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電子足跡:中山道歩き旅
 関ヶ原宿から鳥居本宿へ
  関ヶ原の合戦・壬申の乱


プロローグ

中山道を関ヶ原宿から今須宿-柏原宿-醒井宿-番場宿-鳥居本宿まで歩いたページです。


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多くの方達は関ヶ原は宿場よりも ”関ヶ原の合戦” の方がはるかに印象深いと思います。
東側の垂井宿から数km進み,幅わずか500m程にせばまった山の切れ目を過ぎると関ヶ原です。
周囲を小高い山に囲まれ,東西に東山道(中山道)が貫き,北西からは北国街道が伸び,南東へは伊勢街道へと続き,街道が交差している付近を中心に平原が広がっています。戦で多くの人々が亡くなっているのに不謹慎ですが,この地形は広大なスタジアムを連想してしまいます。

寝返った小早川秀秋の陣地は石田三成陣地から遠く離れた関ヶ原南西端の松尾山の山腹です。スタジアムで言えば観客席の様な所です。素人目にも布陣を見て最初から戦う気が無いという事が感じ取れます。
これまでは偶然関ヶ原が戦場になったと漠然と考えていましたが,実際に地形を見るとこの地が必然的に戦場になったと感じます。

およそ400年前に 軍馬のいななき,雄叫び,火縄銃の轟音,断末魔の叫びがこの地に響いたとは思えない静寂がこの地を包んでいます。

そして西暦672年 ”壬申の乱” では関ヶ原の南西の不破付近で大海人皇子軍(天武天皇)と大友皇子軍の戦がありました。日本史上の大きな戦が同じ場所で有った事が不思議な感じがします。

街道沿いは建物こそ建て替わっていますが,旧街道の雰囲気が残り,古の歴史に思いを馳せながら歩くには絶好な良い道です。

ルート
区間 ルート 歩いた日 GPS移動距離
JR関ヶ原駅-
近江鉄道鳥居本駅
関ヶ原宿-今須宿-柏原宿-醒井宿-番場宿-(摺針峠)-鳥居本宿 2018/07/13 22.9km
  両軍陣地 武将陣地のgpsデータです。
GPSログを
GoogleEarthでツアーする方法
  GPSログに写真がマッピングされた地図が開きます  Google Earthとkml形式のGPSデータが紐付いていればGoogle Earthに表示されます。

関ケ原古戦場 仮想空撮映像

 ↑ 再生ボタン  をクリックすると街道筋を空撮した様な動画がみれます。
        *上のの GPS Log をGoogleEarthProでツアーして動画化した映像です。


カシミール3D 国土地理院
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)


関ヶ原古戦場

歴史的な事を記載するには知識が無さすぎるので,歴史は他のホームページを見て頂く事にして,ここでは関ヶ原古戦場の史跡写真を掲載します。
尚,この項は歩き終わってから車で古戦場に行って撮影した写真を使っています。

西軍東軍布陣図
開戦時頃の布陣図です。午前8時頃 先鋒を任されていた福島正則軍を抜け駆けした松平忠吉軍と井伊直政軍が宇喜多秀家軍に発砲して戦の火蓋が切られました。

注:開戦地の小西行長陣地にあった説明板の図を使用しています。

石田三成陣地



石田三成陣地から東方面を望む。 
右下の木立に隠れている辺りが開戦地。 中央左寄りの木立の場所が決戦地。


写真左:開戦地  小西行長陣地
写真右:決戦地


写真左:福島正則陣地
写真右:徳川家康最初の陣地(桃配山)


関ヶ原宿


関ヶ原の宿場内の建物は立て替わり,あまり宿場の雰囲気はありません。その中でも脇本陣は門が残っており当時の姿を微かに偲べます。
関ヶ原の合戦は街道の北側で,街道筋からは主戦場を望むことは出来ないですが,西首塚や福島正則や藤堂高虎・京極高知の陣地跡は街道沿いにあります。



西首塚
関ヶ原駅前から600m程,京都に向かって右側にあります。

説明板によると,戦いの翌日,徳川家康は関ヶ原一帯を領有していた竹中重門に,戦いで破壊された神社の修復や戦死者の埋葬を命じ,この西首塚と関ヶ原駅付近の東首塚に戦死者を埋葬したとの事です。


不破の関


不破の関は関ヶ原の南西の端,藤古川の東岸に壬申の乱(672年)に勝利した大海人皇子(天武天皇)が後年築いた関所です。
不破の関の全貌はいまだ不明との事ですが,相当大きな規模と想像され,長大な土塁や城門・庁舎を備え,城主・兵士が常駐していたとの事です。関所と言うより城郭と言った方がイメージに合います。

壬申の乱(672年)は天智天皇の後継を巡って起きた大海人皇子軍(天武天皇)と大友皇子軍の内乱です。
歴史と古文の授業で習った程度の知識しかありませんが,実際にその地を歩くとピンボケのモノクロ写真が,急に彩鮮やかなリアルな光景として甦る様な感じを受けます。

因みに,関東・関西 という地域の区分けがありますが, ”関” の東と西という事ですが 時代によって重要な関所の場所が異なる為,一概にここからが関西・関東とは分けられないですが古代は不破の関が東と西の境目だったとの事です。
とすると ”関ヶ原” という地名も関所がある場所の原っぱという事になるのかと推測します。

写真左:不破関から滋賀方面を望む 中央に見える橋が藤古川に架かる橋で中山道
写真右:藤古川 下流方面を望む


黒血川
山中宿(間宿)の説明板によると
黒血川が流れる山中地区では大友皇子軍が大海人皇子軍の側面を衝く急襲戦法に出たが,大海人皇子軍はこれを撃退し,近江へと進軍して行ったとの事です。

この激戦で,両軍の兵士の流血が川底の岩石を黒く染めたことから,黒血川と呼ばれるようになったとの事です。

今見ると何てことの無い小川ですが,歴史を知ると目で見えている風景以外に頭の中に別な光景が浮かびます。

壬申の乱
知られている様に 壬申の乱 は天智天皇(中大兄皇子)の息子である大友皇子と, 天智天皇の弟である大海人皇子(後の天武天皇) との間,言わば甥と叔父の政権抗争という構図ですが,白村江の敗戦以後,唐・新羅軍の攻撃を恐れ水城など国防施設の建設や百済遺民の東国移住政策などで豪族や民衆の負担が嵩み政権への反感が高まっていた事などが背景にあるとされています。そこに額田王をめぐる天智天皇と大海人皇子の三角関係が絡んでいるとも言われています。
学校で習った授業内容は断片的な知識として記憶には残っていましたが,この歳になって改めて知ると,為政者の失策や,一人の女性を巡る恋愛感情,兄弟の確執など幾多の人間らしい感情が見え隠れして興味深い歴史のひとコマだと思いました。

 額田王
  あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る

 大海人皇子(天武天皇
  紫草の にほへる妹を  憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも

 天智天皇(中大兄皇子)
  香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相あらそひき
  神世より かくにあるらし 古昔も 然にあれこそ
  うつせみも 嬬を あらそふらしき


山中宿(間宿)


不破関跡を過ぎると間の宿だった山中宿に入ります。
ここには中山道が成立する以前から宿駅として栄えていたとの事です。宿場の中ほどに 鶯の滝 といわれる落差5m程の滝があります。歩いたのは7月でしたが水量が豊富で手前から滝の轟きが聞こえて涼しさを誘ってくれました。

また山中宿の西はずれには源義経の母 常盤御前 のお墓があります。

写真左:山中宿全景
写真右:鶯の滝


常盤御前の墓
五街道細見(岸井良衛 青蛙房)の山中の部分には ”常盤御前の塚” と書かれています。
また,山中を ”ときわ宿とも云う。” と書かれており当時から常盤御前の墓がある事で有名だった事がうかがえます。

説明板によると
鞍馬山を出奔して平泉に向かった源義経の行方を案じ,乳母の千種と後を追ってきた常盤御前はこの地で土賊に襲われ亡くなります。哀れに思った山中の里人が,ここに葬ったとの事です。

旧街道を歩いていると,時々,源義経に関する史跡に出会いますが,常盤御前の墓がここに在るとは思いませんでした。

今須宿

たびたび五街道細見で恐縮ですが,今須宿の記述を見ると 「宿あしく山坂谷道なり」 と書かれています。
現代では道も整備され山坂谷道という事はなく歩き易い道でした。

一里塚
今須宿の入口には宿場に入る門の様な感じで一里塚が残っています。


車返しの坂
説明板によると
南北朝の頃,不破関屋が荒れて,板庇から漏れる月の光が面白いと聞き,都から牛車に乗ってここまでやって来たけれど,この坂を登る途中,屋根を直したと聞いてこの坂で引き返したという伝説から車返しの坂と言われるようになったとの事です。


寝物語の里 美濃・近江 国境

意外ですがこの小さな小川が美濃と近江の国境でした。現在でも岐阜県と滋賀県の県境です。

説明板によると
この地は ”寝物語の里” と言われ,この小川を挟んで美濃と近江の番所や旅籠が並んでいた為,壁越しに「寝ながら他国の人と話し合えた。」ので寝物語の里と名付けられたとも,源義経を追って来た常盤御前が 夜更けに隣の宿の話声から家来の江田行義と気付き奇遇を喜んだ所とも伝えられているとの事です。
それにしても昔の人達のネーミングのセンスの良さには驚かされます。



柏原宿

滋賀県に入りました。
柏原宿は古く東山道から続く大きな宿場です。現在の家並も趣があります。
越えて来た県境付近から柏原宿の入口付近までは東山道の上に中山道が敷かれ,柏原宿付近は新たに中山道として敷設されたとの事です。それまでの北西に延びていた東山道はそれに伴い廃道となったとの事です。

伊吹山で産出するヨモギを原料にした ”もぐさ” が有名で 歩いたときも ”やいとの里” と書かれたのぼりがいっぱい掲げられていました。

写真左:廃道になった東山道入口
写真右:柏原宿東見付付近


柏原宿本陣跡
文字がかすれていますが
柏原本陣には和宮の夫君 徳川家茂 が慶応元年閏5月14日(1865年7月6日) 第二次長州征伐の途上宿泊したと書かれています。

去る事 文久元年10月24日(1861年11月26日) には京を出立して4日目。
徳川家茂に嫁ぐ皇女和宮が同じ本陣に宿泊して江戸に向かっています。

図らずも時を異にして同じ本陣に宿泊したことになります。家茂は第二次長州征伐のさなか慶応2年7月20日に大阪城で死去しているので家茂はまさに死出の旅だった事になります。

写真左:柏原銀行跡
写真右:柏原宿の家並



柏原宿から醒井宿への道


この区間は松並木や未舗装の道があって旧中山道の雰囲気が良く残っています。
歩いていて気持ちが良い道です。


距離としては500mほどですが,林道の様な未舗装の道です。

入口に獣害防止の扉が設置してありますが,そばに居た地元の方に確認したら扉を閉めてくれれば歩いても良いとの事でした。

醒井宿


醒井は古来より名水の地として有名でした。宿場の街道脇に清流が流れ清々しい宿場です。







問屋場
街道を通行する人々に人足や馬の提供,荷物の引継ぎなどを行っていた所です。
完全な形で残っている問屋場は全国的にも珍しいとの事です。


日本武尊像
この地は日本武尊の伝説が残っています。

日本武尊が伊吹山の神と戦ったとき,伊吹山の神は大氷雨を降らせ大きな痛手を負わせ,やがて病にかかって山を下りた日本武尊は,伊吹山から命からがら逃げ返り,この地に来て清水を飲んだところ高熱がさめたと云う伝説です。醒井という地名も高熱がさめた事に由来しているとの事です。

番場宿

名神高速と北陸自動車道の米原ジャンクションを越えると直ぐに番場宿です。
そこを越えると琵琶湖が望めると云う摺針峠に続く山間の谷筋の宿場です。

この宿場は長谷川伸の戯曲 「瞼の母」の ”番場の忠太郎” の故郷という設定との事です。私の年齢でも,さすがに番場の忠太郎を語るには無理があるのでスルーします。

番場宿の家並


摺針峠

摺針峠に向かう中山道は名神高速と並行して続いています。
現代ではコスト面から少しでも高低差の少ない地形を選んでルートを決めると思いますが,昔の人達は測量した訳でなくても,山を越えるときには少しでも高低差の小さい峠を選んだのかと思います。



旧摺針村の家並
山間の静かな家並です。
かつて旧摺針村には望湖堂が在り琵琶湖を望むことが出来たそうですが,街道筋からは木立が邪魔をして琵琶湖を望むことは出来ませんでした。

旧摺針村を越えると,新道をそれて未舗装の道になります。


中山道・北国街道追分
峠を下ると国道8号線と出会います。ここは北国街道との追分です。
北に向かえば琵琶湖の東岸を通り栃の木峠を越えて福井さらに富山,新潟へと続いています。

鳥居本宿

追分の国道8号線脇には ”摺針峠望湖堂”と彫られた大きな石柱が建っています。

街道沿いの ”おいでやす彦根市へ” のモニュメントを過ぎると鳥居本宿です。
このモニュメントが,かつては近江商人が行きかった街道だったと思いおこさせてくれます。



エピローグ

鳥居本宿は中山道と北陸街道の追分です。

新潟県長岡市から北陸街道(北国街道)を歩いて2017年4月29日に鳥居本宿まで来ました。
すこし間をおいて鳥居本宿から中山道を歩いて2017年5月14日京都三条大橋まで歩きました。
日本橋から歩いて鳥居本宿まで来たので中山道は一応完歩した事になります。
NEXTボタンを押して引き続き次ページをご覧いただければ幸いです。

尚、鳥居本宿は次のページ ”中山道歩き旅:鳥居本宿から武佐宿へ” と ”北国街道(北陸街道)歩き旅:木之本宿から鳥居本宿” にも記載があります。


END

2020/08/29  関ケ原の仮想空撮映像を追加
2018/11/22 作成

Column


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