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電子足跡:奥州街道歩き旅
古川宿から有壁宿へ

プロローグ

奥州街道を古川宿から新谷宿-高清水宿-築館宿-宮野宿-沢辺宿-金成宿を通り有壁宿まで歩いたページです。

心地よい未舗装の道があります。
この区間は高清水宿を越えて国道4号線から離れる付近から築館IC付近までと 金成宿を越えた付近から有壁宿手前までの2区間は断続的に未舗装の山道です。途中に地理院地図にも載っている”字蟹沢力石”や”明治天皇の字蟹沢御野立碑”などがあります。この道は奥州街道の道筋の中でも当時の道が良く保存されていると言われている区間です。

所々に小さい道標もありますし,下草が刈ってあるので藪漕ぎをしなくても歩ける快適な道です。
なんと言っても ”みちのく” の山の中に続く道は趣があると同時にちょっとした冒険心をくすぐります。

古川から有壁までは街道沿いに鉄道が通っていません。いつもは車中泊ですが今回は途中の宮野のホテルで宿泊でした。


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区間 通過する宿場  歩いた日 GPS
移動距離
古川駅-築館宮野 古川宿-新谷宿-高清水宿-築館宿-宮野宿-沢辺宿-金成宿-有壁宿 2018年10月15日 25.9km
築館宮野-有壁駅 2018年10月16日 19.8km


GPSログを
GoogleEarthでツアーする方法



↑地理院地図(電子国土Web)に詳細ルート地図とポイントの写真が開きます。



本地図はカシミール3DによりGPSデータを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。

古川宿

古川宿は大崎平野に位置しており,大崎平野の商業経済の中心地です。町村合併で古川市は廃止されて大崎市になりました。

緒絶の橋
古川市街の東側を流れる現在の江合川はかつて古川市街の北部から南へ流れていましたが,7世紀頃流れを東に変えて現在の地形が形成されました。流路を変えた後には川筋が残り,玉の緒(いのち)の絶えた川で緒絶川と呼ばれるようになりました。その川に架かる橋が緒絶の橋です。(説明板を要約)

この橋は歌枕の地で

 みちのくのをだえの橋やこれならむ ふみみふまずみ心まどはす
   (左京大夫藤原道雅 後拾遺集)

と詠まれています。

元禄2年6月26日(1689年5月10日) 松尾芭蕉と曽良は松島から直線距離で24kmほどのここ古川の歌枕の地である 「緒絶の橋」や更に北の歌枕「姉歯の松」 を目指して出立するも,路を違えて 石巻に行ってしまったとおくのほそ道に書いています。



醸室(かむろ)
緒絶橋のたもとに醸室と言われる飲食店街があります。元々は江戸時代後期から続く橋平酒造店の建物を改装して飲食店や特産品を販売する商店として営業しています。朝早かったので残念ながら営業していませんでした。



参考 姉歯の松
姉歯の松は緒絶の橋と並んで芭蕉が行きそびれた歌枕です。
姉歯の松は奥州街道沿いにはなくて,宮城県栗原市金成姉歯(かんなりあねは)にあります。

 栗原の あねはの松の 人ならば
    都のつとに いざといはましを
  在原業平

意味:
あの栗原の姉歯の松が人だったなら,都へのお土産にさあ一緒にと言って連れて行くのだがなあ。

新谷宿

江合川(荒雄川)を越えると旧奥州街道は田園のなかを進みます。田園のなかと言っても多くの地方の町がそうであるように,大きな商業施設が田園の中に開発されて市街地より車の往来が盛んです。
新幹線の高架を真近に見ながら進んで行きます。休塚,狐塚などの古くからの地名と思われる道を進みますが宿場の面影は希薄です。

新谷宿付近の風景


羽黒山公園
国道4号線沿いに小高い岡があります。平安時代後期に起こった東北地方の”前九年の役”では要衝の地だったとの事です。
秋は曼珠沙華(彼岸花)が一面に咲き誇り赤いじゅうたんを敷き詰めた様になるそうです。



高清水宿

高清水宿は高台の地に清水が湧いていた事に由来すると言われています。
確かに道は台町から一旦下ってから緩やかに登って少し高い場所に本町・中町・新町と宿場があります。



旧奥州街道の道筋を色濃く残した道


この小さな道標がこれからの大きな感動の始まりです。

高清水の旧宿場町を過ぎると伊藤ハムの工場があります。工場を右に見て国道4号線を進み影の沢付近で右に折れます。小深沢手前で奥州街道と書かれた小さな木製の道標があります。ここから築館IC付近までおよそ2.5kmほぼ未舗装の往時のままの様な道が続きます。

静かな森の中に旧奥州街道が続いています。


蟹沢の力石
地理院地図は地名として”字蟹沢力石”とその名前が載っています。

謂れは 平安時代後期の東北地方の 「後三年の役」の戦いのとき,源義家の家来 鎌倉権五郎影政という若武者がここにあった大石を谷に投げ込み,味方を勇気づけたという話が伝わっているそうです。(説明板より)

 参考 神田柳森神社の力石群
この写真は千代田区神田須田町にある柳森神社にある力石群です。
一般的に力石は鍛錬と娯楽を兼ねた力比べで,石を持ち上げて鍛錬すると共に力自慢を競ったものと言われています。

力石を過ぎると道は田園の中に続いています。広々とした風景が広がる開放的な道です。


明治天皇 御野立碑
  
ここも地理院地図に地名として”字蟹沢御野立”とその名前が載っています。


道は放牧場の脇を通って築館IC付近まで続いています。


築館宿

未舗装の快い坂を下ってくると築館ICが見えて突然現代に引き戻されます。築館宿へはあと4kmほどの行程です。築館は栗原市役所もあり比較的大きな町で国道4号線沿いは大きな商業施設が並んでいます。

写真左:築館市街に登る字館沢付近  写真右:栗原市役所


旧街道の家並
写真の後方の森は医王山双林寺の森で双林寺は天平4年(760年)建立されたとの事です。
境内には薬師瑠璃殿があります。周囲の地名は”築館薬師”で古くから信仰を集めていたことが分かります。

宮野宿

築館から宮野宿へは2.5kmほどで,一迫川の氾濫原の田園地帯を歩きます。
宿場内は宿場の面影は少なくて,少しカーブした道筋が旧街道だったのだなと思わせてくれます。

写真左:宮野宿手前の田園地帯の空    写真右:宮野宿の家並


本日の宿
ホテル グランドプラザ浦島
結婚式場を兼ねたホテルです。清潔で綺麗な部屋でした。やはり車中泊よりホテル泊の方が疲れがとれる感じがします。

日にちは変わり体力が回復したところで,フロントの受付の方達に見送られて出発です。

下宮野大仏付近

ホテルから出て直ぐに国道4号線から離れて北に進路をとります。 ”下宮野大仏” という地名の農家の前の道が雰囲気の良い旧街道らしかったので進みましたが雑木や雑草で通行不能でした。

地名に”大仏”とあるので大きな寺院があるのかと思いましたがそれらしいお寺はありませんでした。

城生野付近の風景  伊治(これはり、これはる)城址付近
奥州街道沿いには史跡などは見当たりませんでしたが、城生野という地名が示すように,この付近は古代の城柵 ”伊治城” があった所です。
伊治城は神護景雲元年(767年)に大和朝廷の東北侵略の拠点として築かれました。城跡は700m四方に及び規模の大きな城柵でした。

宝亀11年(780年) 一旦は朝廷に帰順した蝦夷のリーダ呰麻呂(あざまろ)が 奥羽の最高責任者 按察使の紀広純(あぜちのきのひろずみ)らを殺害して反乱を起こしました。(呰麻呂の乱)
後の阿弖流為(アテルイ)や母礼(モレ)など先住民である蝦夷達の長い抵抗戦の端緒でした。

注:高橋克彦 「北の燿星 アテルイ 火怨」では 呰麻呂(あざまろ)は”鮮麻呂”と表記されています。

稲むらの奥に見える山は栗駒山です


沢辺宿


城生野を過ぎて沢辺宿に行くには一迫川と二迫川の合流点付近の田園の中を進みます。二迫川に架かる橋を渡ると圃場整備で旧街道は消滅しています。
畦道を通って行けないかと思い進んで見ましたが用水路に阻まれて真っ直ぐには進めませんでした。素直に道路を進んだ方が良かったです。

三界万霊供養塔
田園を越えた山の麓の姉歯の門屋敷の前に三界万霊供養塔がひっそり立っています。

説明板を要約すると
文化15年(1818年)初夏仏縁日の33回忌に姉歯馬場屋敷菅原三郎兵衛が江戸時代中期の天明の大飢饉で亡くなった人達の33回忌の供養の為に建立したものとの事です。
全慶寺の過去帳から 天明6年死者55名 同7年23人 同8年61人 同9年19人 同10年10人 の死者が記録されています。当時檀家は150戸くらいとの事なので如何に多くの方達が亡くなったかが分かります。
これは葬儀が営まれた方達の人数で他にも行き倒れて犬やカラスの餌になった者も居たと記されているとの事です。

沢辺宿の家並
残念ながら宿場の面影は希薄です。
ただ空き地になっている敷地をみると,間口が狭くて奥行きが深いところは街道沿いの宿場だったと感じさせてくれます。


くりはら田園鉄道廃線跡
沢辺宿の外れで くりはら田園鉄道線 の廃線跡を見る事ができます。この鉄道はJR東北本線の石越駅から細倉鉱業所がある細倉マインパーク前駅まで26kmほどを結んでいました。2007年に廃線になり現在に至っています。
おくのほそ道の奥州上街道を歩いていた時にここから8km程離れた岩ケ崎でもくりはら田園鉄道の廃線跡を見たことがあります。


参考
冒頭の古川宿の所に書いた 歌枕 姉歯の松 は沢辺宿から南東に2kmほどの所にあります。

金成宿(かんなり)

金成は面白い地名です。
この地は平家物語や義経記などに登場し,源義経を鞍馬山から平泉に案内する手助けをしたとされる平安時代末期の黄金商人 金売吉次 の両親である炭焼藤太夫妻が住んでいたとされる場所です。

伝説によると
奥州平泉隆盛の頃,高貴な姫に炭焼きをしている男と夫婦になる様に神様のお告げがありました。姫はお供を連れて炭焼きの男を探して炭焼藤太とこの地で出会います。
姫は住まいを作るように言って砂金を炭焼藤太に渡したところ,藤太はこんな物なら炭焼き窯の裏山に幾らでもあると言って砂金がある所に案内すると,物凄い量の砂金がありました。
このとき藤太は砂金の価値を初めて知り,砂金を都に運んで大金持ちになりました。
いつしか藤太の村は金生と呼ばれ、炭を焼いた山は、金山沢と呼ばれるようになりました。
そして夫婦は三人の子宝に恵まれて長男が金売吉次になったとの事です。
金成宿の北側に炭焼藤太夫妻と伝えられている墓があるのですが旧奥州街道からは離れているので行けませんでした。

この伝説を私の文章で読んでも味も素っ気もありません。まんが日本昔話風に脚色して書いて常田富士夫か市原悦子のナレーション風に読んだら面白い話になるでしょうね。私には黄金も無いけど文才も無いです。

奥州街道を歩いていると金売吉次の伝説が幾つか出会います。白河城下の手前白沢宿には金売吉次兄弟のものと伝えられている墓があります。

金成宿の家並
代官所跡近くに金成ハリストス正教会や旧金成小学校の木造校舎があるのですが歩いていた時は失念していて訪れませんでした。


金成宿から有壁宿への未舗装の道

金成宿を過ぎると奥州街道は国道4号線沿いから離れて山の中を進みます。この区間は断続的ですが未舗装の雰囲気が良い土の道が続きます。この道は部分的に地理院地図には記載がありません。

小さな道標が入口です。




獣の足跡
街道を歩くのは人だけではありません。
偶蹄類の イノシシ か 鹿またはカモシカ の足跡ではないかと思いますが確証はありません。

実は直ぐそばに東北自動車道が通っています。車の音などは聞こえず静かです。
高速道路の高架の下を潜って東側に出てもまだ未舗装の街道が続いています。
道にはアケビが落ちていました。豊かな自然を感じます。


新鹿野地区付近
金成PA付近の新鹿野で一旦舗装の道に出ると広々とした空が広がっています。
新鹿野には一里塚が在りましたが今は案内板が立っているだけで塚らしきものは確認できませんでした。
驚くかもしれませんがここは高速道路のみならず東北新幹線も通っています。


十万坂
その新幹線と民家に挟まれて十万坂と言われる急な坂があります。
十万坂は平安時代後期の 前九年の役(永承6年 1051年~康平5年 1062年)のとき源義家が平泉の北衣川柵の安倍貞任を攻略した時に この地で十万挺の弓矢を作って衣川に向かった事から付けられた地名だと説明板に書いてありました。


注:十万坂の登口は民家の脇を通っていました。公道か民家の私道なのか判然としませんでした。私有地の可能性もありますので通行は配慮が必要です。

有壁宿

十万坂を越えると有壁宿はあと3km程です。
有壁宿は奥州街道で唯一残る本陣の建物が残っている宿場です。
本陣の写真は次のページに掲載します。



エピローグ

冒頭にも書きましたが本格的な未舗装の道でした。街道歩きが止められなくなる理由の一つがこの区間の様な江戸時代を彷彿とさせる未舗装の道を歩く事です。

ここまで来ると宮城県も北の外れで有壁宿を越えると岩手県に入ります。


END

2019年10月16日 ver6.07.01 伊治城址の読みを追加。 伊治城址(これはり、これはる)
2019年02月01日 作成 

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