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電子足跡:奥州街道歩き旅
 小繋駅から三戸宿へ
  浪打峠(末の松山)越え

プロローグ

奥州街道を 小繋駅-一戸宿-浪打峠-福岡宿-斗米駅-金田一宿-三戸宿-三戸駅 まで歩いたページです。
金田一宿から三戸宿の間にある馬淵川が削った断崖が岩手と青森の県境です。

これまで北上川を遡って来ましたが,今度は馬淵川を下る道筋になります。
この区間の奥州街道は深山幽谷と云うと言い過ぎですが,山に囲まれた細い道 ”みちのおく” を強く感じる道筋です。
一戸宿と福岡宿(二戸市)の間にある 浪打峠(別名 末の松山) や岩手青森県境の馬淵川が削った断崖を登る 蓑ヶ坂 の道は人里離れた山道です。
宿場だった町も,新しい建物に変っていますが,どことなく戦後から高度成長時代の昭和の雰囲気を残しています。


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区間 通過する宿場 等  歩いた日 GPS移動距離
小繋駅-斗米駅 小繋-小鳥谷-一戸宿-浪打峠-福岡宿(二戸市)-斗米駅 2018年10月26日 25.6km
斗米駅-三戸駅 斗米駅-金田一宿-岩手・青森県境-三戸宿-三戸駅 2018年10月27日 18.7km

         
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ツアーする方法


↑地理院地図(電子国土Web)に詳細ルート地図とポイントの写真が開きます。

本地図はカシミール3DによりGPSデータを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。

小繋地区

よの坂の麓の山間の僅かばかりの平地に小繋地区があります。
五街道細見(岸井良衛 青蛙房)には 「一ノ戸へ三里十丁 泊り宿なし」 と書かれています。前の宿場が沼宮内で小繋から四里三十四丁で,次の宿場が一戸なのでその間 八里八丁(約32.3km)もの間に宿場が無かった事になります。

小繋地区の風景   右:長楽寺地蔵堂


小繋御番所跡
小繋は盛岡城下から来て初めての番所がありました。
領内の物資や人の動きを監視する為の番所だったと書かれています。

小繋地区付近のルートについて
”奥州街道(無明舎出版)” には小繋から笹目子までのルートに関して”上り下りを繰り返す険しい山道で,この区間はほとんど廃道になり,正確なルートは分からなくなっている。” と書かれています。
また,小繋付近の地図には小繋地区から北に山を登るルートと小繋川に沿って行く道の二つのルートが書かれています。
北に山を登るルートと思われる道は地理院地図には掲載されています。しかし他の方達のホームページを見るとそちらのルートを通ったと思われる記述はなく,皆さん小繋川に沿って行く道を歩いたようです。

小繋川に沿ったルートは不鮮明で
笹目子トンネルの西側入口の右側に旧道らしき道がありましたが,手前の小繋川を渡る橋は無く,おそらくこの道はトンネルが出来る前の旧国道ではないかと思います。

笹目子トンネルの東側出口に ”奥州街道 川底一里塚入口300m” と書かれた道標がありました。

よくお世話になる 街道歩きのホームページ ”人力” には,笹目子トンネルを越えて左手に直角に近い崖があって、これをよじ登ったと書かれています。おそらく筆者の かっちゃん氏 はこの崖の道をよじ登ったのだと思います。私は高所恐怖症なので切り立った断崖は苦手ですので笹目子トンネルを通ってそのまま1kmほど進み橋を渡って旧街道との出合いを小繋地区方向に戻る形で川底一里塚に向かいました。

 写真左:笹目子トンネルの西側入口   写真右:笹目子トンネルの東側出口付近


下の写真は川底一里塚から小繋地区側に100mほど進んだ場所で笹目子トンネルの東側出口の上付近です。
”この先通行止禁止”の表示があって道は草に覆われていました。


川底一里塚

秋の紅葉が始まっていた事もありますが,この区間は森の中の未舗装の道が1kmほど続き非常に美しく爽やかな道でした。




高屋敷・高屋敷・小鳥谷(こずたに)を越えて一戸宿へ

この区間は絶景という風景ではありませんが,旧奥州街道がそのまま現在の生活道路として残っている様な人の生活の匂いを感じる風情がある道です。

写真左:高屋敷付近   写真中:五月舘付近   写真右:明治天皇御小休所 旧庄屋宅


写真左:小鳥谷地区  写真中:小姓堂付近の風景  写真右:明治天皇御野立所碑(小姓堂付近)


一戸宿

一戸宿へは馬淵川のほとりを通って入ります。
一戸町の街並みは大都市でも無く,かと言って村落ということでもなく,かつて全国のどこの町もそうだった様に,戦後が終わって,テレビが家庭に入いり,これから世の中が変わって行くと思える昭和30年代の街並みが残っていると感じます。私の年代にはホットするような街並みです。







浪打峠 末の松山


一戸の町を過ぎて人家がまばらになったあたりの路傍に ”奥州街道 末の松山のみち 美しい日本の歩きたくなるみち 500選” という小さな看板がありました。
ここでようやく 火行で老婆から聞いた ”すえのまつやま” が何なのかが分かりました。

”末の松山”は ”浪打峠” の別称で地理院地図にも ”浪打峠の交叉層” として記載されています。

説明板を要約して補足すると
貝化石を含む砂岩の地層が道の両側に露出して波が打ち寄せる様に見える事から ”浪打峠” と呼ばれる様になったとの事です。

それでは何故 ”末の松山” と呼ばれているのかという事ですが。
百人一首にも載っている

 契りきな かたみに袖を 絞りつつ 末の松山 浪こさじとは   清原元輔
 (涙で濡れた着物の袖を絞りながら, 末の松山を浪が越える事がないように,けして心変わりはしないと約束したのに・・・)

と詠まれている歌枕の地 ”末の松山” が 浪打峠の風景ではないかと想像したのではないかと言われています。 ”末の松山”はこの地と宮城県多賀城市にある末の松山と並んで歌枕の候補地になっているとの事です。

火行で出会った老婆達は若い頃に何度もこの峠を歩いて行き来したのだと思います。
火行から末の松山まではおよそ22km,麓からは170m位の登りです。これまで日本橋から歩いて来た中では少しきつい登りでした。





参考:宮城県多賀城市の末の松山


宮城県の末の松山は多賀城市八幡2丁目8-28に在ります。
その名も 末松山 寶國寺 の境内の標高10m程の小高くなった場所です。

松尾芭蕉は元禄2年5月8日(1689年6月24日)にこの地を訪れています。
おくのほそ道には、
「末の松山は、寺を造りて末松山といふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契りの末も、終にかくのごときと、悲しさも増さりて、・・・」と書いています。

松の間に墓が並ぶ風景をみて、
比翼の鳥や連理の枝の様に永遠の愛を誓い合った男女も、最後はこんなふうになってしまうのか、と無常感を表現しています。

写真左:末の松山
写真右:末松山(まつしょうざん) 寶國寺


境内にある歌碑
君をおきて あだし心を わがもたば すゑの松山 浪もこえなむ
古今和歌集 巻二十 東歌

意味:
あなたを差しおいて、他の人に心を移すようなことがもしあったとしたら、浪が越えるはずがないといわれている末の松山をさえ波が越すことでしょう

上記の清原元輔の歌もそうですが、末の松山を浪が越さないという事をけして心変わりをしない男女のたとえにしています。

末の松山を波が越さないとは、この場合の波は津波の事と考えられています。貞観十一年(869年)に発生した地震により押し寄せた津波は現在の多賀城市付近一帯を水没させたにも関わらず末の松山は津波が越えることがなかったという故事から、太陽がけして西から登らない様にあり得ない事の例えとされています。

2011年3月11日 東日本大震災
末の松山は仙台港のフェリー発着所から2km弱の内陸部にあります。
2011年3月11日に襲った東日本大震災による津波が多賀城市を襲いました。市街地は津波により甚大な被害を受け多くの人命を奪いました。寶國寺まで津波が押し寄せましたが末の松山は水没することなく、末の松山に避難した人達の命を救ったとのことです。

福岡宿(二戸市福岡)

紛らわしいのですが福岡宿は二戸市にありますが,二戸市には九戸城址があります。
浪打峠を北側に下って行き村松地区に入ると人家が増え人里に来た感じがします。
馬淵川の河岸段丘崖と思われる坂を下ると民家が急に増えて町らしくなります。

写真左:村松付近  写真右:段丘崖の坂


白鳥川
九戸城の堀の役割をしていたと思われる白鳥川を越えると福岡宿の中心地に入ります。

福岡宿の街並み&愛宕の清水
写真左下の清水の施設に小さな碑文が書いてあります。
碑文は
大森貝塚を発掘したエドワード・S・モースのもので明治11年8月にここを訪れたモースは
「福岡という村は,広い主要街の中央に,小さな庭園がいくつも並び,まちは清掃されていて,きわめて美しいところだった。(後略)」 と書かれていました。

現在でも東北の山の中に突然現れる街並みは洒脱な感じがします。



今日は斗米駅まで歩いて終了です。

金田一宿

日にちは変わり斗米駅(とまい)から歩き始めました。
それにしても ”斗米” という駅名もおかしな名前です。斗米と書いて”トベイ”とも読めるので わずかな米,わずかな給料という意味になります。それはさておき金田一宿に向かって歩きます。

斗米駅から東に行き馬淵川を渡って北上し堀野近隣公園の手前で馬淵川の河畔にでます。奥州街道はここから馬淵川の対岸に渡る橋があったようなのですが現在は無いので迂回して長瀬橋を渡って西岸に行きます。
歩いていると上金田一踏切とか金田一中学校などの文字が目に入ります。

金田一は地名よりも言語学者一家の”金田一”,横溝正史の探偵小説”金田一耕助”,或いは漫画では”金田一少年の事件簿の金田一一(きんだいちはじめ)”で苗字の方が有名です。

言語学者の金田一京助とこの地が関係あるのか「じっちゃんの名にかけて!」インターネットで調べましたが明確な関係は分かりませんでした。
ただ,金田一京助は盛岡の出身で数日前に歩いた渋民出身の石川啄木とは高等小学校,盛岡中学の先輩後輩で学生時代には文学について語りあった仲だと知りました。啄木が上京したときは金田一にお世話になり生活費(遊興費?)の工面もしていたという事です。

写真左:金田一宿付近の家並  写真中央:金田一温泉駅  写真右:町外れの道標


金田一温泉駅から少し進むと馬淵川が削った崖を登ります。地元の方達が整備しているようで歩き易い道です。


蓑ヶ坂

馬淵川に沿って進むと,舌崎で馬淵川が大きくU字にカーブする地形があります。前方に馬淵川が削った絶望的に急峻な崖が見えてきます。この崖をどうやって登るのかと不安になるなか,折からの雨が激しくなり心が折れそうになりました。



崖が切れる僅かな間隙に蓑ヶ坂の登口があります。
説明板には明治天皇行幸の際,天皇は蓑ヶ坂で馬車から降りて馬に乗り換えて登り,馬車は大勢の村人達が押し上げたと書かれいました。これまで奥州街道を歩いてきて蓑ヶ坂が一番急峻な坂でした。


登り切ると開けた場所になり,眼下に舌崎を流れる馬淵川のパノラマが広がります。ここが下から見上げた崖の上という事です。
かつてここには吉兵衛茶屋があり駕籠立場と言われていました。(立場=休憩する場所)天皇もここで2回休憩したと説明板に書かれていました。
またここは岩手県と青森県の県境でもあります。これから先は青森県を歩きます。

注:パノラマ撮影した画像です

馬淵川の崖の上に続く道は地理院地図には記載されていません。おそらく地元の方達が整備しているのだと思いますが下草が刈られた未舗装の歩き易道が続いています。


三戸宿

馬淵川の崖の上に続く道が終わると国道4号線と合流します。1kmほど進み鮫ノ口で右に分かれて丘陵に入ります。ここは東北自然歩道にもなっています。林檎の果樹園が広がり青森県に来たと云う感じがします。


丘陵から降りると三戸城の城下でもある三戸宿に入ります。
同心町,八日町,在府小路町など城下町であり宿場であった頃の町名を通り三戸駅に向かいます。
街道筋からは端正な山容の名久井岳を望む事ができます。馬淵川越しに見る名久井岳は絵画の様です。


エピローグ

街道歩きは極地探検やジャングルの未開地を行くような冒険ではないですが,この区間は日常とは異なる何かを感じます。
勿論,日常と異なると言っても,それは通り過ぎるだけの私が感じる事であって,そこに生活している方達にとっては日常なのですが,その地に生活する事の愛おしさの様なものを感じたのかもしれません。

ほんの百数十年前は移動手段が基本的には歩く以外に無い時代に,こんなに山深い所でよく生活が出来たなと思います。
逆に言えばエネルギーも食料も輸入に頼る現代の生活様式より,住まいの近くで採れる米・野菜,山の中で採れる山菜・木の実,ときには獣の肉,そしてエネルギーである薪。自給自足である程度自己完結して,家族で温かい食卓を囲む平穏な生活。昔の生活様式は便利ではないかもしれませんが,今より豊かな生活様式ではないかとも思いました。


END

2020年01月31日 参考:宮城県多賀城市の末の松山 を追記
2019年03月15日作成 

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