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電子足跡:長崎街道歩き旅
 永昌宿(諫早)から日見峠を越えて長崎出島へ
  そして西欧に通じていた道


プロローグ

このページは長崎街道を永昌宿(諫早)から西の箱根と言われる日見峠を越えて長崎市出島まで歩いたときのページです。

いよいよ長崎街道最後の歩きです。この道は諫早から長崎出島に至るまで西彼杵半島と島原半島の間に連なる山塊のなかの道です。山塊を避けて長崎本線は敷設されたようで、旧長崎街道の面影が色濃く残っています。
そして長崎に入る手前に最後の難所 日見峠 が立ちはだかっています。江戸幕府による鎖国政策のみならず、地形的にも西欧は遠いと感じる道です。
江戸時代、多くの人達が西欧の知識を求めてこの険しい道を越えて行ったのかと思い、往時の人達の情熱を感じずにはいられませんでした。

そして長崎街道を調べているいるとき、被爆してもなお生き続けていたクスの木がある事を知りました。『城山国民学校の被爆クスの木』 です。
歩き終わった次の日、被爆クスの木や平和公園など原爆遺構を訪れました。

歩きデータ
都道
府県
区間 通る宿場等 歩いた日 GPS
移動距離
長崎 長崎本線
諫早駅-長崎駅
永昌宿、赤松坂、旧茶屋、井樋尾御境石、矢上宿、日見腹切坂、日見宿、明治新道、日見峠、長崎宿、出島 2023/11/04 27.6㎞



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永昌宿(諫早)
 

永昌宿は現在の諫早駅付近に在った宿場です。現在は宿場だった頃の雰囲気はほとんどありません。諫早駅から南東に1㎞くらい離れた所に高城(諫早城)が在りましたので城下町としての性格もあったのだと思います。

下の地図は案内板に掲載されていた地図です。諫早駅の南側に宿場が広がっていた様です。


写真左:永昌代官所が在った付近
写真右:法面の階段を上り旧長崎街道へ



旧長崎街道 永昌宿跡石柱
上の地図から推測すると、この石柱が在る付近が永昌追分、人馬継立所跡ではないかと思います。


永昌宿から矢上宿へ


島原街道追分
島原半島に続く国道57号線の下を通ります。
かつても、ここから少し行った所に島原半島に行く追分がありました。
家並みや舗装は新しくなっても、道のルートはそれほど変わらない事が面白いです。地形が変わらないのですから当たり前ですけど。

写真左:島原街道の道標


お馬の水
現在でも水が湧き出ているそうです。かつては、ここで人も馬も水を飲み、少し休んでから先を急いだのでしょう。


赤松坂
僅か100mチョットの坂道ですが、時の流れに取り残されたように昔の面影が残る坂道です。
長崎自動車道諫早ICを過ぎると諫早市若葉町の新興住宅地の中に長崎街道が続いています。住宅地が終わる付近にややもすると見落としてしまいそうな道標があります。木が覆いかぶさり洞穴のようになった所が長崎街道の赤松坂と云われているところです。






コテ絵が残る小屋
赤松坂を降りて直ぐのところに馬と海老が描かれた小屋がありました。
見ていたら、家主さんが話かけてきて、昔の蔵に描かれていたコテ絵を切り取って新しい小屋に建て替えるときに飾ったとおしゃっていました。
これまでマジマジとコテ絵を見た事はなかったのですが、良く見ると随分と立体的に精緻に描かれているものなのだと感心しました。




久山茶屋長崎街道絵巻通
長崎街道が長崎自動車道と交わる所のトンネルの壁面に長崎街道の関する絵が描かれていました。


峠越え


旧茶屋
地理院地図には地名として『旧茶屋』と書かれています。ここから標高150mほどの峠越えです。

写真右:坂の途中にある旧茶屋の井戸


説明板には『久山旧茶屋一里塚と松並木』と書かれていました。ですが松並木は分かりませんでした。


郡境と峠の茶屋跡
『郡境 彼杵郡喜々津 高来郡久山』と彫られています。
久山は現在も久山町として残っています。喜々津は長崎本線の喜々津駅の駅名がありますので諫早市多良見町付近の事だと思います。

峠の茶屋跡の所に民家が数軒ありました。もしかしたら長崎街道が主要な街道だった頃に茶屋を営んでいた方の子孫の方達が暮らしているのかも知れません。

峠の清水
現在でもこんこんと湧き出ています。
水を汲んでいる方から飲んでみる様に勧められたのでひと口飲んでみました。冷たくて清冽な水でした。
古の旅人も峠を登ってきて、この水で一息ついたことでしょう。

峠付近から見える大村湾方面の風景。見えている町は多良見町。


長崎街道御籠立場跡
殿様が乗る駕籠を置いて休む場所です。いろいろなケースがあったと思いますが、仮設のトイレや茶屋を設ける場合もあったそうです。

御籠立場跡付近から下り坂になります


坂を下って行くと、井樋ノ尾の集落が見てきます。
おそらく、先祖から受け継いだ畑を耕して暮らし続けているのではないかと思える風景です。


井樋ノ尾観世音
由緒は、寛永14年(1637)の「島原・天草一揆」のとき島原城三の丸に安置されていた聖観音像を持ち出し、喜々津の西法寺に安置するつもりで西方寺に向かっているときに、この地に清らかな清水が湧き出ているのを見て、ここに観音を祀るのが相応しいと思い西法寺の末寺として建立したのが始まりとの事です。西方寺はここから直線距離で2㎞ほど北の大村湾のそばに在るお寺です。

井樋尾 御境石
『従是東佐嘉領』と彫られています。 大村領と佐賀領の国境です。
現在は長崎県諫早市と長崎市の境界です。
いよいよ長崎市に入りました。


古賀の藤棚
古賀人形を制作する小川家の前の藤棚です。ここはかつて茶屋があり、当時もこの藤棚の木陰で大名や旅人が休憩していました。

福瑞寺
説明板に書いてあった事ですが、ルイス・フロイトの『日本史』の記述によると文禄2年(1593)頃は古賀の全住民がキリシタンだったと記されています。
慶長17年(1612)のキリスト教 禁教令によりキリシタンへの徹底した弾圧が行われ信者はいなくなったそうです。
福瑞寺はキリシタン撲滅に努めた僧侶 正哲の功績を賞して、寛永3年(1626)に建立されたそうです。境内には花十字紋入りのキリシタン墓碑が残されているそうです。当時の為政者や仏教徒から見たら功績者ですが、キリスト教徒から見たら弾圧者以外の何者でもない訳で、人の毀誉褒貶はその時代の背景に大きく依存するという事なのだと思います。

矢上宿
 

矢上宿は八郎川が橘湾に注ぐ河口付近に発達した宿場です。

矢上神社
参拝はしませんでしたが、立派な社殿が見えました。長崎で一番古いとされる神社だそうです。一の鳥居には "箭神神社"、二の鳥居には "矢上神社" と書かれていました。"箭" は "矢" の事でどちらも "やがみ" と読めます。
由緒では弘安4年(1281)の元寇のときに西海の守りとして矢上の神奈備山に劔の箭と化して天降りた宝劔を鎮祠したのが創建との事です。
神社の前に矢上宿跡と彫られた石柱がありました。


恵比寿様
長崎街道では、大きさや風化の状態はまちまちですが、いたる所に恵比寿様が鎮座しています。東日本の旧街道では道祖神をよく見かけましたが長崎街道では街道に恵比寿様を祀るのが主流だったのでしょう。

矢上八幡神社の大クス
矢上小学校の校庭のそばにあります。
鳥居の両脇に大きな楠木が在って、地上から1.3mの高さの幹回りが12.6mあるそうです。
神社は寛文7年(1667)の創建ですが、楠木は創建以前のものと言われています。

矢上宿本陣跡
本陣は旧長崎街道から1本東に通っている現在の国道34号線沿いの長崎自動車学校の所にありました。

矢上番所跡
中尾川が八郎川に合流する付近に在りました。中尾川に架かる橋は番所橋と言われ、1㎞ほど下流は八郎川の河口です。
ここで役人が通行人を監視していました。

矢上宿から日見宿へ

日見宿は長崎市宿町の日見川の河岸に在った宿場です。
矢上宿と日見宿は2㎞強しか離れていません。想像ですが、これから越す日見峠がかなりな難所なので日見峠の麓の日見宿と矢上宿に旅人が集中して宿泊したのではないかと思います。

日見峠を越す前に標高50mくらいの小さな峠を越えます。まるで日見峠越えの予行練習のような感じの坂です。


領境石標
石標には 『彼杵郡之内日見境』  『従是北佐嘉領』 と刻まれています。


領境石標を過ぎて直ぐに急な階段を降ります。
昔の人達がわざわざこんな急こう配の坂を道にするとも思えないので、この階段が昔から長崎街道なのかは定かではありません。

日見腹切坂
熊本細川家の家臣が長崎から熊本に帰る際、昔は武士だった町人の棒術使いの高名を聞き試合をしましたが、武士が破れ町人が勝ちました。武士は無念で日見宿を見下ろすこの場所で切腹して果てたそうです。哀れに思った村人が武士を丁重に葬ったそうです。
本来は旧長崎街道に在ったのをバイパス工事の為にここに移設したとの事です。GoogleMapにはここから北に75mほどの所に 『腹切坂名前由来の石塔(元場所)』と載っているので、本来の旧長崎街道はバイパスの北側の法面付近を通っていたのではないかと思います。

日見宿
 

いよいよ長崎街道最後の宿場です。日見宿は長崎まであと2里の場所にありました。人夫165人、馬20頭が備えられ継立をおこなっていました。
下の右側の写真をご覧頂くと分かりますが、西の日見峠から流れてくる川が作った谷底(こくてい)平野を横切るように長崎街道が通っています。
旧宿場内は宿場だった頃の面影は希薄でした。


日見峠越え

日見峠は、東の箱根峠、西の日見峠 と言われた長崎街道の難所です。
体感的には福岡県の冷水峠や旧東海道の箱根越えよりきつかった感じがしました。

下の地図は明治34年(1901)測図の日見宿及び日見峠の地図です。
赤い実線は私が歩いた長崎街道の道筋です。

「今昔マップ on the web 谷謙二」より 作成
オリジナルはこちらをクリックしてください。「今昔マップ on the web」 が起動します。

地図をご覧頂くと分かりますが、日見峠付近に明治34年時点には造られていた道はつづら折りの道になっており、かなりな急こう配の斜面だった事が分かります。
こちらの写真は日見宿の説明板に掲載されていた写真です。
『日見街道の七曲り』とタイトルがついています。
撮影場所・日時は分かりませんが、日見峠の東側斜面のつづら折りの道路と思われます。

日見宿を越えて日見峠の麓から峠方面を見た写真です。急激に山が迫っています。

かつてはつづら折りの道路が続いていた斜面は、現在では家が立ち並んでいます。


振り返ると歩いてきた芒塚(すすきづか)町が眼下に広がり、前を見ると長崎自動車道 芒塚ICが眼前に迫っています。ここで疲労困憊で一気に歩く気力が失せました。ですが歩かなくては先に進めません。


新旧道路のタイムカプセル
日見峠には 『長崎街道』、『日見明治新道』、『県道116号芒塚インター線』、『国道34号線 新日見トンネル』、『長崎自動車道 長崎トンネル』と5世代の道が通っています。それだけ長崎と繋ぐ道が重要だったという事だと思います。

奥に見えるトンネルは登録有形文化財の県道116号線の日見トンネルです。大正15年に竣工しています。
日見トンネルの前に急こう配の旧長崎街道が通っています。


芒塚句碑
  君が手もまじるなるべし花薄  去来
向井去来(1651~1704)の句碑で天明4年(1784)に長崎の俳人達が建立したそうです。去来は30代半ばで松尾芭蕉の門人となり、一時帰郷して長崎の俳人に芭蕉俳諧を伝えたそうです。







日見峠  日見新道(明治新道)
明治15年(1889)開通。この道が上に掲載した明治34年測図の地図に描かれているつづら折りの道なのだと思います。
説明板の記述では、特に最大の工事が峠を33m掘り下げて作った写真の切通しです。この道が出来た事で人力車や馬車が通行できるようになったとの事です。
工事費は当時の金額で4万7000円だったそうです。(当時の1円を現在の20,000円の価値で計算すると9憶4000万円になります。)
その費用を償還するために、一人5厘、人力車2銭、馬車5銭の通行料を徴収しました。有料道路の始りと言われているそうです。


旧長崎街道は、切通しが出来る前は山の尾根を越えて続いていたわけですが切通しが出来た事で分断して消滅しました。
(説明板に掲載されていた地図。赤線が旧長崎街道。)

日見峠を越えました
切通しを越えると遠くに長崎市街が見えます。写真左上の電波塔が見える山が長崎の観光スポットとして有名な稲佐山です。
歴史上の人物もここから長崎方面を見て、いよいよ長崎に来たと思ったのではないかと想像します。


あとは中世の山城の石垣のような道が続く里山を下って長崎市街に向かいます。


文明堂創立者 中川安五郎像
 ♪カステラ一番
   電話は二番
   三時のおやつは文明堂

というTVコマーシャルを記憶の方も多いと思います。その創立者の中川安五郎像が長崎街道から少し県道116号線に入った所にありました。
長崎街道はその安五郎像の後ろ側を通っています。

長崎市街へ

長崎市の水源になっている本河内水源地の脇を通って長崎市街に向かいます。山の斜面に家が立ち並ぶ風景を見ると長崎に来たという感じがします。

本河内低部水源地を少し越えた所の国道34号線の脇に沢山の石仏が鎮座していました。想像ですが、道路を整備するときに旧長崎街道の路傍にあった石仏をここに集めたのではないかと思います。

蛍茶屋跡
石橋の一ノ瀬橋のたもとに蛍茶屋と言う茶屋がありました。
現在では路面電車の『蛍茶屋駅』として名前を留めています。


長崎宿
 


古橋(中川橋)=長崎宿の玄関
鳴滝川に架かる橋で、歩いて来た一ノ瀬(蛍茶屋)から長崎宿に通じる唯一の橋だったそうです。いわば長崎宿の玄関という事です。


シーボルト通り
桜馬場、新大工町を通る長崎街道は現在シーボルト通りと呼ばれています。
今、渡った古橋(中川橋)の300mほど上流の鳴滝にシーボルト邸(鳴滝塾)があり、シーボルトは出島と塾の間のこの道を足繁く通った事に由来しています。鳴滝塾で西洋医学による治療・講義や自然科学を教授しました。


稲佐山の頂きに夕闇が迫ってきました。
中島川の支流を渡って、国道34号線を馬町・桜町・万才町 を通り、いよいよ長崎街道のゴール地点と定めた出島に向かいます。




長崎海軍伝習所・奉行所西役所・イエズス会本部 跡
ほぼ更地になっていたので、少々ガッカリしました。旧長崎県庁舎が在った所を更地にしたようです。

ペリーの来航の嘉永6年(1853)から2年後、安政2年(1855)幕府海軍の伝習を目的に長崎奉行所西役所内に長崎海軍伝習所が設置されました。
ペリーの開国要求に対処するため、安政元年(1854)上申書が公募され、そのなかの勝海舟の『海防意見書』が認められこの地に設置されました。
海軍伝習所に入門の為に勝海舟も訪れて、教官を兼ねた伝習生として約5年間長崎で過ごしました。
海軍伝習所は単に軍艦の操舵を習得するのみでなく、語学・物理・化学・造船・医学など様々な教育が行われました。
練習船は歴史の教科書にも出てくる 咸臨丸、観光丸、朝陽丸が使われました。勝海舟・榎本武揚・五代友厚や東芝の基礎を作った『からくり儀右衛門』こと田中久重などがこの地で学んでいます。

ゴール 出島!  でも、この先は西欧への道が続いています
寛永16年(1639)~嘉永7年(1854)までの215年間、キリスト教国の人の来航、日本人の東南アジアへ方面の出入国を禁じ、朝鮮王朝、琉球王国、中国(明朝・清朝)との貿易以外、西欧とはこの一本の橋だけでオランダ(一時期イギリス)のみと繋がっていました。



多くの歴史上の人物、歴史に名前は留めていないかも知れませんが多くの先進的な考えを持った人達が、この一本の橋から入って来る西欧の知識を求めてこの地を目指しました。そして幕末・明治維新と歴史を動かし、現代に繋がる日本になりました。
たった一本の橋がこれほど歴史に影響を与えた橋を他には知りません。
この橋の向こうには西欧に続いている見えない道が続いています。

西欧人は自由に出島から出る事ができず、日本人の出入りも厳しく制限されていました。私は一般人で、なんの許可も得ていないので、この橋を渡ることはできず、ここが私のゴールです。
単に夕方遅い時刻に着いて、レストランやショップは18時に閉まるので、これから出島を見学しても時間が足りないと思っただけです。と言う落ちです。

エピローグ

 

2023年秋 長崎街道を小倉から長崎出島まで歩きました。
なんと言っても、この道は江戸期、西欧の知識を求めた人々が行きかった道です。
明治以降、近代化のベースとなった石炭・鉄鋼の中心地 福岡県を通り、佐賀県では広大な筑紫平野を前にした弥生期の吉野ケ里遺跡を通り、長崎県では大村湾の長閑な海を眺めつつキリシタン弾圧の遺跡を見て、江戸期215年に渡って続いた鎖国政策で唯一西欧と繋がっていた出島を目指す旅でした。
日本の歴史の変遷を強く感じるとともに、つまるところ、その時代その時代で人々の暮らしがあり、教科書に載らなくても、TVドラマにならなくても、その人々が歴史を作ってきたと感じる道でした。


長崎原爆遺構
 

歩く前に長崎街道を調べているとき、被爆してもなお生き続けている木があると知りました。その木をこの目で見てみたいと思いました。
その木は爆心地から西に約500m離れた現在の長崎市立城山小学校(旧城山国民学校)にあります。

城山国民学校の被爆クスの木

昭和20年(1945)8月9日 11時2分。一発の原子爆弾が炸裂し、このクスの木も原爆の熱線と熱風でその生命を絶たれたと思われましたが、原木の両側から2本の木が芽吹き今では写真のように緑をたたえる木に成長しました。
城山小学校に登る 平和坂 と呼ばれる坂の入口にあります。




『被爆したカラスザンショウの木』モニュメント
 支えられて生きた木
被爆クスの木のそばにあります。
写真だと分かり難いですが、被爆してもなお生き続けたカラスザンショウの木は戦後に成長した椋の木に支えられて生き続けました。原木は2016年の大寒波で枯れて、そのままの状態では屋外での展示に耐えられないため、城山小学校平和記念館内に移設して、現地にはモニュメントで再現しているそうです。
まるで武田鉄矢さん演じるところの金八先生が言う『人という漢字は、人と人が支え合う形』の様です。

踏みにじられても、熱線・熱風で焼かれても、それでも生きる。次世代に命を繋いでいく。生命とはなんと強いものなのかと思いました。

城山小学校平和記念館

城山小学校の敷地内にあります。被爆した国民学校の階段棟が残され補強・改修されて記念館になっています。
説明員の方の話では、当時 城山国民学校は3000名の生徒が在籍していましたが、終戦まじか軍の命令で1500名まで生徒が減らされていたそうです。
昭和20年8月9日 原爆投下の日は生徒は自宅待機だったそうです。
そして原子爆弾が炸裂し、生き残った生徒は40名だけだったそうです。まだまだ未来があった生徒が一瞬にしてその未来を奪われた事に心が痛みました。
説明員の方との別れ際 『私は、そのとき小学校2年生でした。生き残った40人の一人です。』とおしゃったのを聞いて、息をのむと同時にそれ以上言葉を発する事ができませんでした。


以下は平和記念館に展示してあった写真を掲載します。

被爆後の城山国民学校
校舎の窓は砕け、残った鉄筋コンクリートの校舎は今にも崩れ落ちそうな状態。木々は焼けただれ原型を留めていません。

南校舎南端
昭和20年10月中旬頃撮影





城山小学校から市街を望む
被爆後の光景はとても現在と同じ場所とは思えない風景です。


平和公園




原子爆弾落下中心地

昭和20年(1945)8月9日 午前11時2分。この地点の高度約500m上空で原子爆弾が炸裂しました。

    E=mc^2    (エネルギー=質量×光速度の2乗)
この数式は相対性理論から帰結する数式です。光速度は秒速300,000,000mです。その2乗ですので膨大なエネルギーである事は容易に想像できます。
人類がその英知でその存在を知りえた人類史上最大のエネルギーが、人類史上最大の殺戮兵器となって炸裂しました。


 死者    :73,884名
 重軽傷者:74,909名

一瞬の核分裂反応が、それまでの人生と、これからの未来を奪い去ってしまいました。
英知と凡知、慈悲と残虐、博愛と偏愛。人とはいったい何者なのか? 答えが見つからない問いかけが続きます。


END

2024年10月30日 作成

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Column


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