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電子足跡:中山道歩き旅
 鵜沼宿から加納宿(岐阜市)へ 岐阜城遠望


プロローグ


このページは旧中山道を鵜沼宿-新加納宿(間宿)-加納宿(岐阜市)まで歩いたページです。


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広大な濃尾平野の北端に続くこの道は現代では交通量も多く旧街道の風情は少なくなっています。
しかしこの区間は齋藤道三・織田信長の居城になった金華山山頂の稲葉城(岐阜城)を遠望しながら歩く事が出来る歴史の道です。中山道は奈良時代から続く街道なので多少のルートの変更はあったかと思いますが戦国時代も概ね現在のルートと思われます。司馬遼太郎の「国盗り物語」さながらに,この街道を戦国の武士達が行きかった姿を想像しながら歩くと往時の人々のエネルギーを感じます。

「新修 五街道細見」 (岸井良衛 青蛙房)には 鵜沼宿から加納宿までは四里八丁(約16.9km)とあり随分と離れています。またその間は「広き野なり。この野に田畑なし。只青草のみ生ず。野の南に三井山と云うあり。その山の南,木曽川まで,みな野なり。」と記されています。現代とは全く異なった風景が広がっていたようです。

ルート
区間 ルート 歩いた日 GPS移動距離
鵜沼宿-加納宿 新鵜沼駅-鵜沼宿-新加納宿(間宿)-加納宿-岐阜駅 2018/07/11 19.3km

 
GPSログを
GoogleEarthでツアーする方法
  GPSログに写真がマッピングされた地図が開きます


カシミール3D 国土地理院
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)


鵜沼宿


鵜沼宿は名鉄鵜沼宿駅の北側500m程の所にあります。難読地名の各務原市(かかみがはら)にあります。
各務原市のホームページにも宿場紹介のページがあり,宿場全体の保存に努めているようでよく整備された綺麗な宿場です。

鵜沼宿脇本陣(復元)


芭蕉句碑
脇本陣の隣に芭蕉の句碑があります。説明板によると,松尾芭蕉は鵜沼宿に3度訪れ脇本陣に滞在して以下の句を残しています。

  汲溜の水泡たつや蝉の声
  ふく志るも喰えは喰せよきく乃酒
  おくられつ送りつ果ては木曽の秋


おくられつ・・・ の句は美濃路を離れ木曽路を通って信濃に更科紀行の旅に出るときに創った句との事です。
この句は 本ホームページの ”三留野宿から大井宿へ 妻籠宿 馬籠宿” で触れていますが馬籠宿の西はずれの新茶屋に在る芭蕉句碑に刻まれている句です。鵜沼宿で詠んだ句と初めて知りました。

鵜沼宿の家並

かつては旅籠が並んでいた街道筋です。各務原市のホームページによると茗荷屋という屋号の旅籠は明治24年(1891年)の濃尾震災でも倒壊を免れて現在に至っているとの事です。



犬山城遠望
鵜沼宿の西はずれに ”木曽川泥流堆積物” と書かれた案内板がありました。堆積物を見ようと少し高い場所に上がったら南方面に ”犬山城” が見えました。建物や電線が邪魔をしていますがご容赦ください。

でも結局 
泥流堆積物はどれなのか良くわかりませんでした・・・。

各務ヶ原駅前
現代ではここが 田畑も無い原野だったとは想像も出来ないくらい家が建ち並び,車が行きかう道に変貌しています。

ところで
写真の駅への案内板には  ”かみがはら” と書いてあります。
各務原市のホームページには ”かみがはら” と書いてあります。

”かみがはら” と ”かみがはら” 二通りの発音があるようです。

新加納宿(間の宿)

鵜沼宿と加納宿の間が四里八丁(約16.9km)と長い為,現在の新加納駅付近に立場(人足・駕籠かきなどの休息施設)が設けられ,間の宿としても機能しました。

新旧道筋比較
案内板に掲載されていた新旧の道筋です。旧街道の道筋は現代でもあまり変わらないといつも驚かされます。


新加納宿の家並
微妙に曲がった道筋や家並にそこはかとなく当時の面影を感じます。


加納宿

金華山山頂の岐阜城が見えてくるといよいよ岐阜市に近づいてきたと実感します。
標高329mの山頂に天守閣がそびえる姿はこれまでに見たことが無い独特な風景です。
こんな高い山にどうやって城を築いたのだろうと率直に疑問に思います。



加納安良町の道標
岐阜市内の加納宿は建物は殆ど建て替わっていますが,所々に往時の面影を残す痕跡があります。

「右 岐阜 谷汲  左 西京」 と読み取れます。

道標が在った交差点の地図を確認すると,西は京都方面ですし,北方面は岐阜城方面に向かい更に揖斐町谷汲(たにぐみ)に向かっていました。

街道筋の家並
私の年齢ですと頭の中に 格子戸=城下町 と云う等式が成り立っています。
思わずシャッターを押してしまいました。


加納南広江町の道標
十字路の薬局の所にあります。 「左中山道 右ぎふ道」と刻まれています。左に曲がって南は中山道,右に曲がると岐阜に行く道です。
現在では岐阜というと広範囲な地域を想像しますが,昔は現在の岐阜駅周辺の地名は加納で,岐阜は岐阜城周辺の地名だった事が分かります。

有名な話ですが,
元々岐阜城は鎌倉時代に砦を築いたのが始まりで,天文8年(1539年)にその砦に齋藤道三が入場しその頃は「稲葉山城」と言われていました。
永禄10年(1567年) 織田信長が齋藤龍興に勝利し,城下の「井之口」という地名を「岐阜」に改めて「稲葉城」も「岐阜城」と名前を変えて天下統一の本拠地にしたのが岐阜の始まりとの事です。


加納宿本陣跡
今は本陣の建物はありません。
説明板によると文久元年(1861年)10月26日に,この地にあった本陣に皇女和宮様が宿泊しています。
その時,自分の心境を詠んだとされる歌が

  遠ざかる 都としれば旅衣
    一夜の宿も 立うかりけり


本陣跡にはこの歌の歌碑が建っています。

エピローグ


JR岐阜駅に行って今日の歩きは終わりです。歩き終わった後,車で岐阜城を訪れました。
写真やTVで何回も見ていますが,実際に見ると城は端正な品の良い印象で,濃尾平野は広大で豊かな稔りをもたらす平野と感じました。






END

2018/11/08 作成

Column


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