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電子足跡:中山道歩き旅
加納宿(岐阜市)から関ケ原宿へ
和宮様 呂久の渡し
プロローグ
このページは旧中山道を 加納宿-河渡宿-美江寺宿-(呂久の渡し)-赤坂宿-垂井宿-関ケ原宿 まで歩いたページです。この区間は慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)の関ケ原の戦いで幾多の武将・武士が関ヶ原に向かって行軍した道です。
往時の武士の雄叫びを想像しながら歩くと日本の歴史が大きく動いたエネルギーを感じます。
そして,それから261年後 京都を出立した皇女和宮様降嫁の行列は文久元年10月26日(1861年11月28日)に当時 呂久川と言われていた揖斐川を御座船で渡り,対岸の紅葉を見た皇女和宮様は
落ちて行く 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ
と和歌を詠んだ 呂久の渡し を通る道です。
ルート
区間 | ルート | 歩いた日 | GPS移動距離 |
岐阜駅‐関ヶ原駅 | 加納宿-河渡宿-美江寺宿-(呂久の渡し)-赤坂宿-垂井宿-関ケ原宿 | 2018/07/12 | 32.8km |
GPSログを GoogleEarthでツアーする方法 |
GPSログに写真がマッピングされた地図が開きます |
カシミール3D 国土地理院 (カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)
加納宿
”新修 五街道細見 岸井良衛 青蛙房” を見ると加納宿からは 「本庄,かた島,みなと町を通り がふど川 舟渡し」と記載されています。本庄は現在も地名として残っていますし,かた島は鏡島(かがしま)の事と思われます。がふど川は現在の長良川との事です。
岐阜市の市街地を西に進み住宅街を抜けると長良川に架かる河渡橋に出ます。
橋の上からは長良川越しに遠く金華山山頂の岐阜城と岐阜の市街地が一望できます。
河渡宿
長良川を渡ると河渡宿です。河渡宿は長良川の西側の船着場でした。宿場としては小規模で3丁(約330m)ほどの長さの宿場でした。
写真左は現在の河渡宿の街道筋の風景です。家並が当時を偲ばせます。
写真右は長良川の東側(加納宿側)の堤防付近の説明板に掲載されていた昭和5~6年頃の写真です。写された場所は河渡宿の対岸ですが雰囲気がそこはかとなく現在と似ています。
美江寺宿
河渡宿を過ぎて糸貫川・五六川を越えるとほぼ平坦な道の前方に伊吹山が見える様になります。五六川は美江寺宿が江戸から数えて56番目(日本橋を一つに数えた)の宿場だった事から名付けられたとの事です。
樽見鉄道の美江寺駅を右に見ながら踏切を渡ると美江寺宿になります。
美江寺宿は東に加納宿,西に垂井宿とその間25km程の大きな宿場に挟まれた小さな宿場でした。当初は間の宿でしたが寛永14年(1647年)に美江寺宿として公式に設置されたとの事です。
現在の宿場内は小さいながら所々に宿場の風情が残る良い街並みです。
旧庄屋 和田家
犀川手前の枡形にある道標
右 大垣赤坂ニ至ル
左 大垣墨俣ニ至ル
墨俣はは木下藤吉郎(豊臣秀吉)の墨俣一夜城で有名な現在の大垣市墨俣町墨俣の事と思われます。
犀川の川筋をたどると墨俣城址の所で長良川に合流しています。
呂久の渡し
大正14年に揖斐川の河川改修が行われ流路が東側に付け替えられた為,当時と現在では位置関係が変っています。
”新修 五街道細見 岸井良衛 青蛙房” を見ると [呂久]-ろく川 舟わたし-[みつや] となっており [みつや]は現在の”大垣市三津屋町”と思われるので呂久川(旧揖斐川)は現在の呂久地区の西側に流れていた事が史料からも分かります。
小簾紅園(おずこうえん) 皇女和宮様歌碑
文久元年10月26日(1861年11月28日)皇女和宮様降嫁の行列は御前8時頃赤坂宿を出立し,呂久川の渡しに差し掛かり,御座船に乗って呂久川を渡る途中,東岸の馬渕孫右衛門の庭に茂っていた紅葉した楓に目を留め
落ちて行く 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ
との歌を詠んだとの事です。
舟人達は六つの櫓を押して舟唄も賑やかに謡い呂久川を進んだとの事ですが,和宮様の心中は晴れる事は無かったのでしょう。
現在 呂久の渡し跡は皇女和宮様の遺徳を偲び小簾紅園として整備されています。小簾紅園には楓に囲まれた和宮様の和歌が刻まれた石碑が建立されています。
赤坂宿
赤坂宿は杭瀬川の水運で賑わった宿場です。現在の宿場内には当時の賑わいを感じさせる建物が残り雰囲気の良い宿場です。赤坂宿の家並
「電線が埋設されていたら,もっと雰囲気が良くなるのにな~。」 と思ってしまいます。
廃線跡
赤坂宿の西はずれ兜塚がある付近に廃線跡を見ました。なんでこんな所に廃線跡?と思って調べてみました。
赤坂宿の北北西にある金生山が石灰を産出するので,その運送の為に美濃赤坂駅はJR東海・JR貨物の東海道本線支線と西濃鉄道の市橋線(貨物線)が乗り入れる駅で,そこから更に金生山の麓に引込線が伸びていました。赤坂宿付近を歩いていた時は気が付かなかったのですが,美濃国分寺跡付近から赤坂宿方面を見たら山容が変わるくらい石灰を掘った金生山が見えました。
因みに金生山付近の地質図を見ると ”海成層 石灰岩 前期‐中期ジュラ紀付加体” と書いてあります。約1億9960万年前から1億6120万年前に形成されたサンゴ礁の頂部の名残と考えられているとの事です。
昼飯大塚古墳(ひるいおおつか)
赤坂宿を過ぎると街道筋からは見えませんが南側に大きな前方後円墳があります。
墳丘長約150m,後円部径99m,高さ13mと東海地方では最大級の古墳との事です。
かつては竹藪に覆われていたそうですが,竹を伐採して墳丘を露わにして部分的に葺石や埴輪を復元してあります。古墳というと木が生い茂り欝蒼とした森をイメージしますが,築造当初の姿を知ると意外と幾何学的で洗練された姿だったと再発見しました。
垂井宿
垂井宿は垂井川の北側に美濃国府跡があり,8世紀~10世紀の間 律令制下の美濃国の中心地だった場所です。垂井追分道標
中山道と美濃路の追分にあります。
説明板によると 「是より 右東海道大垣道 左 木曽海道たにぐみみち」 裏に 「宝永六年巳丑十月 願主奥山氏末平」と刻まれていて,中山道の中で7番目に古い道標との事です。
旅籠 亀丸屋
家屋全体の写真が無いのが残念ですが,垂井宿の桝形の所で200年ほど前から現在も営業している旅籠です。
小林家住宅主家
明治14年(1881年)に小林家が譲り受け,昭和初期まで「亀屋」の屋号で旅籠を営んでいた建物との事です。
関ケ原宿
垂井宿を越えるといよいよ関ケ原です。400年程前に往時の武将・武士がこの街道を関ヶ原に向かって行軍したと思うと何やらワクワクとします。
また,この地は壬申の乱(672年)での要衝の地 不破関 が在る所でもあります。
日本史に残る大きな出来事が同じ地で起こった事に不思議な感じを受けます。
地形図を見ると旧中山道,国道21号線,東海道本線,新幹線が垂井宿を越えた関ヶ原手前から関ケ原に向かって収斂している事が判ります。伊吹山地と鈴鹿山脈がぶつかる鞍部に交通網が集中して前方には美濃と滋賀を分ける山並みが立ち塞がっています。ここを越えれば琵琶湖,京都は目前です。
写真左:関ケ原町の道標
写真右:桃配山付近の松並木
徳川家康最初の陣地
徳川家康はこの地 桃配山(ももくばりやま)に最初の陣を構えました。
ここは壬申の乱の時,大海人皇子(後の天武天皇)が陣を構え兵士に山桃を配って士気を高め戦いに勝利したとの故事から縁起を担ぎこの地に最初に陣を構えたとの事です。
エピローグ
山之内一豊や浅野幸長の陣地跡などを見ながらJR関ケ原駅まで歩いて今日の歩きは終わりです。関ヶ原は次のページ ”関ケ原宿から鳥居本宿へ” にも記載します。
有吉佐和子の小説 ”和宮様御留” を読んだとき 関ケ原をを過ぎた頃に読んだ和歌
落ちて行く 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ
の話が書いてありました。
この和歌を知ったとき、この和歌を詠んだ呂久川(現 揖斐川)の地は必ず訪れようと思っていました。和宮様のエピソードが無ければ通り過ぎる様な小さな公園ですが、そこに歴史があり、まだ少女と言ってもよい一人の女性の哀しい思いがあったと思うだけで特別な地であると感じます。
END
2019/12/25 一部追記
2018/11/15 作成
Column
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