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電子足跡:おくのほそ道歩き旅 
 酒田から吹浦を通り象潟へ
  おくのほそ道最北の地


鳥海山を背景に象潟を望む

プロローグ

このページは松尾芭蕉と河合曾良が歩いた ”おくのほそ道” を酒田から象潟まで歩いたページです。

象潟は松尾芭蕉と河合曾良が歩いたおくのほそ道の最北の地です。
途中、鳥海山の姿を眺めながら歩き、十六羅漢岩がある吹浦付近の海岸沿いの道は、爽やかな風が吹き抜けて気象と地名が良くマッチした美しい風景です。
本文中にも書きましたが象潟は松島の様な小島が海に浮かぶ風景が地震による隆起により象潟全体が陸地化しています。芭蕉が訪れた頃の風景を現代の風景から想像するのも楽しい時間です。

おくのほそ道 象潟の段を読むと芭蕉が象潟に並々ならぬ憧れと期待を持って訪れたと感じます。
松島の風景を 『其気色窅然(ようぜん)として、美人の顔を粧(よそ)ふ。』と書いていますが、象潟ではより具体的に紀元前5世紀中国の春秋時代末期の傾国の美女 ”西施” の様な憂いのある美しさであると書いています。こんな文章を読んだら、江戸時代の人のみならず現代人も一度は訪れてみたいと感じると思います。

この日は道の駅 象潟ねむの丘に車を置いて、1.6kmほど離れたJR象潟駅に行って羽越本線で酒田駅に向かい酒田駅から歩き始めました。道の駅 象潟ねむの丘は温泉施設もあり歩いた後に汗を流し疲れた筋肉をほぐすのに丁度良いです。


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都道府県 旧街道名   芭蕉が歩いた
日にち(陽暦
)
私が歩い
た日にち
GPS距離 備考
山形県/
秋田県
羽州街道 酒田~吹浦 1689/7/31 2009/10/24 42.1km ・吹浦を通る海岸沿いの道
・酒田駅~象潟駅
吹浦~象潟 1689/8/1


↑GPSログに写真が
マッピングされた地図が開きます

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GoogleEarthでツアー
する方法

カシミール3D 国土地理院 
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)


酒田

写真左は歩く前日、鳥海山ブルーライン四合目(標高1100m)の駐車場から見た酒田市街です。
市街中心部は明るい光が輝き、海にも船の明かりが見えています。
市街には明治期に作られた庄内地方の米の貯蔵庫の山居倉庫や大地主で大商家だった本間家旧本邸などがあります。酒田は北前船の寄港地であり商都として栄えた都市です。

  本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に

と謳われた様に本間家は三井家・住友家にも劣らない大地主であり大商家です。

また酒田は写真家の土門拳の出身地で最上川に架かる出羽大橋を渡った南岸に土門拳記念館があります。
記念館には別の機会に訪れたのですが昭和の時代を切り取った写真、肖像写真、ライフワークだった古寺巡礼の写真などが展示されています。美しいと云うだけの写真を超えた写真で、子供達が遊ぶ一枚の写真の前では思わず涙が流れ落ちました。

写真左:鳥海山から酒田市街を望む
写真右:山居倉庫(歩いた日とは別な日に撮影)


酒田市郊外から見える鳥海山
元禄2年6月15日(1689年7月31日)芭蕉と曾良は酒田を発って象潟に向かいますが、この日は朝から小雨で吹浦に着く前から雨が激しくなりました。”おくのほそ道”には 『雨朦朧として鳥海の山かくる』 と表現されています。


ここまで地理院地形図には酒田街道と書かれている道を歩いてきました。この道は海岸に沿って発達した砂丘の内側の道でした。海岸に向かう方向に旧青山本邸の看板があったので行ってみようと思い、左に曲がって海岸方向に進みました。

遊佐町


旧青山本邸
説明板によると
安政6年(1859年)漁夫として北海道に出稼ぎに行き、独立してニシンの刺網漁で成功して北海の漁業王と言われた青山留吉翁が3年間の工期を経て明治23年(1890年)に竣工した通称ニシン御殿といわれた建物です。



ここからは国道7号線の砂丘の上に続く道です。途中 ”十里塚” という地名がありました。調べたら ”羽州街道” だったとの事です。 その ”十里塚” 付近の風景です。


吹浦

象潟に向かって歩いていた芭蕉達は雨が激しくなったので吹浦で宿泊しています。
私はと云うと曇天だった空の雲が切れ始め青空が見えてきました。

月光川が日本海に流れ込む吹浦駅がある周辺は松の防風林の中を歩きます。心地良い道です。
それにしても ”月光川” とは美しい名前です。


十六羅漢岩
月光川を渡って少し歩いた岬の自然石に掘られた磨崖仏です。
インターネットで調べたら、この付近は鳥海山の噴火により流れ出た安山岩の地質でその安山岩に十六羅漢と釈迦・菩薩等22体の仏が彫られています。
そばに在る ”海禅寺” の住職・寛海(かんかい)和尚が地元の石工と共に彫り上げた物で、托鉢をしながら喜捨を集め、文久4年・明治元年(1864年)から5年間をかけ完成したとの事です。



吹浦の風景




 あつみ山や吹浦かけて夕涼み 芭蕉

この句は おくのほそ道 酒田の段 に ”暑き日を海に入れたり最上川” とともに載せられている句です。この句の ”吹浦かけて” の吹浦がこの周辺の地名です。

”あつみ山”は吹浦から南に直線距離で55kmほど離れた新潟県との県境に近い標高736mの山です。
カシミール3Dの ”見通し”機能 で調べると吹浦付近からあつみ山は見えるとの判定でした。
と、そのような地形的なことより広大な風景の中で、”暑い” 一日が終わろうとしている夕方、日本海から涼しい風が ”吹いて” 夕涼みしている泰然とした壮大な心象風景を感じます。

話は変わりますが
報道カメラマンの石川文洋氏が宗谷岬から沖縄まで歩いた記録 ”日本縦断 徒歩の旅” には

『女鹿から湯ノ田温泉を通り十六羅漢を眺めながら吹浦へ向かう海岸沿いの道はとてもよかった。』 
と書かれています。

石川文洋氏はこの道を南下して歩いて来たので私とは歩く方向が異なりますが、美しい海岸に沿って道が続き、海から 吹浦かけて夕涼み の句の様に心地よい風が吹き抜けていく道は風景のみならず空気感もとても良い道でした。昔の人はよくぞ 吹浦 という地名を付けたものだと感心します。

また、何という道路の構造なのか分かりませんが、道路から海岸に向かって棚の様にせり出した歩道が海岸の上に続いています。昔で言えば梯(かけはし)という事になるのかもしれませんが、とても歩き易い道でした。

女鹿 三崎峠 小砂川 関 ウヤムヤノ関

曾良旅日記には
吹浦を出立し1里で女鹿に来た。ここから難所で馬は通れない。大師崎とも三崎とも云う所を歩き、小砂川に行き塩越(現 象潟町)を目指して歩いて、途中 ”関” という村があった。ウヤムヤノ関と云う。と書かれています。

地理院地図には 女鹿、三崎峠、小砂川、関 という地名が掲載されているのでその地名を辿るようなルートで歩きました。ただウヤムヤノ関は場所が特定されていません。

三崎峠の風景
地理院地図に三崎峠は少し海に突き出た岬の付け根の部分に三崎峠と記載があります。私はこの山道を歩きました。


ところが、後日車で国道7号線を通ったとき、三崎付近の7号線の路傍に ”遊佐町 山形県奥の細道観光資源保存会”の方達が立てた ”奥の細道三崎峠” の標識があり説明板も掲げられていました。こちらの道が芭蕉達が歩いた道の様です。
また、象潟駅に有ったパンフレット(遊佐・象潟版 おくのほそ道歩くマップ 山形県NPO法人遊佐鳥海観光協会)にはイラストマップが掲載されていて7号線より海側に旧街道が続いていて整備されているようです。

いずれにしても三崎峠を越えると秋田県象潟町に入ります。



こちらが象潟駅に置いてあったパンフレットの絵地図です。
*クリックすると大きな画像が開きます。

小砂川付近の茅葺住居


鮭の遡上
象潟町川袋地区を流れる川で見た光景です。
海岸から200m位陸地に入った川幅10mにも満たない小さな川の橋の上から見た光景です。川面が反射して分かりずらい写真なのですが、物凄い数の 鮭 が川を遡上していました。

こんな光景を見たのは生まれて初めてです。
なんと云うか命を繋ぐ為に必死に泳いで遡上する姿は感動的でした。

有耶無耶の関
前述の様に 曾良旅日記には ”ウヤムヤノ関” おくのほそ道には ”むやむやの関” と書かれている関所は場所が特定されていません。地元の方にも聞いてみたのですが「名前は伝わっているけど場所は分からない。」との回答でした。

象潟町関地区にあった信号機の写真で許してください。

象潟の海に沈む夕日

前ページ ”羽黒山から鶴岡を通り酒田へ” のページにもこの夕日の写真を掲載しました。この海岸で撮影した写真です。

この夕日が沈むとき グリーンフラッシュ を見ました。
気象条件が揃ったとき太陽が海に沈む一瞬 緑色 に輝く現象です。かなり稀な現象なのでグリーンフラッシュを見た人は幸せになると言われています。
グリーンフラッシュは日本海夕日海岸歩き旅の時にも見ました。2度も見たのでかなり幸せになったのだと思います。

象潟


以下におくのほそ道 象潟の段を一部引用します。


象潟

(略)・・・

其朝天良く霽て、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟を浮かぶ。先能因島に舟をよせて、三年幽閉の跡をとぶらひ、むこふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。江上に御陵あり。神功后宮の御墓と云。寺を干満珠寺と云。此処に行幸ありし事いまだ聞かず。いかなる事にや。此の寺の方丈に座して簾を捲けば、風景一眼の中に尽きて、南に鳥海、天をささえ、その陰うつりて江にあり。西はむやむやの関、路をかぎり、東に堤を築て、秋田にかよう道遥かに、海北にかまえて、浪打入る所を汐こしと云。江の縦横一里ばかり、俤 松島にかよいて、又異なり。松島は笑うが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくわえて、地勢魂をなやますに似たり。

 象潟や雨に西施がねぶの花

(略)・・・

(以上 芭蕉 おくのほそ道 岩波文庫より)


この句に詠まれた ”西施” は紀元前5世紀中国の春秋時代末期、越王勾践(こうせん)が呉王夫差(ふさ)に献じた傾国の美女。
”ねぶの花”は合歓の花で夏の季語です。
写真の西施像は象潟の蚶満寺園地に立っていた像です。


東北の日本海側の少し湿度を感じる空気の中に静かに浮かぶ島々の風景を、憂いのある傾国の美女に例えたのはなんと繊細な感性なのかと思います。

象潟の風景


私が象潟の蚶満寺に着いた時は日もとっぷり暮れて闇の中で蚶満寺園地の中を見学しました。
後日 車で再訪して象潟の風景を見て回りました。

芭蕉が訪れたときと現在とでは風景が一変しています。
象潟は元々は松島の様な海に小島が浮かぶ地形で九十九島とも言われていました。芭蕉が訪れてから115年後の文化元年(1804年)に大地震が襲い海底が隆起して現在のような陸地になりました。

実は学生の頃 東北地方を電車で旅した時、車窓から田園の中に幾つもの墳丘が重なったような風景を見た記憶があったのですが、ずっとそこがどこだったのか思い出せませんでした。
象潟を訪れて、ここがあの記憶の場所だったのかとようやく思い出す事ができました。



能因島
先に引用したおくのほそ道に 『先能因島に舟をよせて、三年幽閉の跡をとぶらひ・・・』 とあるように芭蕉は舟に乗り能因島を訪れています。

『三年幽閉の跡をとぶらひ・・・』とあるので、百人一首に載っている 能因法師 がこの島で三年間幽閉されていたのかと思いましたが、説明板にもインターネット情報にも幽閉されていたという記載はありませんでした。
説明板によれば、この島がいつから能因島と呼ばれるようになったのかははっきりしておらず、元禄14年(1701年)にの記録に 「めぐり島 願誓坊の墓あり 浄専寺」の記述があり、このめぐり島が能因島ではないかと推測されているそうです。
奥州を旅した能因法師の伝承が融合してめぐり島がいつの頃からか能因島と言われるようになったと考えられているとの事です。




蚶満寺山門
おくのほそ道では ”干満珠寺” と書かれているお寺です。この寺の座敷に座って、簾を巻き上げると象潟の全景を見渡すことが出来たと書かれています。
上記の様に現在は地形が変わっているのですが、現在の地形から想像すると蚶満寺は湾の内側の少し突き出た所に在り、九十九島と言われた海に浮かぶ小島が一望できたのだと思います。




蚶満寺山門付近から見た象潟の風景


エピローグ

松島から東北地方を横断する形で歩いた私のおくのほそ道歩き旅はここ象潟で終わりです。
その後に歩いた北陸街道や奥州街道でも芭蕉と曾良が歩いた足跡にいくつも出会いました。

私に古典文学や俳句の知識があれば、興味深い写真を写せて、興味深い記事が書けると思いますが、授業で古文を習っていた時は全くと言ってよいほど興味がありませんでした。

この歳になって歩くという行為のなかで古典や俳句或いは故事に触れると、なんといったら良いか、無機質な文字のなかから風景や情景が、そしてその時その人が書いた感情が浮かび上がるような感覚を感じました。

松尾芭蕉が書いた ”おくのほそ道” と河合曾良が書いた ”曾良旅日記” が存在する事で、300年以上前に書かれた文学と記録が正確にわかり、元禄2年(1689年)に芭蕉と曾良が歩いた道を追体験することで空間と時間の旅を楽しむという旧街道歩きの醍醐味を知ることができました。おくのほそ道を歩いた事で街道歩きにハマった次第です。
皆さんもおくのほそ道の文庫本を手に、どこか付近の おくのほそ道 の道筋を歩いてみると良いと思います。


END

2019/12/12 ver6.11.01 一部内容変更。

2019/12/09 作成

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