 | 歩いた日 | GPS 移動距離 |
長崎 | 大村線彼杵駅-大村線・長崎本線諫早駅 | 彼杵宿、千綿駅、松原宿、大村宿・玖島城下、首塚跡、獄門跡、武士の墓、藩境石、鈴田峠、永昌宿、諫早 | 2023/11/03 | 31.6㎞ |
GPSログをGoogleEarthでツアーする方法
kmz形式のGPSデータがリンクされています。GoogleEarthがインストールされているとGoogleEarthで表示されます。
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彼杵宿
昨日は夕景の中の彼杵宿でしたが、一転して爽やかな朝です。撮影したのは11月03日 6時30分頃です。この付近は東経129.9度ですので兵庫県明石市の日本標準時と20分くらいの時差があるので夜明けが遅く感じます。
写真左:彼杵宿の家並み
写真右:彼杵宿本陣跡(御茶屋跡) 彼杵神社付近に在りました。
写真左:朝の彼杵港
写真右:彼杵川河口
彼杵宿から松原宿へ
彼杵宿から松原宿に続く道は大村湾に沿って歩く道です。長崎街道の道筋では唯一海岸に沿って歩く区間です。上の写真を写したのは大村線の踏切を渡ってすぐの旧長崎街道と国道34号線が交差する付近で地名は彼杵宿郷です。ここで道を1㎞ほど間違えてしまいました。旧長崎街道は "介護老人施設さざなみ" の建物の山側なのですが海側の国道34号線を歩いてしまいました。青線=旧長崎街道 ピンク=歩いた道
朝陽が登りました
歩き初めて45分ほど経って、今、7時15分です。ようやく朝陽が射し込んできました。
千綿宿 間の宿?
地理院地図には 千綿宿 と書かれている場所です。間の宿だったのかもしれません。
通学の女子学生が車に乗り込んで家を出るところでした。学校はかなり離れ所にあるのでしょう。
千綿川を渡って龍頭泉(りゅうとうせん)道と書かれた道標から少し高台を通って千綿駅まで行きます。龍頭泉は千綿川の上流の千綿渓谷にある滝です。
大村線千綿駅 海まで0.0m
大村湾に面してホームがあります。駅舎も昔の面影を残してレトロな木造建築です。2014年冬季の『青春18きっぷ』のポスター写真になった駅です。ホームのベンチに座って休ませて頂きました。疲れた身体を麗らかな陽射しが包み、凪いだ大村湾から潮の香がするそよ風が汗ばんだ身体を通り抜けました。これだけの事で穏やかで豊かな気持ちになります。贅沢な時間でした。
千綿駅からは少し坂を登り高台の中の道を歩きます。
写真左:平原一里塚跡
写真右:だんだん畑のなかを通る長崎自動車道
道はアップダウンを繰り返して串川を渡ると海沿いの平坦な道に戻ります。
旧道の入口を見落としてしまいました
左の地図の様に一本松トンネルと才貫田トンネルの間は本来の長崎街道は青線の様に少々山側を通っていました。ところが一本松トンネル付近で国道34号線から旧長崎街道に入る入口を見落としてしまい国道34号線を歩きました。
才貫田トンネル付近で旧長崎街道に戻りました。
松原宿方面遠望 右側の小さな島は鹿ノ島
何気なく海底を見たらウニが見えました。水も澄み、豊饒の海という感じがします。
眼を沖に移すと、彼杵宿手前で見た 飯盛岳 が良く見えました、今日は良い天気です。
松原宿
大村市観光振興課が発行しているパンフレットには、松原宿には71軒の家があり、本陣や脇本陣はなく宿場中央付近の八幡神社の門前に茶屋が建てられ、大名が通行するときは休憩場所にあてられたと書かれています。小さな宿場でしたが景観の保存に力を入れている様で古民家など風情のある家並みです。
相撲取り墓
3基の墓に 「大荒鷲岩」 「秀の川」などの四股名が刻まれ江戸時代後期の墓との事です。ただどのような力士だったのかは分からないそうです。
松原宿の家並み
旧松屋旅館
前述の様に松原宿には本陣・脇本陣はなく、八幡神社の門前に茶屋があり大名はそこで休憩していました。旧松屋旅館も休憩所として利用され、明治維新後は昭和40年まで旅館として営業していました。建物は当時の和風の様式を色濃く残しています。
伊藤家屋敷
源頼朝の重臣工藤裕経(すけつね)が、全国33か所に領地を賜ったひとつが松原村の百町歩で、その管理者として下向したのが伊藤家とのことです。
今から800年以上前からこの地に住んでいる事になります。
大村宿・玖島(くしま)城下
現在の大村市街は大きな都市に変貌しています。大村藩は二万七千石の大名でした。大村氏は平安時代に藤原直澄が四国からこの地に移り住み大村氏を名乗ってから、戦国時代、江戸時代、幕末、明治維新まで、この地を治めてきた稀な大名でした。
居城は大村駅の南側の大村湾に面した玖島城で城の東側に武家屋敷がありました。現在でも武家屋敷や石垣が残っているそうです。(参考:大村市観光情報サイト "よって行かんねおおむら" )
ただ、長崎街道は武家屋敷が在ったエリアを迂回して通っていますので城下町の風情を感じる事は少なかったです。
宿場は内田川を挟んだ武家屋敷の北側の本町付近が中心地だったようです。
特筆すべき事は、これまで長崎街道を歩いてきてもキリシタンに関する史跡には気が付かなかったのですが、大村宿ではキリシタン弾圧の史跡を見ることが出来ました。
キリシタン首塚跡
大村市街の中心からは北に3㎞ほど離れた原口町に在ります。
領主大村純忠がキリシタン大名だったこともあり、大村藩では領民のほとんどはキリシタンだったそうです。
島原の乱から20年後、領民の多くが改宗しキリスト教徒はいなくなったと思われていましたが、大村藩に潜伏キリシタンが居る事が発覚し、捜索の結果、603人もの潜伏キリシタンが捕縛され、そのうち406人が斬首となりました。あまりに処刑者が多かったため各地に分けて処刑され大村では131名が放虎原で処刑されました。当時はキリシタンの妖術で首と胴がつながって復活すると信じられていたため首と胴は別々に葬られたそうです。
キリシタン獄門跡
斬首された131名の首は塩漬けにされ、この場所で20日間晒し首にされて上記の首塚に埋葬されたそうです。
不謹慎かとは思いますが、私は信心深くないですし、特定の宗教に深く帰依した事がないので、殉教するという事が理解できないです。法事などで住職の法話を聞けばそれなりに心に沁みるものはありますが、生活に困窮してまでも多額の寄進をしたり、命を奪われても特定の宗教に帰依し続けるという心情がどうしても理解できないです。
辻道標
大上戸川の手前の杭出津という付近で長崎街道は大きく直角に曲がります。
そこには辻道標があり『是より左彼杵宿』 と彫られています。
大村宿の手前でもあるので大村宿の入口の枡形なのではないかと思います。
大村宿
現在大村宿の中心地はアーケードの商店街になっています。
大村宿本陣跡
大村宿から永昌宿(諫早)へ 鈴田峠越え
大村宿の中心を過ぎると前述の様に武家屋敷街を迂回して少し山側の坂を登って行きます。大村護国神社参道付近
内田川を渡ると緩い上り坂になります。登り口付近に大村護国神社参道が見えました。護国神社の他に国指定名勝の 旧円融寺庭園 や 大村藩勤王三十七士の碑が あります。村藩勤王三十七士は大村藩を勤王討幕運動の原動力になった藩士とのことです。
大村市街遠望
長崎医療センター・活水女子大付近
鈴田峠越え
峠を越す前に、旧長崎街道の鈴田峠越えはなんでこんなルートを選んだのだろう?と疑問に思います。現在国道34号線や大村線が通っているルートの方がはるかに高低差が少なく通行し易かったと思うのですが?
谷筋は出水しやすいので谷を避けた? 防備上の観点であえて通行し難い所に道をつけた?
大神宮神社
大村線の踏切を渡り大神宮神社を過ぎると鈴田峠越えの登りが始まります。
最初は集落のなかの登り坂です。
林道と旧長崎街道の区別がつきにくいです。
地図をご覧頂くと分かるのですが、旧長崎街道は舗装されている新しい道や複数の林道の中を通っています。特に林道は旧長崎街道と見分けがつかないと云うか旧長崎街道は林道として現役で使われているようです。
ただ所々に『旧長崎街道』と書かれた道標が建っていました。
下の写真の脇道が旧長崎街道で、ここを越えると本格的な山道になります。
武士の墓(渡辺伝弥久の墓)と馬の墓
島津氏が豊臣秀吉により降伏したのち、天草の志岐麟泉が謀反をおこしました。被葬者の渡辺伝弥久は大村嘉前(初代大村藩主)の使者として志岐氏を諫めに行きましたが使命を果たせず帰路につきましたが、大雪に遭いこの場所で家来、馬とともに亡くなり埋葬されたそうです。
石畳の痕跡か?
藩境駕籠立場跡
長崎街道からはみ出す様に石垣が積まれた平らな場所がありました。通行する大名がここで駕籠を降り休憩した場所です。
藩境石 鈴田峠
藩境石は 『鬼の足型石』『弁慶の足型石』 『硯石』などと別名があります。
大村藩の領地は大村湾を挟んで東側と西側に分かれていました。現在の諫早市付近は佐賀藩に属していました。この藩境石は大村藩と佐賀藩の藩境という事になります。
写真左:大村側から撮影
写真右:諫早側から撮影
ここに来る途中 武士の墓付近 で軽トラックに乗ったお爺さんとすれ違って道を教えて頂いたのですが、そのお爺さんが言うには、『この道をズット行くと藩境石が在ってそこから諫早になる、子供の頃は親から諫早に行くといじめられるので行くなと云われていた。』と話していました。
お爺さんの年齢を聞かなかったのですが、80歳前後とすると戦中戦後の頃の話だと思いますが、大村と諫早はあまり仲が良くなく、住民も反目しあっていたのかなと思います。
想像ですが、廃藩置県は明治4年(1871)で、終戦は昭和20年(1945)なので、県が置かれてまだ74年しか経っておらず、江戸時代はこの石を境に藩が変わり、領民の生活も帰属意識も藩が中心になっていたので大村と諫早はあまり交流がなかったのかと思います。
大渡野(おわたの)番所跡
領民の出国や他領からの入国を管理していました。現代で云えば空港のイミグレーションのような施設だったのでしょう。崩れた石垣しか見えませんでしたが、かつては建物や柵などが在ったようです。
大村街道
鈴田峠を下って来て比較的緩やかな道になり旧長崎街道が国道34号線に近づく付近は 破籠井町(わりごいまち)と云います。ここから藩境石までの約1.5㎞は大村街道と称して史跡に指定されています。
下の写真をご覧頂くと分かりますが、良く整備され雰囲気が非常に良い道です。
旧長崎街道が国道34号線と交差するところで陽が沈みました。
ここからは住宅地の中を進みます。
永昌宿
永昌宿は現在の諫早駅のそば、諫早湾にそそぐ本明川の西側段丘の小高い所にありました。宿場の雰囲気はほとんどありませんでした。
諫早市永昌町の住宅街のなかにポツンと永昌宿だった事を示す石柱がありました。
諫早駅まで行って今日の行動は終わりです。
エピローグ
大村湾と鈴田峠をあるきました。一日で海と山の道を両方歩く事ができる良い道でした。それも、派手さはないですが、静かに心の中にしみる良い風景のなかの道でした。END
2024年09月30日 作成
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