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電子足跡:奥州街道歩き旅
 盛岡城下から小繋駅へ

プロローグ


奥州街道を 盛岡城下-渋民宿-沼宮内宿-小繋駅 まで歩いたページです。

盛岡城下から岩手川口付近までどっしりとした岩手山が裾野を伸ばした綺麗な形でで望めますし,東側には流麗な山容の姫神山が望める道です。


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渋民は早逝した歌人石川啄木の故郷です。かつて学び一時期代用教員をしていた尋常小学校と代用教員時代に間借りをしていた住宅が石川啄木記念館に当時のまま移築されています。

沼宮内宿を過ぎると奥州街道はいよいよ ”みちのおく” の雰囲気が増してきます。
御堂地区から国道4号線を離れて旧奥州街道を進むと御堂観音の境内に北上川の源流である ”弓弭の泉(ゆはずのいずみ)” が神秘的な感じで湧いています。

その後,街道は尾根伝いに進み旧中山地区の手前で 奥州街道最高地点 標高484mを通過します。
この付近の街道は民家もまばらで山また山という表現が良く似合います。

この道は旧街道の雰囲気が良い事は勿論ですが,火行で出会った二人の老婆と小繋駅でお話を聞いた映画「待合室」のモデルになった”命のノート”に返事を書き続けている女性との出合いが印象に残る道でした。

区間 通過する宿場 等  歩いた日 GPS移動距離
盛岡駅-岩手川口駅 盛岡駅-岩洞第二発電所-渋民宿-岩手川口駅 2018年10月24日 35.5km
岩手川口駅-小繋駅 岩手川口駅-沼宮内宿-北上川源流-奥州街道最高地点-火行-小繋駅 2018年10月25日 27.8km



         
  GPSログをGoogleEarthで
ツアーする方法


↑地理院地図(電子国土Web)に詳細ルート地図とポイントの写真が開きます。

本地図はカシミール3DによりGPSデータを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。

盛岡城下

今日は生憎の雨です。
盛岡駅から再び盛岡城址を通り先日の終点岩手銀行赤レンガ館に向かいます。赤レンガ館を左に曲がりまた北に進みます。
紺屋町・鍛冶町・紙町など城下町らしい町名が気分を盛り上げます。この付近は盛岡宿の中心地で豪商が店を構えていた場所です。写真の茣蓙九(ござく)森九商店は灯明の芯や藁製品を扱った商店だったそうです。森九商店を正面から写した写真では分かり難いのですが商店の隣にも同様な造りの家屋が並んでいてこの一角だけポツンと時間が止まっている様な景観です。

写真左:紺屋町 茣蓙九 森九商店   写真右:紺屋町 菊の司酒造


町外れに近ずくと高い家も少なくなります。秋色に変った街路樹の下を進みます。


南部片富士湖付近

”南部片富士”は岩手山の別称ですが,この湖は北上川を四十四田ダムで堰き止めたダム湖です。
このダム湖の為本来の旧街道は小鳥沢地区にある小野松一里塚から北は水没してしまった様ですが湖岸に新しい道が出来ていますのでそちらを歩きます。

小野松一里塚
そっけない感じですが2基とも残っています。遠くから見えたとき,フェンスの脇に塚が見えたのですが,土木工事用の土が盛ってあるのかと思ってしまいました。
小野松一里塚を越えたあたりから道の雰囲気が変わり人里離れた道を歩く様になります。



岩洞第二発電所付近
湖の北端を越えて県道16号線を北上川に沿って遡ります。

岩洞第二発電所手前に16号線の脇に旧街道らしき道が道路が延びていましたが発電所敷地内になる為行き止まりでした。来た道を戻って16号線の巨大な橋の上を歩きました。

無駄に進んでしまいましたが,北上川の美しい流れと人工的な構造物が織りなす風景はとても綺麗で,ロスした時間に変えて余りある風景でした。



写真中央に行き止まりの道のガードレールが見えています。


渋民宿


発電所からは山のなかの道を歩きますが,暫く進み渋民宿手前からは空が広がり眺望が良くなります。
おりしも朝からの雨も止み青空が見え始めました。

渋民からは広々と広がった田園の西側に岩手山,東側に姫神山が望めます。メリハリのある豊かな土地が続いています。

写真左:岩手山   写真右:姫神山


石川啄木記念館
渋民と聞いてまず思い出すのは石川啄木であるのは私だけでなないと思います。

 ふるさとの山に向かいて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな

 石をもて追はるるごとく ふるさとを出でしかなしみ 消ゆる時なし

街道筋に石川啄木記念館があります。記念館の敷地内には啄木がかつて学び一時期代用教員をしていた旧渋民尋常小学校と代用教員時代家族と共に間借りしていた斉藤家住宅が移設されています。
この住宅で「雲は天才である」「面影」などを執筆したとの事です。

旧渋民尋常小学校


間借りをしていた齋藤家住宅


石をもて追わるるごとく・・・
昔 何回か盛岡に出張で行った事があります。その時 盛岡の社員から聞いた話です。

社員の祖父がまだ子供だった頃,おそらく喧嘩かなにかだったのだと思いますが,子供仲間で同世代の石川啄木に向かって石を投げた事があったそうです。啄木は泣きながら走って家に逃げ帰ったそうです。その祖父が言うには石川啄木は勉強は出来たけど女々しい感じがする奴だったと懐かしそうに話していたとの事でした。

この話を聞いて,子供達が啄木に向かって囃し立てながら石を投げる光景が浮かびました。当時本の中でしか知らなかった石川啄木が急にリアルな人間として見えた,と同時に啄木に石を投げた爺さんが生きていて,「石をもて追わるるごとく・・・」の歌そのものの様な光景が実際にあったのかと思ったら,驚きと笑いを感じました。
まさか子供の時に石を投げられた事から出来た歌ではないとは思いますが・・・

好摩駅付近

渋民宿を過ぎてからも北上川を遡る様に進んでいきます。振り返ると岩手山が良く見えます。岩手山はどこから見てもどっしりとした良い山容です。
この付近の奥州街道には巻堀姫神福祉会と書かれた道標が所々に立てて有ります。街道歩きを趣味にしている者にとっては嬉しい限りです。



今日は岩手川口駅まで歩いて歩き終わりです。

岩手川口駅付近

日にちは変って岩手川口駅から歩きです。
ちなみにこの鉄道は第三セクター化されて 「いわて銀河鉄道」 という名称になっています。

川口は宿場だった訳ではないのですが民家が軒を連ねた街です。
町内に東北地方では珍しい ”うだつ” が上がった大きな民家が残っていました。


沼宮内宿


沼宮内は現在では東北新幹線の駅があります。
この辺りまで来ると岩手山は見えなくなって,道も山に挟まれた平な部分を縫う様に続いています。
宿場は駅からさらに北に1km程進んだところですが,意外と大きな町で国道4号線は旧宿場を迂回して通っている為この道は昔ながらの奥州街道の道筋なのだと思います。


北緯40度の駅 御堂駅


御堂駅で休んでいるとき,駅の案内板に ”駅のホームの南端付近が北緯40度線が通る場所” と書いてありました。

ホームの南端に行ってGPSで測定した結果が左の写真です。
地理院地図で確認すると40度線は駅から500m程南を通っていました。

因みに今回歩き始めた白石市は北緯38度ですので半月かかってやっと2度移動しただけになります。

距離にすると緯度1度は111km位なので白石から北に向かって歩いたら222kmの移動という事になります。

目の前の風景だけ見ていると分からないですけど,地球って大きいですね。

北上川源流   弓弭の泉(ゆはずのいずみ)

北上川は長さ249kmで日本で4番目の河川です。
これまで平泉付近から奥州街道は北上川とつかず離れず続いていました。と言うより北上川が作った氾濫平野に奥州街道が開削されていると言った方がよいかもしれません。

御堂地区から国道4号線を離れて山に向かって続いている奥州街道を進むと北上川の源流である 「弓弭の泉(ゆはずのいずみ)」 が在ります。

御堂観世音の社殿と相まって神秘的な雰囲気が漂っています。特別な場所に足を踏み入れるという感じがします。社殿の奥の杉の根元が初めの一滴でした。

弓弭の泉   




御堂・馬羽松(まはまつ)一里塚

盛岡城下からは10番目で岩手町と一戸町の町境にある一里塚です。形が少し崩れていますが2基一対が残っています。



馬羽松地区の風景

上の御堂・馬羽松一里塚の写真を見ると街道がちょうど峠に差し掛かっているのがお分かりになるかと思います。一里塚を越えると馬羽松地区に入りますが,突然風景が開けて,まるで北海道の様な景色になります。
御堂駅からはほぼ山に囲まれた道を歩いて来て,突然この風景が目に飛び込むと,思わず 「ふぉ~!」 と声が漏れてしまいました。



摺糠地区の産土神社前は右に進みます


産土神社

”奥州街道 (無明舎出版)”に掲載されている地図では摺糠地区からの道は神社を越えて北に伸びています。
地理院地図にはその道の記載が無いので廃道になったのかと思っていました。

この神社の裏側に奥州街道が続いていたのか?
左に曲がって迂回するか?,それとも右に曲がって地図に載っている細い道を進むか? 迷いどころです。

道を教えて頂いた西館商店
右側に家が見えたのでとりあえず右に進んで地元の人に道を聞きました。

西館商店の店主に尋ねたら,店の前の道が旧奥州街道で,途中に明治天皇巡幸碑もあるので間違いないだろうとの事でした。御親切に教えて頂き有り難う御座いました。

店の前を過ぎると未舗装の気持ち良い道が続いています。

明治天皇巡幸碑


奥州街道最高地点  標高484m

未舗装の道が終わり,舗装道路と合流して500m程の所に突然ポツンと立っています。
奥州街道を日本橋から歩いて来て,旧東海道の箱根峠や中山道の碓氷峠や和田峠の様な峠越えと言われる難所は奥州街道にはありませんでした。

特に坂道を登って来たという感じが無いので「最高地点と言われてもなぁ~。」というのが正直なところです。
でも最高地点だけあって周囲の風景が良く見渡せます。





中山地区の風景

青面金剛像塔(安永四年 1775年の記名あり)
集落の入口に祀られて集落や旅人の安全を守る道祖神的な意味合いで建てられたとされています。
この付近の道は舗装されてはいますが木立の中を歩く気持ちの良い道が続きます。


火行(ひぎょう)地区

火行には 伝馬所 が置かれていました。
”奥州街道 (無明舎出版)”によると火行付近は明治9年の天皇巡幸の記録には「山又山の果てしなき地」と記載され,かつて旅人が凍死した事から家が建てられたのが後に伝馬所の設置につながった。と書かれています。

盛岡を越えてから宿場間の距離が長くなったと感じていました。山又山の街道筋で宿場も遠かったら冬場は凍死者が出てもおかしくはないなと思います。

なぜ 火行?
それにしても「火行」とは珍しい地名です。
上の写真を写していたら,そばで日向ぼっこをしている90歳前後と思える御婆さん二人から話しかけられました。

「何をしてなさるのかね?」と聞かれたので奥州街道を歩きながら写真を写していますと答えたら,昔の事を話し初めて,「ここは昔,焚き火をして暖をとりながら仕事をしたので ”火行” という地名になった。昔は人が大勢いて賑やかだったがの~。」と教えて頂きました。

更に,「ここからズット行くと ”すえのまつやま” という所がある。山のなかで道は狭いけど面白い所だから行ってみなせえ。若い時は何度もそっちまで行ったもんだがの~。」とおしゃっていました。
その時は「”すえのまつやま?” 何のこと?」と思ったのですが,これは後日知る事になります。

東北の方言は優しい響きです
ところで,御婆さん達との会話のだいたい3割は聞き取れませんでした。上記の会話は私が類推して意訳した内容です。日本にもまだこれだけ地方色を残している地域があると思ったら嬉しくなりました。

これまでに旧街道を随分と歩きましたが,部分的に古い道や建物は残っていましたが,どこにもコンビニや大手チェーンのスーパーや飲食店があり,それはそれで便利ではあるけど豊かな感じはしません。言葉も多少イントネーションに差はあっても聞き取れないという事はありませんでした。日本はかなり均質化しているなと感じていました。

御婆さん達の言葉は私が普段聞いている言葉と異なっているし,聞き取れなくても優しさに満ちている言葉だと感じました。
その人の感性によるのだと思いますが,一糸乱れぬマスゲームや軍隊の行進とか,人が集団で同じように振る舞う姿を見ると私は ”不気味” あるいは ”気持ち悪い” と感じます。
どこに行っても,誰と会ってもみんな同じような言葉を話,同じ様な事を言う様な均質な世界を想像しただけでも,味気ないですし不気味な世界と感じます。
人と違うという事は恥ずべき事ではないですし,むしろ他の地域と違う,他の人と違う,多様性こそが個性でありその人のアイデンティティではないかと思います。

よの坂 


こちらが小繋集落に行く旧奥州街道の道筋です。
今日は小繋駅までの行程なので残念ですがこちらの道は歩きません。舗装道路を進みます。


小繋駅  映画 待合室の舞台

小繋駅は 映画「待合室」のモデルになった駅です。
残念ながら映画は見ていませんが,この駅に置かれている ”命のノート” とそれを取り巻く人達がテーマになっています。
”命のノート”はこの待合室に置かれているノートですが,訪れた人が思い思いの事を書き残し,それに対してそのノートを置いている近所の女性が書き残した言葉に返事を書いていくというノートです。





実は今朝,昨日歩き終わった岩手川口駅に行く為に小繋駅に来ました。
一人の女性が駅舎の掃除をしていたのですが,挨拶をして少し話をしていると映画のテーマになった”命のノート”を待合室に置いている女性,つまり映画のモデルになった女性だと分かりました。
電車が来るまで20分程話を聞かせて頂きました。
23歳で遠野から嫁に来たそうです。そして娘さんがいたのだけれど,小学校入学の前日に交通事故で娘さんが亡くなった事を話してくれました。私も子供がいますので子を亡くす親の悲しみを想像するだけで胸が詰まります。
今は息子が二人いて近所と盛岡に家を建てて住んでいるそうです。2ヵ月前に商売も辞めて今は猫が話し相手だそうです。
ノートを読ませて頂きましたが,びっしりと書き込まれたそれぞれの思いに,優しい言葉で返事が書かれてありました。
話した時間は短かったのですが,人はこれ以上の事がない様な悲しい経験をすると,人の悲しみや辛さを推し量る事が出来る様になって優しくなれるのかと思いました。

その女性は小柄ですが元気が良くてとびきり明るい80歳の女性でした。話した時間は短かったのですが,私も明るく元気な気持ちになりました。

注:女性の写真とノートの一部を写させて頂いたのですが,掲載許可を頂かなかったので掲載は差し控えます。深く知りたい方はインターネットで ”命のノート” ”待合室 映画” で検索してみてください。

エピローグ

この道は 火行 で日向ぼっこをしている御婆さん達と小繋駅の命のノートを書き続けている小母さんと,東北の人達の優しさに触れる事が出来た道でした。


END

2019年03月9日作成 

Column


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