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電子足跡:中山道歩き旅
 深谷宿から高崎宿へ


プロローグ

この区間は利根川や烏川などが作った河岸段丘及び自然堤防と氾濫平野の"ヘリ"を歩いていくコースです。本文中に ”岡地区 豊見坂”の記載がありますが,豊見坂はまさに河岸段丘から段丘涯を下り氾濫平野に降りて行く坂です。街道沿いに家屋が少なくなり見晴らしが良くなってくると地形を感じながら歩くことができます。
普段は古くても数100年単位の家屋や石仏などを見ながら歩きますが,地形を見ながら歩くと一気に数万年単位の時間旅行が楽しめます。


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ルート
深谷宿-深谷宿-本庄宿-新町宿‐倉賀野宿‐高崎宿
区間
歩いた日 GPS移動距離 天候 備考
JR深谷駅‐JR高崎駅
2017/11/15 32.9㎞ 晴れ

↑GPSログと写真がマッピング
された地図が開きます
GPSログを GoogleEarthでツアーする方法

↑ 再生ボタン  をクリックすると、街道筋を
空撮した様な動画が再生されます。
*左の GPS Log をGoogleEarthProでツアーして動画化した映像です。



カシミール3D 国土地理院 
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)


深谷宿

深谷宿は江戸から数えて9番目の宿で江戸を発って2日目の宿泊を深谷宿にする事が多かった為に宿として発展しました。江戸口から京口まで18丁(約1.9㎞)の長さの宿場に700軒ほどの人家があり,本陣1,脇本陣4,旅籠80と家屋の1割以上が宿泊施設だった事になります。

深谷駅

JR 深谷駅に降り立つと,まず煉瓦造りの駅舎に驚かされます。一瞬,「映画のセットか?」と思いました。東京駅をモチーフにして1996年(平成8年)に建設されたとの事です。
(注:厳密には煉瓦造りではなくコンクリート壁面に煉瓦風のタイルを貼っているとの事です。)

深谷は渋沢栄一の出身地ですが,明治時代に渋沢栄一らが日本煉瓦製造株式会社を設立し,深谷に煉瓦工場を建築した事から深谷は煉瓦の生産地となりました。

製造された煉瓦は東京駅,日本銀行,東京大学,信越線碓氷峠めがね橋など明治期を代表する建造物に使用されました。

七ツ梅酒造跡
造り酒屋の跡地を活かしてカフェや映画館などとして営業しています。レトロ感タップリな場所です。朝早かったため営業していなかったのが残念です。 


西(京口)常夜燈
深谷宿西口の桝形にある高さ約4mの常夜燈。
1840年(天保11年)に宿の東と西の入口に建立されました。 
東常夜燈との距離は約1.8㎞あります。
 東常夜燈


岡地区 豊見坂

西常夜燈を過ぎて4.5㎞ほど行った岡部付近の深谷市岡の八坂神社が建つ坂は僅か100mほどですが当時の面影を色濃く残しています。
五街道細見(岸井良衛 青蛙房)にも ”一丁ばかり下り坂” と記されています。

写真左:切り通しの新道との分岐点  左が旧中山道
写真右:分岐点にある お休み処 まるや


まるや を過ぎて右に曲がると段丘涯を下る少し薄暗い坂道が100mほど続いています。
地質的に言うと約7万年~1万8000年前に形成された段丘の地質から約1万8000年前~現在までに形成された堆積岩の地質の層に降りて行く事になります。
100mほど歩く間に数万年の時間旅行をした事になります。かなり強引なこじつけですね。


百庚申
豊見坂の印象を決定づけているのは,坂の中腹にある八坂神社の”百庚申”と言われる庚申塚群です。
幕末 1860年(万延元年)から翌年にかけて土地の有志13名により建てられたとの事です。
遡る事7年前には黒船が来航し,万延元年には桜田門外で井伊大老の暗殺事件があり,世の中が騒然としていた時代にあって,万延元年は庚申の年だった事もあり神仏に平安を願う為に建てられたとの事です。

皇女和宮の降嫁の行列は1861年10月に京都を出立しているので和宮も輿の中から百庚申塚を見たかもしれません。


滝岡橋付近からの風景
”岐蘇路安見絵図” にも ”赤城山其外上州の山々見える” と注釈付きで赤城山が描かれていますが
豊見坂を下り氾濫原に出ると広々とした風景に変ります。この付近からは赤城山,榛名山,日光の男体山などの山々が見渡せる街道筋になります。


本庄宿

本庄宿は利根川水運の大型船は本庄付近までしか入れなかったとの事で,荷物の集散地としても栄えました。
また近郷では養蚕が盛んで生繭市場が開かれ商業の町として発展しました。
家屋数は千軒以上あり,2千5百軒あまりの家屋があった高崎宿までで千軒を超える宿場は熊谷宿と本庄宿くらいでした。

旧本庄商業銀行煉瓦倉庫
外観の写真を撮っていたら,館長と思われる男性から「是非,中も見て下さい。」と声を掛けられたので館長の説明付きで内部も見学させて頂きました。
1896年(明治29年)に建てられた煉瓦造りの倉庫です。銀行が担保として預かった繭を保管する為に建設されたとの事です。煉瓦は隣の深谷の日本煉瓦製造株式会社の上敷免工場で製造されたものを使用しています。赤煉瓦の美しさと屋根の木組みが重厚な雰囲気を醸し,時間が止まっている様な静寂が空間を包んでいます。これまで洋菓子店の店舗として利用されていた建物を本庄市が整備して展示スペースや多目的ホールとして今年(2017年)の4月から公開しているとの事です。


商都の面影を伝える蔵


金鑚(かなさな)神社
市街の端にある金鑚神社の祭礼は本庄まつりとして11月2,3日に行われ,10基ある山車の引き回しが行われ北関東随一の豪華さと言われています。

新町宿

暴れ川だった神流川(かんながわ)は武蔵国と上野国の国堺でした。現在でも埼玉県と群馬県の県境です。という事でようやく”鶴舞う形の群馬県”に入りました。

神流川古戦場跡碑
神流川を渡ってすぐの橋の西詰めに碑が建っています。
説明板によると織田勢の関東管領として上州と信州の一部を治めていた滝川一益は1582年(天正10年)6月2日に本能寺で討たれた信長の弔い合戦出陣するも,この地の支配を狙っていた小田原の北条氏がこの機会に侵攻してここ神流川で戦ったとの事です。両軍合わせて4千人を超える死者を出し戦いは北条方の勝利でしたが北条方の損害も大きくその後小田原に引き返しました。滝川一益は厩橋(現前橋市)を去り領国の伊勢に帰ったとの事です。

見通灯籠  新町宿の入口
新町宿の入口にある石灯籠です。
神流川の氾濫で従来の灯籠が流失してしまった為,1808年(文化5年)に泉福寺住職と旅役人が発願し,旅人からも寄付を募って浄財を集め石作の灯籠を作る事にしました。完成したのは発願から7年後の文化12年でした。
暴れ川だった神流川を物語るエピソードです。

立石新田付近


川端家住宅
烏川橋の南詰め付近の立石新田に白壁の屋敷があります。説明板は無かったのですがインターネットで調べたら登録有形文化財(建物)に指定されている川端家住宅との事です。
立石新田近郷の豪農で明治になってからは養蚕で財を成したとの事です。母屋,門,蔵など多くの建築物が登録有形文化財(建物)に登録されているとの事です。
今日はこの場所を通れただけでも嬉しくなります。

注:この画像はパノラマ合成してあります。

信迎庵
川端家住宅からすぐの所に,水害の犠牲者を弔う為の供養塔群があります。供養塔に刻まれた幾つかの年代は元禄15年(1702年),明和5年(1768年)と読み取れます。
烏川,鏑川,神流川と大きな河川が合流する地にある為水害が度々起こり多くの犠牲者が出たのだと思います。


話は少し変りますが中学生の頃,授業で江戸時代の事を習ったとき随分と天災や天候不順が多い時代だなと感じました。改めて調べてみると以下が列挙できます。

1605年(慶長10年) 慶長大地震
1707年(宝永4年)  富士山噴火
1732年(享保17年) 享保の大飢饉
1783年(天明3年)  浅間山噴火,それに伴う天明の大飢饉
1833年(天保4年)  天保の大飢饉
1854年(安政元年) 安政東海地震・安政南海地震 
   話は変わりますが、この地震による津波から村民を救う為に積み重ねた稲に
  火を放ち高台に避難させた濱口儀兵衛(梧陵)をモデルにした小泉八雲の
  英文の原作を基に”稲むらの火”が書かれました。
  尚,濱口儀兵衛(梧陵)はヤマサ醤油の7代目当主です。

1855年(安政2年)  安政の大地震(江戸直下型)

等々です。
勿論現代ほど治水が進んでいない時代なので水害も多かったと思われます。

趣きのある道筋 
烏川橋の下をくぐり,橋の西側にでると,時間が止まっていたのではないかと思う様な道に出会います。おそらく舗装された以外は当時の道筋・道幅のままなのではないかと思います。
微妙にカーブしている道を見ると画一化した直線の道には無い何とも言えない懐かしさの様なものを感じます。


倉賀野宿

柳瀬川とも呼ばれた烏川に架かる柳瀬橋を渡ります。江戸時代は舟渡でした。江戸へ行く船も出ていたとの事です。
倉賀野宿は明治16年に鉄道が敷設されるまで舟運の船場もあり水運の宿場としても賑わっていました。また日光列幣使街道の追分もあり交通の要所として栄えた宿場です。

日光列幣使街道追分
追分の道標
従是 右江戸道 左日光道 と記されています。

常夜燈
正面に”日光道” 右側面に”中山道” 左側面に”常夜燈” 裏面に”文化十一年甲戌正月十四日 高橋佳年女書” 基台には312名の寄進者の名前が刻まれ 雷電為衛門の名前もあるとの事です。

後ろの社は閻魔堂です。

関東では珍しい卯建がある家屋


写真左:須賀喜脇本陣
写真右:須賀庄脇本陣跡


浅間山古墳
倉賀野を越えて1km程の所に家並に隠れて見落としてしまいそうですが街道の西側100mほどの所にあります。

墳丘長171.5mの前方後円墳で4世紀末~5世紀初頭の築造と推定されており国の史跡に指定されています。

高崎宿

高崎宿は高崎城の城下町として栄えた宿です。
五街道細見(岸井良衛 青蛙房)の高崎のところには ”当国都会の地にして繁盛の所なり”と書かれています。 また現在も町名として残っていますが 南町,新田町,あら町,連雀町,田町,九造(蔵)町,本町など多くの町名が記載されていて街道沿いのみならず広い範囲で栄えていた都市だった事が分かります。

どこで時間をロスしたという訳ではありませんが高崎に着いたときは日が落ちてしまいました。
でも,ずっと古い街並みを見ながら歩いていたのでイルミネーションの華やかさが嬉しいです。
歩きながら写真を写していると平均歩行速度は4㎞/hを下回る事があります。



END

2017/12/25 作成

Column


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