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電子足跡:奥州街道歩き旅 ふろく 
 三厩から竜飛岬へ

プロローグ


2019年04月01日に奥州街道を始終点の三厩まで歩いて奥州街道を完歩しましたが、その足で本州の日本海側の北端である津軽半島の竜飛岬まで歩きました。


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竜飛岬を歩いた2019年04月01日は、竜飛漁港から竜飛岬に登る 有名な 「階段国道」 が冬季で閉鎖されていたので歩く事が出来ず、迂回して竜飛岬まで到達したのですが、気持ちとしては 画竜点睛を欠く という感じでした。今回北海道縦断歩き旅をやるために青森市のフェリーターミナルに来たので足を延ばして竜飛岬を再訪して「階段国道」を登りました。

本州の日本海側の北端である津軽半島が海に切れ込む竜飛岬の風景は美しく、石川さゆりさんの「津軽海峡冬景色」や太宰治の小説「津軽」などの一節が頭に浮かび旅情も誘います。
竜飛岬には太宰治とN君が宿泊した奥谷旅館(現竜飛岬観光案内所)が保存されて見学できます。
太宰治が「この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。」と書いた風景を見てみたいと思いました。

かつての道は
宇鉄漁業協同組合長の牧野逸蔵氏のリーダーシップにより 大正12年~昭和4年に13の洞門を含む道路開削が行われるまで、三厩から竜飛岬に行くには写真の様に海岸の岩礁を伝う道なき道を進む険路でした。大正から昭和にかけて掘られた手堀りの洞門は現在でも一部残っており歩く事が可能でした。

更に
松本清張原作の「砂の器」は東京蒲田操車場や秋田県亀田、島根県亀嵩などが舞台ですが、
1974年製作の 映画 「砂の器」 で ハンセン病で村を追われた 父:本浦千代吉(キャスト:加藤嘉)とその息子 秀夫(のちの和賀英良)(秀夫:春田和秀 和賀英良:加藤剛)父子が遍路姿で放浪するシーンはこの洞門の道でロケされたとの事です。あのシーンは映画史に残る名シーンで、流れているピアノ協奏曲「宿命」と共に、今思い出しても目頭が熱くなります。

注:
新聞・TVなどで報道されていますが、ハンセン病は感染力が弱く、現在では治療法も確立されており後遺症を残すことなく完治する事が可能な病気との事です。過去の間違った認識は現在では否定されています。




注:写真左は竜飛岬観光案内所(旧奥谷旅館)に展示されていたものです。撮影と掲載は自由ですとの事でした。
注:本ページの写真は歩いた4月1日の写真と再訪した5月23日の写真の両方を使用しています。


区間 通過する宿場 等 歩いた日 GPS移動距離
三厩-竜飛岬 宇鉄漁港 2019年04月01日 11.7km
階段国道 旧奥谷旅館、竜飛漁港、階段国道 2019年05月23日 2.0km

 
↑地理院地図(電子国土Web)に
詳細ルート地図とポイントの
写真が開きます。
  GPSログをGoogleEarthで
ツアーする方法


本地図はカシミール3DによりGPSデータを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。

三厩


松前街道終点之碑がある厩石の反対側に道が続いています。



「奥州街道」 (無明舎出版)に埋め立てられる前の昭和30年代の厩石と集落が写ったモノクロの写真が掲載されています。海が厩石まで迫りその右後ろに民家が無造作に立ち並び寒々しい風景です。

現在は新しい家並になり、生活感がある風景です。

写真左:藤島
写真右:鐇泊(まさかり)付近


竜飛岬


竜飛の集落
小説「津軽」で太宰は 「路がいよいよ狭くなったと思っているうち、不意に、鶏小屋に頭を突込んだ。(中略) 鶏小屋と感じたのが、すなわち竜飛の部落なのである。」 と表現した竜飛の集落。



「路がいよいよ狭くなった」と書いていますが、太宰が竜飛を訪れた昭和19年当時は現在の339号線ではなく、まだ洞門の道と思われます。

下の写真左は竜飛岬観光案内所に展示されていた写真です。旧奥谷旅館(現竜飛岬観光案内所)付近を写した写真です、右の現在の写真と比較すると、一目瞭然ですが、昔は奥谷旅館の軒下が道路になっておりその先は直ぐ海岸だった事がわかります。海と山の僅かな平地に這いつくばる様に人家が並んでいた事がわかります。



竜飛漁港と帯岩


小説「津軽」からの引用です。
「ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えてゐるのである。ここは、本州の袋小路だ。読者も銘肌せよ。諸君が北に向つて歩いてゐる時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小舎に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである。」

本州の袋小路、この部落を過ぎて路は無いと描かれた風景
防波堤を越えて数10mで道が無くなっています。本州の袋小路です。


奥谷旅館


小説「津軽」で太宰とN君が竜飛で宿泊した奥谷旅館が現存しています。今は 竜飛岬観光案内所 になっています。太宰とN君が宿泊した部屋は一階の右端の部屋でした。



太宰も同じ風景を見たであろう旅館の窓

太宰とN君がお銚子6本と水筒に詰めた酒を飲み、語り合い、蛮声を張り上げで歌を歌い、翌朝、部屋に朝日がさし込み、寝床の中で童女が歌う手毬歌を聞いて目覚めた部屋です。

階段国道


2019年4月1日に歩いた時は ”階段国道” は冬季間の為閉鎖されていました。僅か500mに満たないこの道を歩く為に再訪しました。

妻に言わせれば 「なにやってのよ! そんな事にこだわって、あなたのホームページ見ている人なんて居ないわよ!」 と言われそうです。

実際には 「この前歩けなかった区間を歩くので、また行ってくる。」 と妻に言いましたが、さすがに500mくらいの距離とは言えませんでした。
妻の名誉の為に言っておきますが、上記の妻の発言は私の想像上の創作です。

まあ、なんと言うか・・、男のこだわりと言うか、男のロマンとでも言うか、そうとでも言わないと、この気持ちは説明のしようがありません。


階段村道
少し笑えますが、階段国道が終わっても、竜飛岬の先端には到達しません。その先には 階段村道 が続いています。ちょと便乗感があるネーミングです。

本州西側最北端の地



岬の先端には防衛省のレーダー施設があります。北端を目指して来た者にとっては少なからず違和感を持ちます。富士山頂のレーダー施設もそうですがレーダーの効率を考えるとより障害物の無い所に建設する事になるので致し方なしかと思います。

比較するのもなんですが、例えば北極点や南極点に到達したとしても、そこは周囲と何も変わらない氷雪原です。この地が北極点だ南極点だと思える気持ちが達成感を感じるのだと思います。



エピローグ

僅か500mの階段国道を歩く為に再訪しました。気持ちとしてはこれでスッキリしました。
竜飛岬には太宰治とN君が宿泊した旧奥谷旅館が竜飛岬観光案内所として保存されています。太宰治の展示は勿論ですが棟方志功の展示などもありました。

太宰とN君が宿泊した部屋には太宰とN君の写真、火鉢、そして宿の 面長で上品な婆さんが運んできたお銚子6本がお盆に載せられて置いてありました。

太宰治の作品は若い頃に読みましたが、太宰のゆかりの地を訪れたのは初めてです。今回は生家である金木の斜陽館と旧奥谷旅館(現竜飛岬観光案内所)そして小説「津軽」のクライマックス、乳母だった越野たけと再会した小泊。
いずれも津軽半島の中にあります。街道歩きに興味は無くても太宰治のファンの方は一度訪れてみると良いと思います。

注:小説「津軽」からの引用は全て 新潮文庫 津軽 太宰治 からの引用です。


END

2019/07/04 作成

Column


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