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電子足跡:旧中山道歩き旅 木曽路
 贄川宿から奈良井宿を通り上松宿へ


プロローグ


昨日通った桜沢(境川)から南が木曽路です。これから20余里(約80㎞)馬籠宿の先 新茶屋までが木曽路です。
この区間はなんと言っても国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている 奈良井宿 を通ります。約1kmにわたって続く出梁造りの民家は江戸時代そのものです。
草鞋こそ履いていませんが気分は京見物をしてお伊勢参りに行く旅人そのものです。


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ルート
区間 ルート 歩いた日 GPS移動距離
贄川駅-原野駅 贄川宿-奈良井宿-鳥居峠-藪原宿-宮ノ越宿-原野駅 2018年6月18日 24.7㎞
原野駅-上松駅 原野駅‐中山道中間地点‐福島宿-上松宿 2018年6月19日 14.8㎞

 
GPSログを
GoogleEarthでツアーする方法
  GPSログに写真がマッピングされた地図が開きます


カシミール3D 国土地理院
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)


贄川宿

贄川宿は木曽路に入って初めての宿場です。昨日通った桜沢(境川)が尾張藩と松本藩の藩境なので贄川宿は尾張藩最後の宿場とも言えます。

贄川関所跡
五街道細見には 「御番所 上下女改め ひのき細工改め」 と書かれています。
尾張藩は木曽の森林を藩有林としていた為,入り鉄砲に出女に加えて木曽五木(ヒノキ・アスナロ・コウヤマキ・ネズコ・サワラ)の搬出を監視していました。

岐蘇路安見絵図には「町の中に用水の溝あり」と書かれており,さすがに用水の溝は見当たりませんでしたが,沢から引いた水だと思いますが町中のいたる所に水道施設があり冷たい水が豊富に流れ出ています。

写真左:町内の水道施設
写真右:深澤家住宅(国重要文化財) 苗字・帯刀を許された豪商の家屋


木曽平沢の街並み
木曽漆器の町として有名です。
道の両側の家はほぼ漆器関係の店舗や工房です。

そこで塩尻市のホームページに掲載されている
”木曽漆器工業協同組合加盟店舗一覧”の住所が木曽平沢になっている加盟店を数えたら 97 店舗もありました。

奈良井宿

率直に,この家並みがよく残ったものだと驚きを禁じ得ません。

中村邸の案内をして頂いた女性の方の話では,昭和43年 現在公開されている ”元櫛問屋 中村邸” の移設問題をきっかけに奈良井の民家が歴史的価値を持つ事が認識され奈良井宿全体で保存運動が高まった事が契機となったとの事です。
それまではそこで普通に生活していたので住民はその意義や価値に気付かないまま過ごしていたとの事です。
建物の歴史的価値もさることながら,向こう三軒両隣の家で煮炊きし,家族全員で食事をして,夜の帳が下りれば囲炉裏端でチロチロ燃える炎を見ながら爺さん婆さんの昔話を聞いてみんな一緒に眠る。そんな生活が愛おしいと思えます。







鳥居峠

鳥居峠越えは道も整備されていて危険な場所はありません。奈良井宿からは標高差200m程度の登りですので難なく越える事ができます。

石畳を登っていると背の高い欧米系の男性が一人で降りてきました。一応挨拶と思い拙い発音で「Hello!」と言ったら,なんとも流暢な日本語が返ってきました。勿論この後の会話は全て日本語です。
東京在住で京都から日本橋を目指して歩いているそうです。
「中山道はどこが良かったですか?」と尋ねられたので「この坂を下った奈良井宿と碓氷峠が良かったです。」とか「和田峠はどうでしたか?」とか話しているうちに,中山道だけではなく他の旧街道も幾つか歩いておられている事がわかり,趣味を同じくする外国人に出会えて何となく嬉しい気分になりました。お互いの無事を祈りながら別れました。

奈良井宿側からの登り道

写真左:奈良井宿南端の旧中山道石段
写真右:鳥居峠への石畳の道


写真左:路傍の石仏 優しい笑顔です
写真右:鳥居峠への道


鳥居峠付近
かつて鳥居峠に立場茶屋がありました。現在は無人・無料・水洗トイレ付きの休憩所があります。
休憩所には沢水が引かれていて冷たい水が流れいます。冷たい水をタオルに浸して,流れ出る汗を拭くととても気持ちが良いです。

また鳥居峠は中央分水嶺で,北は奈良井川-犀川-千曲川-信濃川を流れ日本海に注ぎ,南は木曽川となって太平洋に注ぎます。

休憩所で休んでいると休憩所の管理人の方が軽トラックでやって来てトイレや休憩室を点検して行きました。沢水の状態を点検しないとトイレに水が流れなくなるので定期的に点検しているそうです。
立ち去るとき自然と「有り難う御座いました。」と言葉が出てきました。

写真左:立場茶屋跡の休憩所
写真右:峠を越した藪原宿側 写真左の道を進みます


藪原宿側の下り道
現在歩ける中山道は明治になってから開削された道です。
もとは現在の道の南側にあったとの事ですが今は通れないとの事です。(木曽観光連盟編 信州木曽路 中山道を歩く より)途中石畳もある,深い緑の森の中を歩く雰囲気のよい道です。
途中御岳神社の裏手側からは御嶽山が望めます。この日は曇り時々雨でしたが運よく雲が切れて御嶽山を望むことが出来ました。

写真左:御嶽神社
写真右:御嶽神社の石仏石塔群


写真左:御嶽神社から見える御嶽山
写真右:下り道途中から見える藪原宿


石畳の道


藪原宿


飛騨街道追分

坂を下りJR中央線と出会う所に飛騨街道追分があります。追分から北に向かうと飛騨街道です。
飛騨街道は信濃と美濃の国境である境峠,野麦峠を越え飛騨高山へ通じていました。
案内板によると明治44年(1911年)に中央線が開通すると岡谷の製糸工場で働く女工達が頻繁に往来するようになったとの事です。

女工達が頻繁に往来したと説明板で読んだら,下諏訪宿から贄川宿のページにも書いた,映画 ”あゝ 野麦峠”を思い出しました。
女工達は中央線が出来る前は飛騨高山から野麦峠を越えて奈川を下り,現在では上高地の入口になっている新島々を通って塩尻峠を越えて岡谷まで歩いて行ったのではないかと思います。
映画 ”あゝ 野麦峠” では病に倒れた主人公の大竹しのぶが,兄が背負う背負子に乗せられて野麦峠を越えたとき「ああ,飛騨が見える。」と言って息絶えるシーンがラストシーンだったと思いだしました。

写真左:飛騨街道追分の道標
写真右:中山道はJR中央線の跨線橋を渡ります


そば処 おぎのや
藪原宿に入るとすぐに ”そば処 おぎのや” があります。ちょうど昼時でしたので蕎麦を頂きました。
麺は薄く緑がかり,冷たく冷えた蕎麦で,爽やかな香りで美味しかったです。
ご主人に話を聞いたら,昔の民家を一部食堂向けにリフォームしたものの極力往時の姿を残してそば屋にしたとの事です。先祖はこの地で塩・味噌など生活必需品を商っていたそうで裏には立派な庭と蔵が四棟建っていました。部屋は黒光りする太い梁や柱の重厚さと相まって長い年月を経た歴史の重みを感じます。

ご主人が仰るには,昔 蔵の中に得体のしれない岩の様な物がたくさん置いてあったけど邪魔なので捨ててしまったそうです。今になって考えると,あれは岩塩だったのではなかったのか? 岩塩だったらそれを使って美味しい蕎麦が打てたのにと後悔していました。
また,そば屋にする前はこんな古くて寒い家を誰が継ぐものかと思っていたそうですが,今はこの古民家を残してくれた両親・先祖に感謝しているとの事です。お話を伺って営々と続く人の営みの重みを感じました。





宮ノ越宿


木曽義仲・巴御前ゆかりの地

宮ノ越宿は木曽義仲ゆかりの地です。一族の菩提寺である ”徳音寺” ,平家追討の旗揚げをした ”旗揚八幡宮” 子供の頃巴御前が泳いだとされる ”巴淵” など木曽義仲・巴御前にまつわる史跡が多く残されています。

この地で旗揚げをして,勢力基盤である北陸経由で京に進軍します。
北陸で平維盛を総大将とする平家軍と倶利伽羅峠で圧倒的勝利を納めたあと破竹の勢いで京に進軍する事になります。

木曽義仲の墓は討ち死にしたとされる粟津のそば,現在の滋賀県大津市の膳所(ぜぜ)の義仲寺にあります。
義仲寺には生前から義仲の墓のそばに葬ってほしいと願っていた松尾芭蕉の墓がある事でも有名です。
その義仲寺の境内に木曽義仲と松尾芭蕉の墓が並んで立っている光景を詠んだ門人の又玄(ゆうげん)の句です。

  木曽殿と背中合わせの寒さかな  又玄

写真左:徳音寺山門に続く参道
写真右:徳音寺境内


写真左:木曽義仲公霊廟
写真右:巴淵


中山道中間地点

宮ノ越宿を越えて福島宿に向かう途中 JR原野駅付近に中山道中間地点の石柱があります。

京へ
六十七里二十八町
江戸へ
六十七里二十八町

中間点の付近には素朴な石仏がありますのでお見逃しなく。

福島宿

現在は木曽川を挟んだ両側に町が広がり背後に山が迫っていますが,山間の町にしては明るい雰囲気で独特な雰囲気があります。

福島関所
江戸時代は福島関所が置かれ 「木蘇路安見絵図」には ”御関所 往来の者女鉄砲改め 東海道あらいの御関所のことし” と書いてあります。あらいの御関所とは現在の静岡県湖西市新居町にある今切関所の事で碓氷,箱根,新居と共に四大関所と言われていました。

説明板には東西門内21間4尺(約39.4m)と書いてありましたので門外の柵なども入れるとかなり規模が大きな関所だった事がわかります。

上の段
福島関所から500m程進み桝形(敵の侵入を防ぐ為に道をクランク状に曲げた所)を曲がって,段丘崖の坂道を登ると段丘に100m程の距離に並ぶ古い街並みが突然現れます。
奈良井宿に比べれば規模は小さいですがこじんまりとした風情のある良い街並みです。


道が分かり難いです
JR木曽福島駅前を過ぎてそのまま進むと木曽町役場があります。よく見ると役場の建物の壁に中山道の道標が貼ってあります。中山道は役場の建物の脇を通って,段丘崖を下るように続いています。

写真左:木曽町役場壁面の道標
写真右:段丘涯の下り坂


街道消滅&道わかり難い
木曽川がL字に曲がる ”沼(ぬ)田野” 付近は道が消滅している部分があります。ガイドブックには「トンネル内を通行する」と書いてありましたがトンネルは通行止めになっていました。(注:車のみか,歩行者も通行止めなのかは分かりませんでした。)また細い農道が入り組んでいる為どこをどう歩いたらよいのか迷います。やむなく国道19号線を進み途中で東側の斜面に道が見えたのでそこを歩いて鳥居地区にでました。

通行止のトンネル 国道19号線 鳥居地区を抜けた所にある看板
”19号線を進む”と書いてあります。

上松宿

JR上松駅そばの町営駅前駐車場に車をとりに行って今日の歩きは終わりです。
町の中はあまり宿場の面影は無かったのですが,駐車場料金が40~50年前にタイムスリップしたのではないかと思える料金でした。

写真左:本町の一里塚跡
写真右:町営駅前駐車場の料金


エピローグ


歩き終わった後、”ねざめホテル” の日帰り温泉で汗を流しました。
温泉の東側に綺麗な山が見えたのでフロントの係の方に何という山か聞いたら、木曽駒ケ岳との事でした。

木曽駒ケ岳と聞くと、大正2年(1913年)に起こった 教師・児童の遭難事故を思い出します。
木曽駒ケ岳を登山中に悪天候に巻き込まれ、教師・児童38人が遭難し、11人が死亡した遭難事故です。新田次郎の小説「聖職の碑」のモデルになりました。

フロントの方と、その話をしていたら、私も中学生の時 『同級生達と登りました。』と話されていました。学校の行事として登ったのか、同好の士が集まって登ったのかは聞き忘れましたが、登った時の事は今でも鮮明に覚えています。との事でした。


END

2019/12/25 一部追記
2018/08/08 作成

Column


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