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電子足跡:奥州街道歩き旅
 有壁宿から平泉を通り前沢宿へ

プロローグ

奥州街道を有壁宿から一関宿-山目宿‐平泉宿 を通り前沢宿まで歩いたページです。

この区間は
古代,坂上田村麻呂らによる朝廷軍の侵略に対する阿弖流為(あてるい)と母礼(もれ)を中心とした当時蝦夷と言われた先住民の戦い。
中世,鎌倉幕府による義経主従追討に名を借りた奥州藤原氏の制圧。
近世,街道整備により参勤交代をはじめとする人物金情報の往来。
など歴史のなかの出来事を感じる事ができる区間です。

有壁宿は奥州街道で唯一残っていると言われている有壁本陣の建物があります。
また有壁本陣を越えて直ぐに当時の面影が残る未舗装の旧街道が2.5kmほど整備されて残っています。

一関宿は松尾芭蕉がおくのほそ道の旅で奥州を訪れたときに宿泊した奥州街道の中では最北の宿泊地です。
芭蕉と曽良は一関に二泊して日帰りで平泉を訪れています。

言うまでもありませんが,平泉は奥州藤原氏が栄華を極めた地であると同時に源義経主従の最期の地です。奥州街道沿いにも無量光院跡や弁慶の墓と伝えられている石塔を見る事ができます。

平泉を越えると 衣川 があります。
衣川は延暦八年(789年)に東北支配に乗り出した朝廷の数万人と言われる軍隊と当時蝦夷と言われていた阿弖流為(あてるい)と母礼(もれ)を中心とする先住民の攻防が繰り広げられた軍事境界線でした。

区間 通過する宿場  歩いた日 GPS移動距離
有壁駅-前沢駅 有壁宿-一関宿‐平泉宿‐山目宿‐前沢宿 2018年10月17日 25.5km

GPSログを
GoogleEarthでツアーする方法



↑地理院地図(電子国土Web)に詳細ルート地図とポイントの写真が開きます。



本地図はカシミール3DによりGPSデータを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。

有壁宿

有壁宿は奥州街道で唯一と言われている本陣が現存しています。
周りの風景と相まって街道沿いのその一角は時間が止まり,重厚な雰囲気が漂っています。
仙台藩以北の松前氏,津軽氏,八戸南部市,盛岡南部氏の諸藩が参勤交代で宿泊したり休んだりした本陣です。

宮城県のホームページによると
「奥州街道の旧本陣で、元の建物は延享元年(1744)に焼失し、現存するものはその後の建築である。
道路に面して二階建の長屋、わきに御成門がある。本屋は約340平方メートル、居宅部と本陣・宿泊部から成る。
御成門から、入母屋造で式台の付く堂々たる玄関に導かれる。大名用の座敷は奥から上段、次の間、さらに鉤の手に中座敷、玄関と続く。居宅部は座敷・寝間・広い茶の間・大台所で構成される広間型3間取りからなっている。」 との事です。

残念な事に 「邸内改装中につき当分の間一般公開は休止します。当主」 の張り紙があり内部は見学出来ませんでした。(2018年10月17日時点)





有間川対岸から撮影した本陣敷地内の建物


肘曲がり坂 未舗装の道

本陣から500~600m進むと舗装道路に接続する未舗装の旧街道が現れます。
肘曲がり坂の登口です。大きな案内板が有りますので見落とす事はないと思います。
ここからJR東北本線が見える牧田地区付近まで未舗装の道が続きます。肘曲がり坂の登口から岩手県との県境付近までは地理院地図に道は記載されていません。

この道の下を新幹線のトンネルが通っているとは思えない静かな森のなかの道です。




地元有志団体 旧奥州街道有壁宿 助郷の会
これまで地理院地図にも掲載されていない様な未舗装の道をなに苦労するでもなく歩いてきました。
使われていない道はややもすれば草が生い茂りいずれ木が生えて歩けない道になってしまいます。
私はこれまでこの道は各自治体が整備しているのかなくらいにしか考えていませんでしたが,ここ有壁宿周辺は ”旧奥州街道有壁宿 助郷の会” の有志の方達が整備しているという事を知りました。
誠にありがたい事です。深く感謝します。


注:代表者氏名および電話番号は本ホームページの筆者が消して掲載しました。

一関宿

有壁宿から気持ちの良い山道を進んで宮城県と岩手県の県境を越えて進んで来ると国道342号線手前で舗装された道に出会います。道の出合いの旧街道入口にロープが張ってありました。車は通れないという事なのか,歩行も禁止という事なのかは判然としませんでした。誰が設置したのかも書いてなかったので確認する事も出来ませんでした。

国道342号線に合流して北上して佐野地区付近で踏切を渡り東北本線の西側を進みます。本来の旧街道は東北本線の西側に続いていたらしいのですが八幡地区付近で旧街道の道筋は消滅しています。地元の方にも確認しましたが八幡地区から先には道は無いとの事でした。 やむなく国道342号線を歩きます。

奥州上街道追分
一関の市街地に入り台町付近で奥州上街道との追分と合流します。
松尾芭蕉はこの追分の坂道を上り奥州上街道を南下して岩出山に向かっています。
奥州上街道は 電子足跡:おくのほそ道歩き旅 一関から岩出山 (奥州上街道) に詳しいので合わせてご覧いただけると嬉しいです。

一関市街の風景


芭蕉二夜庵跡
元禄2年5月12日(1689年6月28日)に現在の磐井橋のたもと付近にあった金森家に宿泊して翌日 平泉を訪ねて日帰りして再度ここに宿泊しています。

平泉

以前 ”おくのほそ道” をたどった時 一関から平泉への奥州街道を歩いています。ですのでこの区間を歩くのは2度目です。
平泉に関しては 電子足跡:おくのほそ道歩き旅 一関(岩手)から平泉へ(奥州街道) に平泉周辺の風景も含めて掲載しています。合わせてご覧ください。

無量光院跡
かつては宇治平等院鳳凰堂を模した寺院が建ち,後ろの金鶏山に沈む夕日と共に極楽浄土をイメージして建立されました。以前歩いたときは築山と草地が残るだけでしたが今回は池が復元されていました。
いまでも発掘調査が進められていました。


高舘義経堂入口付近で出会った木遣り唄を謡いに結婚式場に向かう人達。
一瞬,江戸時代にタイムスリップした様な光景でした。


写真左:伝武蔵坊弁慶の墓 中尊寺の参道である月見坂の登口にあります。
写真右:束稲山(たばしねやま)
 奥州藤原四代,義経主従,先祖供養の為 京都東山になぞらえた束稲山に大文字送り火がかがります。


衣川
この川がかつての朝廷軍と当時蝦夷と言われていた先住民の土地を分ける軍事境界線でした。
延暦八年(789年)この地に進行した数万人と言われる朝廷軍は,当時蝦夷と言われていた先住民は阿弖流為(あてるい)と母礼(もれ)を中心とする蝦夷軍と対峙。衣川を挟んで攻防が繰り返されました。
今はただ静かに流れているだけです。


前沢宿

前沢宿への道は途中,高速道路と平泉前沢ICで消滅しているので大きく迂回する事になりました。

佐藤家旅館
新修 五街道細見 (岸井良衛 青蛙房)の前沢の部分を見ると 「宿 佐藤屋安吉 現・米沢」 と書かれています。

この佐藤家旅館の看板には創業元禄・明治天皇行在処跡と書かれています。おそらく五街道細見に載っている「宿 佐藤屋安吉」がそのまま現在まで旅館業を続けているのだと思います。

前沢宿は次のページにも掲載します。

エピローグ

地理院地図は凄い!
上記に平泉前沢IC付近は道筋が消滅していると書きました。
左側の地図を見ると推測したルートのそばに黄色の矢印で示した細い道があり途中で途切れていました。
もしかしたらこの道が旧街道の痕跡で実は先が続いていて前沢まで行けるのではないかと思いました。

実際に歩いてみたら,地図と全く同じで行き止まりでした。しかたなく引き返して迂回しました。
それにしても地理院地図の正確さには驚嘆させられました。地理院地図は凄い!


本地図はカシミール3DによりGPSデータを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。
注:表示はありませんでしたが,もしかしたらこの道は私有地の私道かもしれません。もし私有地でしたら許可なく侵入して申し訳ありませんでした。



END

2019年02月08日作成 

Column


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