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電子足跡:奥州街道歩き旅
野辺地宿から青森宿へ
プロローグ
奥州街道を 野辺地宿から馬門宿-小湊宿-浅虫温泉-野内宿を通り青森宿 まで歩いたページです。日本橋から日本列島の内陸部を通っていた奥州街道は野辺地宿から一転して海岸線沿いを歩く道になります。旧奥州街道沿いに鉄道が敷設されているので,歩きの計画も立てやすいですし,駅舎には自動販売機も設置されている事が多いので休む場所にも困りません。なにかあった場合は近くの駅で中断してエスケープするのも簡単です。
ただ街道沿いは,気象条件が厳しくて家がいたみやすいのか,或いは近代的な暖かい家に建て替えたのかは分かりませんが,古い建物はほとんど無く,旧街道を歩いている感じはあまりしません。それでも,それを補って海の風景を見ながら歩く道は美しく新鮮な感じがします。
とりわけ浅虫温泉の風景は,海岸まで迫る松が多い山並みと海に浮かぶ湯ヶ島,そして遠くには,これから歩く事になる津軽半島が見える日本的な風景は美しいですしホットした気持ちになります。
区間 | 通過する宿場 等 | 歩いた日 | GPS移動距離 |
野辺地駅-浅虫温泉 | 野辺地宿-馬門宿-小湊宿-浅虫温泉 | 2019年03月27日 | 33.0km |
浅虫温泉-青森駅 | 浅虫温泉-野内宿-青森宿 | 2019年03月28日 | 15.3km |
↑地理院地図(電子国土Web) に詳細ルート地図と ポイントの写真が開きます。 |
GPSログをGoogleEarthで ツアーする方法 |
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本地図はカシミール3DによりGPSデータを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。
野辺地宿
野辺地宿は北前船の湊として栄えた宿場です。現在でも大きな町です。野辺地湊は北前航路の盛岡藩の窓口で特産品や尾去沢鉱山の銅の搬出を担っていました。尾去沢鉱山は現在の秋田県鹿角市にある鉱山ですが,かつては盛岡南部氏の所領で,採掘された銅は牛の背に乗せられて十和田湖の南側のストーンサークルで有名な大湯などを経て三戸まで来て,その後奥州街道を通り野辺地湊から北前船で大阪に向けて積み出されたとの事です。三戸から歩いて来た道はかつて銅が運ばれた道でもありました。
写真左:尾去沢鉱山から野辺地までの道筋
写真右:江戸時代の航路
常夜燈
文政10年(1827年)に野辺地の廻船問屋野村治三郎によって建てられたとの事です。
現代で言えば灯台の様な役割だったとの事です。
北前船(復元) 北前船は意外と大きいです。
注:常夜燈公園に設置されていた説明板の絵を使用させて頂いています。
馬門宿(まかど)
戊辰戦争のさなか,番所があった馬門宿は明治元年に弘前藩が南部領に侵攻したときに焼き払われたそうです。その後,弘前藩軍は鳥井平まで進軍して盛岡藩・八戸藩と交戦し野辺地戦争と言われる戦がありました。野辺地戦争死者墓所
説明板によると明治元年(1868年)9月22日弘前藩の軍勢180人が突如南部領に侵攻。藩境の防備を担っていた盛岡藩・八戸藩連合軍は銃撃を加え,弘前藩の軍勢は40余人の死傷者を出して敗走。翌年,弘前藩は戦死者27人の名前を刻んだ墓碑をこの場所に4基建てたとの事です。
京都で火蓋がきられた鳥羽伏見の戦い(明治元年/慶応4年1月3日~6日 1868年1月27日~6日)から始まった戊辰戦争は東日本の諸藩では奥羽列藩同盟を結成しましたが,思惑は一致せず秋田藩・弘前藩は後に新政府軍支持に立場を変えたため弘前藩の軍勢が南部領に侵攻したとの事です。
ここまで奥州街道を歩いてきて,戊辰戦争に関する史跡が在ったのは記憶では福島県白河市や二本松市付近など現在の福島県内が多かったです。奥州街道は戊辰戦争の激戦地である会津に進行したルートのひとつなので奥州街道沿いに史跡があるのは当然なのですが,まさか会津から遠く離れたこの地に戊辰戦争の史跡があるとは思いもよりませんでした。
藩境塚
南部領と津軽領の境界の目印として築かれた塚です。幅2mほどの二本又川(双股川・境の川とも)を挟んで南部・津軽にそれぞれ2基ずつ4基あるので「四ツ森」とも呼ばれてそうです。ここには番所が設けられて通行人や物資の出入りを取り締まっていたとの事です。 右側の写真は実はトイレです。上記の野辺地戦争ではこの藩境を越えて弘前藩軍が南部領に侵攻してきたという事になります。
海岸のすぐそばに藩境塚が在るという事は昔の奥州街道は海岸のそばを通っていたという事なのだと思いますが地理院地図にはそれらしい道の記載はありません。
それにしても小さな二本又川が藩境だったのは少々驚きますが,中山道の美濃と近江の藩境も跨げるくらいの小川でした。
小湊宿
小湊宿は夏泊半島のつけ根の盛田川と小湊川に挟まれた土地に発達した宿場です。地名から海岸沿いの漁村の宿場かと思っていましたが海岸からは少し離れています。引ノ越山
小湊川に架かる橋から上流側に異様な形をした山が見えます。引ノ越山です。
なんでこんな地形になったのか?山体崩壊したのか?山体崩壊したとしても麓付近に崩れた岩屑(がんせつ)が見当たらないな?などと思いながら写真を撮りました。
調べたら高度成長期に業者が砕石をした為と分かりました。良いか悪いかは別にして,山の形を変えるほど人間にはパワーがあるのだと感じさせられました。
写真左:小湊の家並
写真右:平内町役場にある明治天皇行在所跡
天明の飢饉供養塔
説明板によると天明の飢饉(天明2年1782年~5年1785年)で多くの人が餓死し,全体の半数の357戸が空き家になった。と書かれています。
これまで歩いてきて天明の飢饉に関する石碑・石仏は
”日光街道金井宿慈眼寺の天明3癸卯と書かれた石仏”
”宮城県金成の 三界万霊供養塔”
が在りました。
江戸期の飢饉は教科書で習いますが各地に供養塔・石仏があると知り,具体的な餓死者を知ると想像以上の凶作と惨状だったと改めて認識しました。
浅虫温泉
太宰治の「津軽」の冒頭に津軽の雪
こな雪
つぶ雪
わた雪
みず雪
かた雪
ざらめ雪
こおり雪
と雪の種類が書いてあります。
小湊宿を越えた付近から曇り空だった空から”こな雪”が降り始めました。夏泊半島の西側付近からはみぞれ交じりの雨になりました。さしずめ ”みず雪” という雪でしょう。
少しでも早く進みたいので旧街道の道筋をトレースせずに国道4号線を歩きました。
これが失敗でした。国道4号線は海の真近を通っているうえ,風を遮る家も街路樹も無いのでみぞれ交じりの冷たい雨が容赦なく体に吹き付け疲れた体から体力と気力を奪います。
この時の服装は
ウールのアンダーシャツとシャツ,フリース,ゴアテックスの雨具,ツバ広のハット,薄手の耳あて,ネックウォーマー兼フェイスマスク,少し厚手のズボン,ウールの靴下,薄手の手袋 といういでたちでした。あっ!勿論パンツは履いています。
歩いていれば寒くはないですが,薄手の手袋はビチョビチョに濡れました。
この様な激しい気象条件でも いつもの装備で歩く事が可能でした。歩き旅の装備は こちらのページを参考にしてください。
道の駅 ゆーさ浅虫
車は浅虫温泉の道の駅 ゆーさ浅虫に停めてあるので,早く浅虫に行って温泉に入りたいと気が急きます。
道の駅の駐車場に隣接して物産販売,レストラン,そして5階には温泉があります。入湯料は350円と格安です。
隣は青い森鉄道 浅虫温泉駅 なのでアクセスも良いので,今回 この道の駅に3泊しました。
写真左:浅虫温泉手前の国道4号線 写真右:道の駅 ゆーさ浅虫
みぞれ交じりの雨で浅虫方面が良く見えません。
日にちは変わり今日は浅虫温泉 道の駅ゆーさ浅虫からスタートです。
昨日は悪天候で良く見えなかった湯ノ島が青空を背景に良く見えます。
昨日のみぞれが夜中に雪に変わり一面の雪景色です。
奥州街道のルート
旧奥州街道を歩いて浅虫から青森方面に行くには 善知鳥崎(うとうまい)の岬を越えなければなりません。
「奥州街道」(無明舎出版)によると,昔はこの岬の突端に梯(かけはし=険しい崖沿いに木や藤づるなどで棚の様に設けた道)が設けられて梯を通るルートと山を越えるルートがあったとの事です。
現在はさすがに梯は無くトンネルが掘られています。トンネルを通ると国道4号線を歩く事になり街道歩きの魅力が半減するので山越えのルートを歩きました。標高差は100mほど2.5kmの道のりです。
国道4号線を外れ陸奥護国寺に向かって坂を登ります。
陸奥護国寺は真言宗のお寺で寺の裏手に続く善知鳥崎越えの旧街道は四国八十八ヶ所を模した八十八ヶ所の石仏が安置されている整備された道です。
新雪足跡
朝早かったのですが,さすがにこの時期に街道歩きをする人はなく,遊歩道を散歩する人もいませんでした。
昨夜降った新雪の上を歩くのは気持ちが良いです。
私以外にウサギが先に歩いていました。
このホームページのタイトルは「電子足跡」ですが,
この写真は新雪に残した「リアル足跡」です。
鼻繰崎
観音寺の石仏
観音寺周辺の道はルート取りを少し間違えてしまいました。本来のルートはおそらく観音寺の前を通る家が密集している道だと思いますが,観音寺の裏手を通る港の方に行ってしまいました。
道は間違えましたが,海蝕洞に石仏が安置されている風景を見る事ができました。
道を間違えるのも別の風景を見る事が出来て良いものです。
野内宿
人家もまばらな街道沿いの道を歩き野内に入ると人家が急に増えます。ここから青森までは家並が絶える事はなくなります。
野内番所跡
津軽三関のひとつで町奉行が置かれ盛岡南部藩からの人・物の移動を監視するとともに防御拠点として機能していました。
番所跡は写真の松と説明板が有るのみで遺構は残っていませんでした。
青森宿
赤川を渡ると旧街道の名残と思える松があります。僅かな本数ですが路傍に松があるだけで旧街道の雰囲気が断然に良くなります。
合浦公園(がっぽ)
ほどなく旧奥州街道は大きな合浦公園のなかを通ります。これまで歩いて来て公園の中に旧街道が通っていたのは初めてではないかと思います。旧街道の頃からの松なのかは分かりかねますが松並木と桜並木が続き心地よい道です。雪が積もった松を背景に桜の蕾が膨らんできていました。春はもう少しです。
青森市内
堤川を渡ると大都市に来たという感じが強くなります。
町名も本町になり昔ながらの中心地という感じがします。ただどこの旧街道が通る近代的な都市はそうなのですが旧街道の面影が希薄なのが残念です。
野内の辺りから雲行きが怪しくなってきたので今日は油川まで行こうと思っていましたが,急遽青森で歩きを切り上げる事にしました。
青森駅
青森駅でラーメンを食べて電車に乗ったら突然の雪!!
上野から夜行列車に乗って青森駅に来たわけではないのですが
♪♪上野発の夜行列車降りたときから
青森駅は雪の中・・・・ ♪
でした。
エピローグ
スキーをする方は雪が降るより ”みぞれ” の方がより大変でスキーウエアがビショビショに濡れて、とてもスキーをしようと言う気にならない経験があるかもしれません。私は雪国育ちなので雪は慣れていますが、
さすがに浅虫温泉手前でみぞれ交じりの雨が海風に吹かれて雨具を叩き付けたときはさすがにウンザリしました。それでもみぞれ交じりの雨の中を歩くのは,普段は経験出来ない事なので手の冷たさ以外はこれも良い経験と思って歩きました。
実際この様な天気でもいつも準備している装備で歩く事が可能でした。やはりアウターシェルになる雨具が有るか無いかが大きな分かれ目と思いました。この季節だけではなく,雨具を持たないで歩くのは無謀な行為だと再認識しました。
この辺りの地形は山が海に迫っているせいなのか,青空が見えていたと思ったら突然雪が降ってきて天候が急変する事が何回かありました。秋の天気だけではなく春先の天気もコロコロと変わるものなのですね。
END
2019/04/15 作成
Column
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