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電子足跡:旧中山道歩き旅
 大井宿から御嵩宿へ 十三峠越え


プロローグ


下の標高断面図を見て頂けるとお分かりになるかと思いますが,大井宿から御嵩宿の間は高低差はそれ程大きくはないですが十三峠と言われるアップダウンの繰り返しの道です。当時も難所と言われていました。
この区間は幹線道路や鉄道路線から外れているので旧中山道が良い状態で保存されています。何といっても琵琶峠の長い石畳や大きな一里塚が対で複数残っている事は驚きです。

この十三峠を越えると碓氷峠越えから始まった日本列島の三段腹の様な山脈の間を縫う様に進む山間地の道は終わります。


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左の写真は恵那側の十三峠の入口に掲げられていた看板です。現代では,街道沿いに所々集落や民家はありますが,食堂や商店,宿泊施設が少ないという事で歩くには更に困難さが増しています。歩くときは充分な準備をしてください。

注:確認はしていませんが,細久手宿を通ったとき旅館大黒屋は営業しているように思えました。宿泊が必要な方は確認してください。
また自動販売機がある商店が2軒ありました。
いずれにしても人家が少なく,ほとんどの行程が人里離れた所を通っています。

2018年 西日本に大きな水害をもたらした台風7号から熱帯低気圧に変わった豪雨でとても歩ける状況ではなく,2日間足止めでした。ようやくJR中央線が運転を再開したものの中津川までの折り返し運転で南木曽(なぎそ)までいく事が出来ず,急遽三留野宿から大井宿までの間は次の日に回して,先に大井宿から御嵩宿までの十三峠の道を先に歩くことにしました。

ルート
区間 ルート 歩いた日 GPS移動距離
恵那駅-御嵩駅 大井宿-大湫宿-細久手宿-御嶽宿 2018/07/07 31.3km

 
GPSログを
GoogleEarthでツアーする方法
  GPSログに写真がマッピングされた地図が開きます
  



カシミール3D 国土地理院  (カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)

大井宿

中野村庄屋の家
説明板によると
文久元年(1861年)皇女和宮降嫁のとき,大湫宿の助郷村だった野井村が岩村藩代官より強制的に賄役にさせら,それを不満に思った野井村百姓代熊崎新三郎が,和宮降嫁の行列が終わったあと,ここ中野村庄屋宅に滞在していた岩村藩代官吉田泰蔵を斬りつける事件が起きました。
代官が強制に野井村を賄役にしたことが慣例になり,野井村の負担が増える事を恐れた野井村は岩村藩相手に裁判を起こし,最終的には野井村が勝訴して代官は罷免されました。

小説”夜明け前”にも描かれていますが,宿場及び助郷の負担は重く,とりわけ和宮降嫁のときは暴風雨の如く街道筋を襲い過ぎ去っていきましたが,”夜明け前”の世界を彷彿とさせるエピソードです。

西行硯水・西行塚
平安時代末期の歌人西行の伝説は各地にありますが,ここでは諸国行脚の途中ここに竹林庵を結び3年間暮らしたという事です。死期を悟った西行は,自分の遺骸を中野坂に埋葬してほしいと頼み,村人達は遺言通りに埋葬して五輪塔を建てたという伝承です。西行塚がある場所は現在では西行坂と呼ばれ十三峠の入口付近にあります。

写真左:西行硯水
写真右:伝西行塚


十三峠入口


恵那市街を西に進むと田園風景が広がります。JR中央線を越えて中央自動車道の函渠を越えると直ぐに十三峠の入口になります。冒頭に載せた注意の案内板は此処に立っています。ここから先御嵩宿まで約30kmはアップダウンのある道が続きます。

槙ヶ根立場・下街道追分
途中の伝西行塚を見てから1.5km程進むと槙ヶ根立場に着きます。ここにはかつて多治見を経て名古屋に向かう名古屋道の追分がありました。名古屋道はさらに佐屋街道に繋がり渡し舟に乗り桑名へ出て伊勢神宮へと続いていました。

  注:説明板に掲載されていた絵図を使わせて頂きました。

追分の道標  右 京大坂  左 伊勢名古屋
現在でも交差点は交通量が多いですが,街道を行き来する旅人向けに当時9軒の茶屋があり賑わっていました。
今では当時の面影は無く,打ち捨てられた道が静かに佇んでいます。

乱れ坂
急坂の為に大名行列が乱れ,旅人の息が乱れ,女性の裾が乱れるほどだった為に”乱れ坂”と言われる様になったとの事。

写真左:乱れ坂の碑
写真右:乱れ坂


首なし地蔵
地元の人達が宝暦6年(1756年)に旅人の道中安全を願って立てたお地蔵様。

昔,2人の中間(ちゅうげん=最下級の武士の身分)が地蔵のそばで眠っていて,一人が目覚めると,もう一人が首を切られて死んでいた。怒った中間は「黙って見ているとは何事だ!」と刀を抜いて地蔵の首を切り落としてしまった。それ以来地蔵の首をつけようとしたが,どうしてもつかなかった。(説明板より)

大湫宿


紅坂一里塚

地理院地形図にも記載がある紅坂一里塚。

恵那側から歩いてきて,紅坂の手前で出会う一対の一里塚。 江戸へ89里,京へ45里。
中山道の行程のほぼ2/3を歩いた事になります。

写真左:一里塚手前の中山道の風景
写真右:紅坂


西坂,みちじろ坂,観音坂
紅坂一里塚を過ぎて,藤村高札場跡を西坂・みちじろ坂を通って観音坂に続いている道は中山道がそのまま残っているのではないかと思える良い道です。
私だけの感覚かもしれませんが,アスファルトの道を歩くと足にダメージがかかり歩き終わる頃になると歩くのが辛くなりますが,土の道は足に優しい感じがしてダメージをあまり感じません。

写真左:西坂
写真右:みちじろ坂


写真左:恵那市/瑞浪市境の中山道碑
写真右:大久後観音坂


権現山の一里塚
紅坂の一里塚に続いて現れるのが権現山の一里塚です。写真では片側の塚しか写っていませんが一対の塚が残っています。一里塚の手前の樫の木坂から石畳が続き一対の塚の間を石畳の道が続いています。当時の様に人が大勢あるいていない以外は当時の姿のままなのではないかと思います。

と言いつつ,実はこの区間はゴルフ場の中を通っています。その名も中仙道ゴルフクラブです。ゴルフ場を開発するときに旧街道を残してコースを設計したのだと思います。
以前北陸街道を歩いたときも福井県の山代山中ゴルフ場の中を北陸街道が通っていました。

写真左:樫の木坂の石畳
写真右:権現山の一里塚


十三峠の三十三所観音石窟
道中安全を祈って天保11年(1840年)に建立された観音石窟です。石窟内には33体の馬頭観音があり,大湫宿内の馬持ちと助郷の近隣からの寄進だとの事です。


大湫宿内


寺坂の石仏群を過ぎると久々に人家が密集する大湫宿に入ります。
”湫”とは低湿地のことだそうですが大湫宿へは坂を下っていきます。地形図を見ると大湫宿は山間の窪地と麓のはざまの北西部分あります。

坂を下る途中に”若竹屋”という食料品店があります。恵那市街を過ぎてから初めての食料品店です。

勿論ジュースを買って店先で飲まさせてもらいました。
気分は,茶屋で休む旅人です。

街道沿いの家並


大湫宿本陣跡 皇女和宮宿泊
京を立って9日目の文久元年(1861年)10月28日,大湫宿本陣に宿泊しています。
本陣は旧大湫小学校校庭の所にあったとの事ですが現在本陣の建物は無く,本陣の遺構と思われる石垣の所に宮廷装束の人形が三体並んでいるのみです。

 遠ざかる 都と知れば 旅衣
  一夜の宿も 立ちうかりけり
 和宮御歌

それにしても小学校の校庭が本陣跡とは如何に大きな本陣だったのかと思いますが,大湫町コミュニティ推進協議会のホームページによると,間口22間(約40m)、奥行き15間(約27m)、部屋数23、畳数212畳、別棟添屋という広大な建物だったとの事です。

旧森川家住宅
旅籠を営み,塩の専売も行っていたとの事です。瑞浪市中山道観光案内所として公開されています。



小坂の馬頭様と二つ岩
この付近は大きな花崗岩が露出して独特な風景です。
安藤広重の大湫宿の浮世絵はこの付近を描いたと言われています。


琵琶峠の石畳
二つ岩から県道65号線を数100m進むと琵琶峠に向かう石畳が始まります。
写真では上手く伝わらないと思いますが,この石畳からは風格の様なものを感じます。


”五街道細見 岸井良衛 青蛙房”の記述によれば 「坂の上より丑寅の方に木曽の御岳みゆる。北には加賀の白山,飛騨山の間より見ゆる。西に伊吹山見ゆる。」 と書かれており眺望の良い場所だった事が伺えます。
私が歩いた日は曇り時々雨でいたので遠望する事は出来ませんでした。

読者の方が晴れていれば見えるのかと期待するかと思いましたので ”カシミール3D” の ”見通し”機能 で検証してみました。結果は琵琶峠からは伊吹山以外は見えないという判定でした。ただ琵琶峠より少し高い所に登れば見えるかもしれませんが江戸時代の記述ですので伝聞で記載されたのかもしれません。
いずれにしても遠くの絶景より足元の風景を楽しんだ方がよいと思います。

八瀬沢の一里塚
石畳を下って行くと石畳の向こうに唐突に八瀬沢の一里塚が現れます。一里塚の周囲は少し開けていた為に光が差し込み神々しく見えました。

琵琶峠の石畳は尾根筋を通っていた為に開発から逃れ,特に琵琶峠を中心とした1kmほどの区間は当時の石畳も500m以上確認され,峠を開削した時のノミの跡を持つ岩や土留め側溝なども残されているとの事です。

細久手宿


奥之田一里塚

冒頭の一里塚の写真は細久手宿手前、この奥之田一里塚です。この一里塚は高さ4m長径12mあり両塚ともによく原形を留めています。
この一里塚は開けた場所にあるので両塚を同時に見る事ができます。

細久手宿
宿場の入口付近に自動販売機が設置されています。嬉しい事にベンチもありましたのでジュースを購入し休ませて頂きました。

下の絵図は当時輪島屋と言われていた家の塀に掲げられていたものです。(青色の吹き出しは筆者)
江戸時代の絵図を復刻したのかとも思いましたが,年代のところに西暦が書いてあるので,少なくとも西暦が日 本に持ち込まれて普及してから描いたのかと思います。
道の曲がり具合や家の配置は現在と同じである事に驚かされます。

さらに驚くのは上部の中ほどに書かれている内容なのですが
”寛政10年(1798年)宿内全焼” ”文化10年(1813年)宿内82軒消失 南蔵院のみ残る” ”安政5年(1858年)宿内62軒消失 南蔵院のみ残る” と宿場が何回もほぼ全焼している事です。そして,その都度再建されていて,当時の方達のバイタリティーには驚かされます。


尾張藩定本陣 大黒屋
大黒屋のホームページによれば
細久手宿本来の本陣・脇本陣が手狭になった為,他領主との合宿を嫌った尾張藩が尾張家本陣として定めたのが尾張家定本陣大黒屋との事です。

建物全体を写さなかったのですが本卯建が上がった建物で安政5年(1858年)の大火の直後に再建された建物である事が確認されているとの事です。

注:冒頭にも書きましたが,旅館大黒屋は今も営業しているようです。宿泊が必要な方は確認してください。

秋葉坂の三尊石窟


鴨ノ巣一里塚
塚が少し小振りですが両塚とも綺麗に残っています。
塚が南北に少しずれているのは地形の関係でずらして築いたとのことです。
推測ですが,この塚の場所は北側に下がる斜面になっているので同じ場所に作ると北側の塚が低くなるか,高さを合わせると盛土を多くしなければならなくなるので高さが同じ位な場所を選んで塚を築いたのではないかと思います。

説明板によると鈴鹿,伊吹や北アルプスの山々が一望できるとの事です。こちらは現代の記述ですので木立が邪魔をしなければおそらく見えるのでしょう。

御嵩宿

津橋の集落を過ぎるとまた山道になります。この道を ”牛の鼻欠け坂” まで歩くと碓氷峠越えから始まった山間を進む道は終わりです。

御殿場
文久元年(1861年)皇女和宮の降嫁のとき,一行が休憩する御殿が造られたことから御殿場と言う様になったとの事です。

謡坂(うとうさか)
説明板によると,登坂が急なため,旅人が歌を唄って苦しさを紛らしたことから ”うたうさか” が ”うとうさか”に転じたとあります。


一呑清水
木曽路では街道沿いに水が豊富に流れていましたが,木曽路を過ぎてからはあまり水がありません。清水が湧いている所は中山道を歩く旅人にとっては貴重な場所だったのでしょう。多くの清水の場所に石仏が鎮座していました。

皇女和宮は降嫁のときこの清水を賞味したところ,大層気に入り,後に上洛する際,永保寺(現 多治見市)で点茶した時にこの清水を取り寄せたたと伝えられているとの事です。

牛の鼻欠け坂(西洞坂さいとさか
あまりに急な坂だった為,荷を背負って登る牛の鼻がすれて欠けたと言われた坂道です。
この坂道を境に山間の道は終わり,ここから京へは比較的なだらかな道になります。


坂が終わると開けた田園風景が広がります。人家がそばに見えると安堵感が広がります。


和泉式部廟所
説明板には 和泉式部が東山道をたどる途中,ここ御嵩のあたりで病に侵され,鬼岩温泉で湯治していましたが,寛仁3年(1019年)この地で没したと書かれています。

 ひとりさえ 渡ればしずむ うきはしに 
   あとなる人は しばしとどまれ


碑に刻まれている歌です。

当時の多くの女性と同じように,和泉式部の生没年は不詳ですし,伝承は各地にあるのでその中の一つだと思います。
でも恋多き女性が都を遠く離れ草枕の地で没したと言うのは何となく人生の悲哀を感じます。

エピローグ


十三峠の道は息が切れる様な急登がある訳ではないのですが、アップダウンが続き歩き終わった後、普段より足が重くなった感じがしました。
碓氷峠越えから続いてきた山間の道はここで終わりです。ここからは平坦な道が続くようになります。

御嵩駅まであと2kmほど歩いて今日の歩きは終わりです。


END

2018/09/06 作成

Column


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