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電子足跡:奥州街道歩き旅
 金ケ崎宿から花巻宿へ
  宮沢賢治 羅須地人協会の建物

プロローグ

奥州街道を金ヶ崎宿-黒沢尻宿(間宿)-花巻宿まで歩いたページです。

この道は黒沢尻宿(北上市)から花巻宿に行く間に綺麗な形で対で残る 二子一里塚 と 成田一里塚 があります。これまでに現存する一里塚は幾つか見ましたがこの二つの一里塚は非常に保存状態が良いです。

花巻は宮沢賢治の出身地です。花巻農学校(現花巻農業高等学校)を退職した後に活動拠点とした羅須地人協会の跡地や実際に宮沢賢治が生活した建物がかつて教鞭をとった花巻農業高等学校の敷地内に復元されて残っています。
また羅須地人協会の跡地のそばに江戸末期の同心屋敷が3棟移築されて保存されています。大きな家ではありませんが囲炉裏のある建物は往時の生活を彷彿とさせてくれます。


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区間 通過する宿場  歩いた日 GPS移動距離
金ヶ崎駅-花巻駅 金ヶ崎宿-黒沢尻宿(間宿)-花巻宿 2018年10月20日 28.1km

                 
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  ↑地理院地図(電子国土Web)に詳細ルート地図とポイントの写真が開きます。

本地図はカシミール3DによりGPSデータを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。

金ヶ崎宿

金ケ崎宿はあまり大きくはないので直ぐに町外れに出ます。
季節は秋,朝の冷え込みでうっすらと朝霧がかかり水墨画の様な風景が広がっていました。



社有地の為 通行侵入禁止です
六原駅を越えて更に進むと雰囲気の良い未舗装の道が続いています。

地理院地図でも道は不鮮明なのですが,途中から製紙会社の社有地になる為通行は出来ません。
引き返してJR東北本線の踏切を渡り国道4号線に出て迂回しました。

相去・鬼柳

ここは仙台藩と南部藩の藩境の場所です。境塚を挟んで各藩の番所と関所が置かれていました。
この場所だけみると なんか ”しょぼい” と思いますが, 奥州街道 歴史探訪・全宿場ガイド (無明舎出版)によると西は奥羽山脈の駒ケ岳山頂から西は唐丹湾(釜石)まで130kmの間に大小460基の塚を作った。との事です。

相去は宿場ではないのですが番所が置かれていたので足軽が居住する町で,時代劇の捕り物に出て来るさしまたなどの捕手道具の他に鉄砲や火薬などの武器庫も有ったとの事です。

伊達藩領 相去御番所跡


伊達領・南部領境塚

五街道細見(岸井良衛 青蛙房)には

”三日尻
御番所 此処仙台領分入口なり。出入とも切手改る。
相去鬼柳
御番所 此処盛岡領分入口切手取る。”

と書かれています。

南部領鬼柳関所跡


黒沢尻宿(間宿)

和賀川を越えると黒沢尻宿です。
黒沢尻と聞くとラグビーの黒沢尻工業高等学校が有名です。 黒沢尻は現在の北上市と言った方が伝わるかもしれません。北上と聞けば高度成長期に青春期を過ごした方は ”北上夜曲” の歌詞とメロディーが浮かぶかもしれません。

和賀川に架かる九年橋から北上市街を望む
宿場内は古い建物はありませんが,東北地方独特な澄んだ空気と高い空が印象的な街並みです。


二子一里塚
記憶が定かではないのですが日本橋から日光街道,奥州街道と歩いて来て塚が曲りなりにも当時と近い形で残っていたのは,栃木の小金井一里塚(日本橋から22里 約86.4km)と泉田一里塚(日本橋から45里 約176.7km 片側のみ現存)だけだったように思います。

二子一里塚は日本橋から128里 約502.7kmの地点にあります。西側の塚の周りに杉が生繁っていますが確かに綺麗な形で塚が対で残っています。


天照御祖神社(通称 伊勢神社)
奥州街道沿いに突然立派な参道が見えたので意外な感じがしました。
それもそのはずで,かつては南部藩神明社の一ノ宮で,明治になって和賀郡惣社だったそうです。
名前の通り祭神は天照大神です。この神社は坂上田村麻呂の東征と関係しているのかと思いました。
由緒を調べたら,さにあらず寛文5年(1665年)この地方の新田開発に着手したとき伊勢大神宮に祈誓し,延寶6年(1678年)に新田開発が成功したことで伊勢神宮の分神を勧請して,延寶7年(1679年)に江釣子村全明寺境内に御社殿を建立した後,元禄2年(1689年)に現在地に新社殿を造営遷宮して現在に至っているそうです。(神社史研究会ホームページより抜粋)



成田一里塚
さらに一里進むと成田一里塚があります。こちらは129里目(506.6km)の一里塚という事になります。
こちらは更に綺麗な状態で塚の上には榎らしき樹木が植えられています。
生い茂った樹木の木陰を見ていたら,この木陰で休んで汗を拭いているちょんまげに脚絆・手甲姿の往時の人達が見えた様な気がしました。


花巻宿

同心家屋
花巻市街の手前 桜町に移築されて保存されています。本来はここから北に500m程の奥州街道沿いにあったとの事です。江戸時代末期の建築とされています。
囲炉裏のある居間が煮炊きをしたり,食事をしたり,語りあったりと・・・。当時の生活が想像できます。

この同心屋敷は観光客が多くなる季節などの期間限定ですがボランティアの係の方が居て公開されています。
この日は2名のボランティアの方達がいて,外から見学していたら座敷に上がってお茶を飲んで行きなさいと声をかけて頂いたので図々しく何杯もお茶を頂いて,歩いて奥州街道を旅している事や,見て来た一里塚の話をさせて頂きました。有り難うございました。





花巻市街
どことなくオシャレな感じがする街並みです。この富沢町の途中に宮沢賢治生家と書かれた家が建っていました。現在は親族が住んでいるとの事で個人の住居ですので見学は出来ません。

写真左:富沢町付近の街並み   写真右:宮沢賢治生家


宮沢賢治 羅須地人協会

この地で生まれこの地で育った宮沢賢治は大正15年(1926年)3月に花巻農学校(現花巻農業高等学校)を退職。現在の花巻桜町にあった宮沢家の別邸を改造して羅須地人協会の活動拠点とするとともに自給自足の農業者としての住まいとした建物です。病に倒れる昭和3年(1928年)8月までの間この地で活動しました。
余談ですが,この項を書く為に調べたらそこは上記の同心屋敷から数100m東の場所でした。訪れればよかったです。

説明板によると
昭和8年に宮沢賢治が亡くなってから,この家は人に譲られて移築され所在が分からなくなっていました。,教鞭をとった花巻農業高等学校が現在の地に移転する事になったのですが,新しい学校の敷地になる場所で見つかったとの事です。同窓会が中心になり学校に隣接する形で整備したとの事です。
黒板のチョーク文字 「下ノ畑ニ居リマス 賢治」 の文字は今も花巻農業高等学校の生徒が書き続けているそうです。



この家で農業者として自給自足の生活をしながら,近隣の農民に稲作や肥料の指導をするとともに講義やレコードコンサート,楽器演奏などを行いました。


この復元されている場所は奥州街道沿い花巻空港の北側から北上川に向かって曲がり500m程の場所です。

エピローグ

中学生になったときに,教科書に宮沢賢治の よだかの星 が掲載されていました。授業で宮沢賢治の本を読んで感想文を書くという宿題があったのだと思います。仕方なく 銀河鉄道の夜 を読みました。細かな事は忘れていますが,文字を読んでいるのに,深い藍色の夜空に星が瞬く様なイメージが広がっていく印象は今でも脳裏に残っています。 


END

2019年02月20日作成 

Column


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