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電子足跡:奥州街道歩き旅
 花巻宿から盛岡城下へ

プロローグ

奥州街道を花巻宿から石鳥谷宿-日詰郡山宿-盛岡城下まで歩いたページです。

この区間は北上川などが作った広い氾濫平野を歩きます。広く高い空のもと,爽やかな風を感じる事ができる街道です。
その広い氾濫平野の中,花巻を越えてから日詰付近までほぼ直線の街道筋が16kmほど続いています。これは現代になって道路整備で直線になったのではなく,江戸時代中期に盛岡藩が開削した奥州街道です。


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盛岡市に近ずいてくると前方に岩手山が見えるようになります。岩手山は2038mの火山ですが茶褐色の山肌と相まってその存在感はひと際です。盛岡市内は活気がある都市です。市内に北上川が流れて雰囲気も良く,なんと言っても岩手銀行赤レンガ館と盛岡城址の石垣は東北地方の古き良き時代を感じさせてくれます。

区間 通過する宿場  歩いた日 GPS移動距離
花巻駅-古館駅 花巻宿-石鳥谷宿-日詰郡山宿 2018年10月21日 25.1km
古館駅-盛岡駅 盛岡宿 2018年10月22日 18.3km


         
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ツアーする方法


↑地理院地図(電子国土Web)に詳細ルート地図とポイントの写真が開きます。

本地図はカシミール3DによりGPSデータを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。

花巻宿

花巻は花巻城を中心にした城下町です。城跡の周辺は石垣や時鐘など当時を偲ばせるものが残っていますが,市街地は枡形と思われるクランク状の道筋などは当時のままですが家並は当時の面影を感じるものはあまりありませんでした。

写真左:早坂御門跡    写真右:城下町発祥の地


空が広く高いです
私は雪国の出身ですが,東北地方は私が生まれ育った地方と同じく山間の寒く雪深い所と思っていました。
今回 花巻から盛岡まで歩いたこの区間は北上川などが作った氾濫平野が広がり,青く高い空のもとを歩きました。山間の雪深いという東北地方のイメージは完全に覆されました。

ほぼ直線の街道が続きます
花巻市街を越えた付近から日詰駅付近まではほぼ直線の道が16km程続いています。これまで街道歩きをしていてこんなに長い直線の道は初めてです。
この道は江戸時代中期に盛岡藩により新しく開削された新街道で,それ以前は東北本線の西側に街道がありました。

写真左:花巻空港付近から北方向を望む   写真右:日詰駅付近から花巻方向を望む


石鳥谷宿

ほぼ一直線の街道筋の途中の宿場です。昔は松並木が整備され景観もよく歩き易い道だったとの事ですが,今松は殆ど残っていません。

江曽一里塚

東側のみ残っています。小振りですが良い形で残っています。
一般的に一里塚に植えられる木は榎など広葉樹が多いですが,この一里塚は針葉樹が植えられている様です。私には名称までは分かりません。

餓死供養碑
江曽一里塚の隣にあります。
冷害や日照りによる凶作による餓死者の供養の為天保八年(1837年)に建立されたそうです。

若い頃 真夏に東北に旅行した事があります。真夏にも関わらず冷たい風で凍えてTシャツ一枚では過ごせなかった事がありました。これが ”やませ=偏東風(山背)” というものなのかと知りました。
農作技術が現代ほど発達していなかった当時であれば,凶作はかなり深刻な状況になり幾多の餓死者が出た事は想像に難くないです。

岩手山
石鳥谷付近まで来ると前方に岩手山が大きく見える様になります。これから先,前方に岩手山を見ながら歩きます。

出張で何度か盛岡に来た事があるので,岩手山を見ると盛岡に来たと感じます。

日詰郡山宿

北上川の水運で栄えた宿場であると同時に現在は城山公園として整備されている高水寺城(郡山城とも)の城下でもありました。高水寺城は盛岡城築城中の一時期に南部氏の居城とされた事もあり一時期は盛岡藩の本拠地だったとの事です。

志賀理和気神社
日詰郡山宿の中心部に入る手前にあります。
由緒のある神社なのでしょう,地理院地図には神社記号ではなく名称で記載されています。

坂上田村麻呂の東征のときに武神を祀ったのが始まりとの事ですが,神社名はマタギの言葉ともアイヌの言葉とも諸説あるとの事です。

平井邸
街道筋に突然現れる立派な建物です。大正10年に3年の歳月をかけて新築された建物で,豪商の平六商店が盛岡出身の内閣総理大臣原敬を接待する為に新築したとの事です。


走湯神社/高水寺 
町外れの城山の麓に二つ並んで神社があります。
写真左側が走湯神社 右側が高水寺です。 と書きましたが ”高水寺”って 神社ではないの?お寺なの?
鳥居に「当国七番観世音 高水寺本宮」 とあるのでお寺なのかなと思います。明治の廃仏毀釈までは神仏習合の場合が多いので明治以前の宗教形態をそのまま残しているのでしょう。

説明板には鎌倉時代の吾妻鏡の一節が書いてあり,(藤原泰衡を追って)源頼朝はここまで進軍しここに逗留。そばの社に大きな槻の木(槻は欅の古名)があり湯走権現に奉納すると言って上矢の鏑矢ふたつを射立てたとの事です。走湯神社に見える古木が「矢立の槻」と言われているとの事です。

  写真左:走湯神社  写真右:高水寺


徳丹城跡
弘仁四年(813年)頃征夷大将軍 文屋綿麻呂が水害に逢った志波城に代わって築造されたものです。古代大和朝廷が東北地方支配の為に築いた城柵としては最後のものです。
城郭は350m四方で数日前に歩いた胆沢城は一辺670mなので面積で言えば1/4程度と小規模でした。
説明板には発掘調査の結果,築造から数十年後の9世紀中ごろには廃絶したとみられるとの事です。



盛岡城下


おしゃれなな石像
パリかロンドンの街路で抱擁する恋人達の様です。盛岡市に入って国道4号線沿いの清水石材店に展示されていました。具象的でもなく抽象的でもないロマンチックな造形で見入ってしまいました。


”木炭” と書かれた古い看板を掲げた商店
古くから木炭を商ってきたお店なのでしょう,ショーウインドーに薪ストーブが飾ってあるので現在も暖を取る商品を扱うお店なのだと思います。

写真左側の白い建物は消防署です。偶然にしても出来過ぎた配置です。

明治橋から見える盛岡市街


岩手銀行赤レンガ館
明治44年(1911年)に盛岡銀行の本店として完成。設計は東京駅の設計で有名な辰野金吾です。現在は銀行として営業はされておらず内部は一般公開されています。


盛岡城址
北上川と中津川が合流する小高い丘陵に築城されました。本丸や櫓などは復元されておらず石垣のみが残っています。むしろそれが過ぎ去った時代の二度と帰ってこない時間を感じさせてくれます。




石川啄木歌碑
当時盛岡中学生だった石川啄木は学校を抜け出し不来方城(こずかたじょう)とも言われた盛岡城跡に来ては文学書・哲学書を読み昼寝をしたところでもあります。

 不来方の お城の草に 寝ころびて 空に吸はれし 十五の心  
   石川啄木(一握の砂)

城跡からは啄木も見たであろう岩手山が望まれます。


エピローグ

盛岡までくると木々の装いが秋色になり東北の秋が始まっていました。真っ赤に紅葉した木々も綺麗ですが,紅葉し始めのまだ緑が残るグラデーションの紅葉は舞台のオープニングの様でこれから始まる燃える様な紅葉の季節の期待感が高まります。

盛岡城址から盛岡駅まで行って駅前で名物の冷麺を頂きました。名物に旨い物なしと言われますが盛岡の冷麺は例外で歯触りの良い腰がある冷たい麺とキムチの辛さは疲れて火照った体にはとても美味しく感じられました。



Shopping

ぴょんぴょん舎 盛岡冷麺
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END

2019年02月26日作成 

Column


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