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電子足跡:奥州街道歩き旅(仙台道)
 郡山宿から福島城下へ


プロローグ


このページは奥州街道の福島県郡山宿から本宮宿・二本松宿などを通り福島城下まで歩いたページです。
安達太良山を望みながら本宮や二本松を繋ぎ福島城下に至る自然豊かな道です。
途中,二本松では街道沿いに高村光太郎の詩集「智恵子抄」で知られる高村(長沼)智恵子の生家があります。
福島城下の手前では公園として整備されている小高い山の尾根に続く旧街道を歩きます。
展望台から盆地内の福島市街を俯瞰したときは,いよいよ東北に足を踏み入れるという感じがします。

区間 通過する宿場  歩いた日 GPS移動距離
郡山宿-福島城下 郡山-福原-日和田(駅)
2018/3/17 5.8km
日和田(駅)-高倉-本宮-南杉田-北杉田-二本松-(安達駅) 2018/3/18 25.6km
(安達駅)-二本柳-八丁目-浅川新町-清水町-福島 2018/3/19 20.8km
    52.2km


GPSログを
GoogleEarthでツアーする方法



地理院地図(電子国土web)に詳細ルート地図とポイントの写真が開きます

本地図はカシミール3DによりGPSデータを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。 


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郡山宿


阿弥陀寺

大町1丁目の会津街道との追分を過ぎて1.3㎞ほどの所に突然立派な山門の真言宗 阿弥陀寺が現れます。
平安時代に現在地より東にあった天台宗正覚寺というお寺が前身ですが,南北朝時代に戦火で堂塔伽藍などは炎上したものの,ご本尊の阿弥陀如来は僧侶によって守られ,天正2年(1574年)に当地に開山したとの事です。



三春町について
GoogleMapでは阿弥陀寺を越えると直ぐに日本三大桜に数えられる三春滝桜で有名な三春に行く三春街道交差点になります。

真偽は定かではありませんが,三春という地名は梅・桜・桃が一斉に咲き誇るところから付けられたと言われています。突然春の花が一斉に咲き乱れ,慌ただしく訪れる東北の春を連想させるとても良い地名だと思います。

また三春町は女性として世界で最初にエベレストに登頂した登山家の田部井淳子さんの出身地でもあります。
注:写真は2018年春 郡山在住の知人が撮影したものです。

福原宿


今は福原宿は郡山と街並みが続いてどこが中心地だったのか分かり難くなっています。

郡山市富久山町八山田付近
福原宿あたりから松並木と言えるほどではないですが所々に路傍に松が残っています。
松があるだけで現代風にアスファルトとコンクリートの道に変っても旧街道の面影を感じる事が出来ます。

日和田宿


東北本線の陸橋を渡ると日和田宿の中心地に入ります。坂道の両側に家が連なり坂の上の西方寺付近までが宿場中心だったとの事です。

写真左:郡山市日和田向山付近
写真右:日和田宿の街並み


西方寺 蛇骨地蔵堂と鰐口
坂を登り切ったあたりに西方寺があります。
蛇骨地蔵堂と鰐口の説明板がありましたが,説明すると長くなるので省略します。

写真左:蛇骨地蔵堂と鰐口
写真右:西方寺の笠松


安積山の花かつみ

 みちのくの あさかのぬまの 花かつみ かつみる人に恋ひやわたらん
  古今和歌集

 安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに
   万葉集

安積山は歌枕の地です。
元禄2年5月1日(1689年6月17日)に松尾芭蕉と曽良は檜皮(ひわだ)の宿を少し越えたこの浅香山(安積山)を通り古歌に詠われた ”花かつみ” という草を人々に訪ね歩くが,誰も知らず 日が傾いてきたので諦めて先を急ぎその日は福島に宿泊しています。
郡山市のホームページによると。今でも,「花かつみ」という花がどんな花だったのかは定かではではなく,明治天皇 東北巡幸のさいにヒメシャガを花かつみとして天覧に供したので,昭和49年に郡山市の花に制定したとの事です。 現在は安積山公園として整備されています。


高倉宿


高倉宿は山城だった高倉城の麓と五百川に挟まれた僅かな土地に成立した宿場です。
特徴はあまり無いですが街道沿いに幾つか石造りの蔵を見る事が出来ます。山城の根小屋だった頃を想像しながら歩くと楽しいかと思います。
また,西側1kmほど離れた所にアサヒビール福島工場が見えます。銀色の大きな醸造タンクが林立して壮観な眺めです。
 注: 根小屋=山城の麓に発達した家臣や使用人などの居住地

本宮宿


本宮市仁井田申の旧街道
本宮宿の手前 仁井田 申(にいだ さる)という地名の場所は355号線が大きくカーブして敷設された為に400m程ですが旧街道の面影が良く残っている場所です。
355号線を左に入って100mほど行くと枡形状にカーブした場所に ”申(さる)供養塔A群” と書かれた石碑・石仏が集められています。
そこから進むと更地になった土地の端を通り幅2m程の坂道が住宅の脇に続いています。
何も知らなければただの狭い道でしかないのですが,ここが旧街道と思って歩くと特別な道の様に思えます。

写真左:申(さる)供養塔A群


写真左:更地の端を歩く   
写真右:民家の敷地の様な坂を降りると355号線に合流


本宮市街の風景
本宮宿は古くは奥州街道・会津街道・相馬街道・三春街道の集まる交通の要所で,さらに阿武隈川の水運も盛んだったと思われ福島県内でも賑やかな宿場でした。
”奥州街道 歴史探訪・全宿場ガイド 無明舎出版” の本宮宿の項には 「天保9年(1838年)の旅籠30軒,茶屋12軒,銭湯6軒,酒屋12軒,飯盛り女70人,と記録にある。」と記載があります。

交通の要所で,多くの人達が行き交った土地という事なのか,町中を歩いていても何となく明るく開放的な雰囲気があります。港町を訪れた時の様な開放的な感じと表現すると少しは雰囲気が伝わるかもしれません。本宮も戊辰戦争の戦火にあい今でも市内に爪痕が見られるとの事です。

写真左:南町本陣跡地前の街道
写真右:JR本宮駅付近の風景


写真左:本陣の黒松


旧街道の道筋について
分かりにくい写真で恐縮ですが、普度供養塔の説明板に記載されていた旧街道の道筋です。

8号線を進むと太郎丸という地区の会津街道との追分に道標を兼ねた”普度供養塔”があります。

説明板によると,歩いて来た8号線は明治になって新たに開削された旧街道で,それ以前はそばにある観音堂の東側に奥州街道の道筋が続いていたとの事です。
現在で言えば阿武隈川の土手が当時の道筋に近い様に思われます。
写真 左端の赤い線が旧街道の道筋

普度供養塔
真ん中に大きく
「普度供養塔」の文字
左側に 「左江戸」  右側に 「右あい津」 と刻まれています。

天保14年(1843年)本宮南町名主 大内良忠恕信により建立されたとの事です。
明治16年(1883年)までは観音堂の北側に建っていたとの事です。

南杉田宿・北杉田宿


南杉田宿と北杉田宿は杉田川を挟んで隣り合っています。交代で宿駅の機能を担うことで宿場の住民の負担を軽減したとの事です。

南杉田宿の手前,薬師寺の石段付近から先の355号線は新しく開削された道だとの事ですが,石段から斜め右に弧を描く様に数100m残っている道は旧街道の面影が残っています。

写真左:薬師寺参道


二本松宿


木登り地蔵

二本松宿の手前の正法寺町の入り口に小さなお堂があります。お堂の境内の杉の木の上にお地蔵様が鎮座しています。何故木の上なのかは置いといて,遠くは会津,浜通り,仙台の人達から災難除けや子守地蔵として信心されていたとの事です。


二本松城(霞ヶ城)
街道筋から二本松城の全貌をを望むのは難しいですが,平城と山城の様式を併せ持つ梯郭式平山城です。
標高345mの山上に本丸があり,登ると近隣が一望の出来る場所です。麓には石垣で守られた居館や庭園などが配置された独特の構造です。
慶応4年(1868年)戊辰戦争により落城。戦死者337名。その中には二本松少年隊士14名が含まれています。
少年隊士は会津の白虎隊の悲劇が有名ですが,ここ二本松でも現在で言えば中高生位の若い命が戦火により露と消えています。

二本松宿
城下町と宿場の両側面を持つ宿場です。残念ながら往時の面影は乏しいですが,何回も桝形を曲がる道筋は当時を偲ばせます。

江戸時代末期の絵図です。
街道筋や寺社の配置などは現在とあまり変わらず,街道筋には何ヶ所も桝形を設けて防御を考慮した町割りになっている事が読み取れます。

写真左:若宮付近の街並み
写真右:二本松神社


亀谷坂  幸田露伴ペンネームゆかりの地
二本松市街から竹田町に続く街道筋は標高差36mの峠を越えます。標高差だけ見るとそれ程の峠ではないと思いますが見た目の勾配はかなり急に感じます。
この地は幸田露伴のペンネームの由来になった地だとの事です。

説明板によると,
幸田露伴は20歳のときに文学を志し,電信技師として赴任していた北海道余市から上京の旅に出ます。
福島まで来たが,福島で一泊すると当時東京から郡山まで開通していた電車賃が不足するため,夜を徹して郡山まで歩くと決めて福島を発ったものの,この地に来たところで疲労が限界に達して,こうもり傘を立て野宿をします。野垂れ死にをする時がきたらきっとこんな状態だろうと思い,

  里遠し いざ露と寝ん 草枕  の句を詠んだとのことです。

2年後文壇デビューした時に,この地で露を伴にした一夜が忘れられずペンネームを ”露伴” にしたとの事です。 自虐ネタですが,歩き疲れても句が浮かぶあたりは凡人の私とは決定的に違います。

写真左:亀谷坂 (二本松側を望む)
写真右:峠にある幸田露伴句碑


高村(長沼)智恵子生家
街道沿いの二本松市油井に高村光太郎の詩集 「智恵子抄」で有名な高村智恵子の生家があります。
生家は造り酒屋で現在は記念館とともに一般公開されています。
智恵子抄は佐藤春夫の「小説 智恵子」や映画やTVドラマにもなっているので若い頃に観た方もいるのではないかと思います。

写真右:生家の裏庭から見た ”ほんとうの空”


説明板に載っていた高村智恵子の写真

高村光太郎の遺作 十和田湖畔にある 「乙女の像」 は妻である智恵子をモデルにしていると言われています。「乙女の像」の顔立ちとそこはかとなく似ている気がします。


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二本柳宿


二本柳宿は小さな宿場で 「五街道細見 岸井良衛 青蛙房」には,手前の油井町を宿場としています。二つの宿場が補完し合いながら宿駅の機能を分担していたのかもしれません。

北上してきた129号線を西に折れると二本柳宿になります。宿場の長さは500m程で直線に通る街道筋の両側に民家が並んでいます。宿場の西端には円東寺があり,ちょうど街道が参道のような感じになっています。

写真左:二本柳宿の街並み
写真右:街並みの終わりに建つ円東寺


鹿の鳴き石
二本柳宿を過ぎてすぐ坂の途中にある伝説の岩です。

説明板によると
昔この付近に沼があり竜神が住んでいたが,あるとき沼が決壊し水が枯れて,竜神の相手とはぐれてしまった。
竜神は鹿に化身してこの岩の上で相手を読んだが見つからず,山を越えて土湯の女沼に移り住んだとの事です。
この岩の周囲を左に三回廻ると鹿の鳴き声が聞かれるとの事です。

八丁目宿


番地が地名になったような面白い宿場名ですが,現在でも二本松市吉倉と福島市松川町の境になっている境川から8丁目にあたる事から八丁目宿という地名になったとの事です。

写真左:水原川に架かる明治18年(1885年)に建てられた空石積工法の石橋
写真中:街道の風景
写真右:相馬街道との追分に建つ六地蔵道標


浅川新町宿(間宿)・清水町宿


八丁目宿を過ぎると山間の道という感じが強くなります。
旧奥州街道,国道4号線,東北自動車道,東北本線,東北新幹線が清水町宿周辺に集まっています。地形として福島盆地に入るには好都合な場所なのでしょう。新しい交通機関の敷設や宅地開発などで旧街道の道筋が失われた部分が多いとの事です。

奥州街道はじめての尾根道
清水町宿のはずれ仲興禅寺の手前を北に折れると街道は少し急な上り坂になります。
日本橋から歩いて来ましたが,奥州街道はこの付近から初めて本格的な尾根筋を通ります。
街道歩きをしていると感じる事ですが,コンクリートのビルに囲まれたアスファルトの道路を歩くより,不便ではあるけど人里離れた土と緑の臭いがする素朴な道を歩く方がずっと楽しくて趣があります。

写真左:仲興禅寺の石仏群
写真右:国道4号線に架かる陸橋を渡ると舗装されていますが山道になります。


西に吾妻連邦を望む


共楽公園内を通る旧街道
歩き続けて行くと共楽公園として整備されている街道筋を歩きます。
ここは尾根道の北の端に位置しています。展望台からは福島盆地を望むことが出来ます。
明治天皇の東北巡幸のときこの場所で野立てを行い明治天皇もここから福島盆地を眺めたとの事です。

写真左:共楽公園の中を通る旧街道
写真右:公園内の”羽山嶽の碑群”


写真左:明治天皇伏拝御野立所
写真右:展望台から見える福島盆地


共楽公園を過ぎて急な坂道を下ると362号線と合流して福島市街の道を進みます。

福島城下

阿武隈川にそそぐ荒川に架かる信夫橋を渡るといよいよ福島城下に入ったという感じがします。
福島城は現在の福島県庁の所にあり,今では庭園跡が紅葉山公園になり土塁や外堀跡の一部が現存しています。

写真左:信夫橋から福島市街を望む
写真右:信夫橋北詰の道標


福島城下江戸口の図 文久3年(1863年)
信夫橋北詰の説明板に掲載されていた絵図です。 当時は荒川(旧名 須川)を渡った場所には桝形があり木戸の前は石垣が組まれていました。
現在では全く面影はありません。


END

2020年01月08日 レイアウト変更
2018年04月10日 作成

Column


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