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電子足跡:旧中山道歩き旅
 上松宿から三留野宿へ 木曽路
  "夜明け前" 冒頭部分の道


プロローグ


木曽路とも言われる中山道を上松宿-須原宿-野尻宿-三留野宿まで歩いたページです。
上松宿と言ってもどこに在るの?と思う方も多いと思います。上松宿は木曽川の景勝地 寝覚ノ床がある地ですが,平成30年大相撲名古屋場所で優勝した御嶽海の出身地と言った方が知っている方が多いかも知れません。

”夜明け前”の冒頭部分の道
野尻宿と三留野宿の間は島崎藤村 ”夜明け前” の冒頭
「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨(そば)づたい行く崖の道であり,あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり,あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。」(新潮文庫 平成26年 10月20日 93刷 より) に描かれた険阻な道 ”羅天の桟道” があった場所です。

円空仏
また三留野宿の等覚寺には円空仏が安置されており公開されています。少し足を延ばして参拝すると良いと思います。


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ルート
区間 ルート 歩いた日 GPS移動距離
上松駅-野尻駅 上松宿-(寝覚)-須原宿-野尻宿 2018/07/03 19.8km
野尻駅-南木曽駅
野尻宿-(羅天の桟道跡)-三留野宿-等覚寺 2018/07/04 10.7km

 
GPSログを
GoogleEarthでツアーする方法
  GPSログに写真がマッピングされた地図が開きます


カシミール3D 国土地理院
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)


上松宿

上松は宿場の雰囲気は薄れています。でも御嶽海の出身地だけあって町全体に御嶽海のポスターやのぼりが掲げられていました。
上松駅前にある上松町観光案内所に行ったとき,御嶽海のポスターを見たので「御嶽海は上松出身なんですか?」と担当の女性職員に聞いたら,職員の方が観光案内以上に、御嶽海を熱く語っていました。町内では本場所中は御嶽海の勝敗が挨拶代わりになるそうです。
私は御嶽海は知ってはいましたが,上松町出身とは知らず,四股名も御嶽海(みたけうみ)なので発音が異なる御嶽山(おんたけさん)から四股名をとったとは思っていませんでした。
今年、名古屋場所で優勝したので上松町は大盛り上がりではないかと思います。

2022年1月26日追記
2022年初場所で優勝して大関昇進が決まりました。御嶽海は勿論ですが、上松町で御嶽海を応援している皆さん大関昇進おめでとうございます。
御嶽海が上松町出身と教えて下さった上松町観光案内所の女性職員の方はもとより、上松町の方達は、今てんやわんやの大騒ぎなのではないかと思います。

写真右:上松宿の家並
写真右:河岸段丘から見た上松町内


寝覚ノ床
上松と言えば木曽川の景勝地 ”寝覚ノ床” が有名です。木曽川が花崗岩を削りその岩肌が姿を現しています。方状節理の岩肌が白い箱を並べた様に重なり,エメラルドグリーンの水面とのコントラストが綺麗です。

”岐蘇路安見絵図”には 「立バね覚村 ・・略・・ ね覚の床 臨泉寺の客殿より見下す也。下道も有り。・・略・・ 名石数々名あれとしるすにいとまなし凡此地は他所のすくれたる風景にもこえて奇妙なる風景なり。心をとどめて見るべし」
と記載され昔から景勝地として知られていました。

旧中山道の道筋から寝覚ノ床を見る事が出来ないので少し寄り道をして訪れると良いと思います。

小野の滝

広重・英泉の合作 ”中山道六十九次” の浮世絵に描かれた滝です。現在では前を国道が走り,滝つぼの上をJR中央線が通りちょっとガッカリします。
往時ならば中山道を歩いて来ると,白布を垂らしたような清らかな水流と深山に響く轟音が旅人の疲れを癒したと思います。

宮戸地区付近の石仏群
道路脇のガードレールの後ろに隠れて小さな石仏が並んでいます。素朴なお顔で旅人を優しく見守っているようです。


諸原吊り橋
対岸の諸原地区に渡る吊り橋です。吊り橋は何故か懐かしい感じがします。
吊り橋の上からは水底まで見える木曽川が流れています。


倉本の石仏・石碑群  庚申塔
上松町指定文化財になっている庚申塔は享保12年(1727年)建立です。

説明板によると
60日に一度めぐってくる庚申の日は,人間の身中に居る三尸九虫(さんしくゅうちゅう)という虫は庚申の夜に人が寝た時,天に昇って天帝に人間の罪過を告げて人の生命を縮めるとされています。この虫の報告が五百条になると人は死ぬとされていました。
そこで,虫が天帝に報告しないように庚申の日は寝ずに夜通し起きていて,長寿を願ったとの事です。

この説明板のおかげで庚申塔がいたる所にある理由が分かりました。

須原宿

須原宿へは崖沿いの草むした細い道を通って行きます。
歩いた日は7月3日でしたが,7月6日に 恒例の ”長持行列” が開催されるとの事で宿場内に提灯が飾られて華やかな家並でした。

インターネットで 須原宿の”長持行列” を調べたら,長持ちを担いだ嫁入り行列を再現したもので鹿島神社例大祭に合わせて開催されるそうです。

”長持行列” の準備で提灯を掲げる須原宿


若い世代の方は ”長持” を知らないかも知れません。
”長持” とは 衣類や寝具を保管する為の長方形の木製の箱の事で,多くの場合蓋の部分に金属製の輪が取り付けられていてその輪に竿を通して数人で担いで運べる様に作られています。長持は衣類などを収納して嫁入り道具になりましたし,そのまま床に置いて箪笥の様に衣類などを保管しました。

子供の頃,母の実家に行くと長持が有って,いとこ達とかくれんぼで長持に隠れた事がありました。
この文章を読んだ方は,いったいこれを書いている人は何歳なのだ?と疑問に思うでしょうね。

水船
宿内には水船と言われる丸太をくり抜いて水を溜める水道施設を見る事ができます。写真はそのひとつです。

この水船は正岡子規の歌碑の前に置いてあります。

 寝ぬ夜半を いかにあかさん山里は 
   月出づるほどの 空だにもなし
 子規


須原宿に関わらず木曽路に入ってから宿場の街道脇に水道施設が多く見られるようになります。
いにしえの旅人がのどを潤したり,体を拭きながら通り過ぎて行ったのでしょう。

野尻宿


野尻宿の七曲り

野尻宿は七曲りと言われ外敵の侵入を防ぐ枡形(道筋をクランク状に曲げて見通しを悪くした場所)が何ヶ所にも設置されていました。
宿場に枡形を設けるのは珍しい事ではないですが,野尻宿は枡形が多く現在でも宿場内を見通す事が出来ません。


十二兼付近


十二兼は国道19号線を横断して,国道の斜面をヘアピンに曲がったカーブを登ります。かつては立場があった場所でこじんまりとした部落になっています。

注:立場(たてば)=茶屋があって,旅人や人足が休息する場所。宿泊は禁止されていた。

道路下の水路が中山道?
十二兼地区を過ぎると直ぐ国道19号線とJR中央線にぶつかります。

”五街道細見 岸井良衛 青蛙房”の十二兼の記述を見ると,十二兼から ”小橋” を渡って 田の沢-坂の上 に道が通じていた様に書かれています。
現在は小さな川が国道19号線とJR中央線の下のトンネルを流れています。おそらく小橋はこの川に架かっていた橋なのではないかと思います。

という事で,今は入口が少し判り難いのですが中山道は国道とJRの下の水路の中を通っています。



”夜明け前”冒頭部分の道  羅天の桟道(らてんのさんどう)跡 


JR十二兼駅を過ぎたあたりから木曽川を挟む山並みはいよいよ迫り,深いV字谷の中を進みます。
かつて野尻宿から三留野宿の間の道は険しく危険な場所でした。

特に写真の南の寝覚と言われている柿其橋付近から金知屋の間は危険な道筋で現在JR中央線の第一羅天トンネル付近はかつて ”羅天の桟道” が架けられていた場所とことです。
今では古い街道筋は廃道になっていて歩けなかったり,歩ける道は整備されているので危険な場所はありません。

注:桟道=山の崖の中腹に,棚のように設けられた道

”岐蘇路安見絵図”には
「野尻と見との間,甚あやうき道なり。この間左は山也。その山のかたわらのわずかなる石多き道を行。右は数十間高きがけにて屏風を立たることくなる所多し。其下は木曽川の深き水なり。山の尾をまわる所多し。あやうき事甚だし」 と書かれています。

島崎藤村 ”夜明け前” の書き出しには
「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨(そば)づたい行く崖の道であり,あるところは数十間の深さに
臨む木曽川の岸であり,あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。」(新潮文庫 平成26年 10月20日 93刷 より) はこの区間の事を書いていると言われているそうです。

JR中央線第一羅天トンネル付近


写真左:金知屋を過ぎて三留野宿手前付近
写真右:道の直ぐ下を木曽川が流れる


三留野宿


JR中央線の下をくぐりべに坂を登って少し高台に三留野宿はあります。
所々古い建物が残りそこはかとなく宿場だった頃の面影があります。

写真左:三留野宿の家並
写真右:三留野宿本陣跡


三留野宿 等覚寺 の円空仏
街道筋から数100m離れた斜面の中腹に等覚寺があります。

等覚寺には三体の円空仏が保存され公開されています。

写真は韋駄天像です。

素朴な御姿は美しいとか宗教的な意味などを越えて自然と心の中に入ってくる感じがします。

日本の禅宗では韋駄天は厨房を守る護法神として祀られるので,かつては庫裡に祀られて,その為に煤で黒くなったとの事です。

また,昔盗難にあった事があり無事戻ってきたものの,それ以後ガラス張りの金庫に保管する様にしたとの事です。

この韋駄天像は今回中山道のルートの参考にした 1977年に初版が発行された ”太陽コレクション「地図 江戸・明治・現代」 第4号「中山道・奥州道」 平凡社” の三留野宿のページに掲載されています。

等覚寺山門
等覚寺は ”夜明け前” にも 「・・,公儀から沙汰のあった大般若の荘厳な儀式があの満福寺で催されているのだ。手兼村の松源寺,妻籠の光徳寺,湯舟沢の天徳寺,三留野の等覚寺,その他山口村や田立村の寺々まで,・・」とその名が出てきます。

庫裡に行き円空仏を拝ませて頂きたい旨を伝えたら,坊守の奥さんが案内してくれました。
奥さんが「何処から来たのですか?」と聞いたので「新潟県長岡市です。」と答えたら,娘さんが新潟の大学に進学しているとの事で,昨年長岡花火を見たという話になりました。円空仏の話はそっちのけで長岡花火の話で盛り上がりました。見ず知らずの土地で同じ長岡花火の話が出来るのは何かの縁だったのでしょう。

この後,JR南木曽駅に行って今日の歩きは終わりです。


END

2018/08/17 作成

Column


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