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電子足跡:おくのほそ道歩き旅
一関から平泉 (奥州街道)

プロローグ
夏草や兵どもが夢の跡 芭蕉
五月雨の降りのこしてや光堂 芭蕉
卯の花に兼房みゆる白髪かな 曾良
前夜,一関に宿泊した芭蕉と曽良は元禄二年五月十三日(1689年6月29日)に一関を発ち平泉を訪れています。
一関から平泉までは9㎞ほどで,高館・衣川・中尊寺・金色堂などを訪れています。
訪れたあと,その日のうちに一関に帰り前夜と同じ芭蕉二夜庵に宿泊しています。
”平泉の段”は石巻から平泉までの素気ない文章から一転して,とうとうと流れる川の流れの中に,時には瀬をうち,時には渦巻くような,流麗な美しい文章です。
文庫本の僅か1ページの文章の中に,平泉周辺の風景を映し込み,100年にわたる奥州藤原氏の歴史と義経主従の悲劇を織り込み ”儚い”という言葉が自然と頭に浮かびます。
さて,平泉はこれまで数回訪れています。このページはその時々の写真を使って構成しています。季節が混在した写真がありますがご了承ください。
都道府県 | 旧街道名 | 芭蕉が歩いた 日にち(陽暦) |
私が歩い た日にち |
GPS距離 | 備考 | |
岩手県 | 奥州街道 | 一関~平泉 | 1689/6/29 往復 | 2009/02/14 | 9.2km | JR一関駅 平泉駅 |
一関から平泉ルート地図

↑GPSログをGoogleEarthでツアーする方法 |
![]() |
↑地理院地図(電子国土web)に詳細ルート地図とポイントの写真が開きます。 |
カシミール3D 国土地理院
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)
一関から平泉へ
芭蕉が歩いた道 一関・平泉周辺
オレンジ色の道が芭蕉が歩いた道です。
・石巻方面からは一関街道。
・一関から平泉まで奥州街道を往復
・一関から岩出山(宮城県)へは奥州上街道
写真左:一関市内 芭蕉二夜庵跡
写真右:平泉市街の奥州街道


無量光院跡
”夏草や兵どもが夢の跡” 芭蕉
”おくのほそ道”では義経が住んでいた高舘を訪れ,笠を敷いて腰を下ろし,杜甫の漢詩を引いて奥州藤原三代の栄枯盛衰と義経主従の悲劇を回顧して涙にくれたとあります。
無量光院跡は遺構が微かに残る草むした平地に所々松が生い茂り, 芭蕉の句が最も良く似合う場所です。
春望 (杜甫)
国破山河在 国破れて山河在り
城春草木深 城春にして草木深し
感時花濺涙 時に感じては花にも涙を濺ぎ
恨別鳥驚心 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
烽火連三月 烽火三月に連なり
家書抵萬金 家書萬金に抵る
白頭掻更短 白頭掻かけば更に短く
渾欲不勝簪 渾べて簪に勝えざらんと欲す
写真左:無量光院跡地前の奥州街道
写真右:無量光院跡 後ろの山は金鶏山


無量光院復元図

奥州藤原氏三代秀衡が建立。宇治の平等院を模して造られたとされています。
彼岸の頃には,西にある金鶏山の山頂に夕日が沈む光景が望めるとのことです。
(説明板より抜粋)
中尊寺
奥州街道を斜めに折れて月見坂を登って中尊寺を参詣します。月見坂の両側には弁慶堂,地蔵堂,瑠璃光院,薬師堂などが並び極楽浄土に続く道を演出しています。
現代,中尊寺は奥州街道から奥まった場所に位置していますが,中尊寺建立の時に当時の主要道を開山堂,釈尊院,金色堂,月見坂付近を通るルートに付け替えて街道を通る人々に中尊寺の伽藍が見える様に造営されたと言われています。
これまで ”五月雨の降りのこしてや光堂”
は風雪に耐えてかろうじて残った金色堂の風景を詠んだ句と思っていましたが,読み返してみると,時の流れのなかで儚い瞬間が消え失せていっても,うす暗いモノトーンの闇の中に,人の営みが一点の光の様に輝いている心象風景を詠んでいるように感じます。
月見坂
季節や天候によって異なる表情を見せる月見坂



写真左:中尊寺本堂
写真右:大長寿院山門に続く道


写真左:紅葉の不動堂
写真右:金色堂


夕景の不動堂

平泉周辺の道
この章は”おくのほそ道歩き旅”とは別の日に平泉周辺を気の趣くままに歩いた道の紹介です。平泉は観光客が多く訪れる中尊寺金色堂,毛越寺以外に周辺には日本の原風景が広がっています。
中尊寺の北側,衣川の氾濫原の平地は奥州藤原氏以前の安倍氏頃から政庁などが置かれていたとされ所々で遺構を見る事ができます。
また,中尊寺南側の里山の中は遊歩道が整備されていて深い木立の中を気持ちよく歩く事が出来ます。
歩いた日 | 天候 | GPS移動距離 | 備考 |
2013年11月16日 | 晴れ | 13.0㎞ | 平泉町営中尊寺第2駐車場に駐車 |
平泉周辺歩き地図

GPSログをGoogleEarthでツアーする方法 |
衣川
現在は河川改修されて何の変哲もない川ですが,前九年の役をはじめ幾多の歴史があります。
芭蕉はおくのほそ道に
”衣川は和泉が城をめぐりて,高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は,衣が関を隔て,南部口をさし堅め,夷(えぞ)をふせぐとみえたり。陼(さて)も義臣すぐつて此城にこもり,功名一時の叢(くさむら)となる。” (岩波文庫 芭蕉おくのほそ道より)
と衣川について書いています。
蝦夷軍・朝廷軍の戦い (延暦八年胆沢合戦)
芭蕉が”南部口をさし堅め,夷をふせぐとみえたり。”と書いた衣川は,古代朝廷の支配地と先住民の土地である蝦夷の地を分ける川でした。
延暦八年(789年)この地に進行した数万人と言われる朝廷軍は,当時蝦夷と言われていた先住民は阿弖流為(あてるい)と母礼(もれ)を中心とする蝦夷軍と対峙。衣川を越えて巣伏村(現在の岩手県奥州市付近)を目指して侵攻するも地の利を得た蝦夷軍に完敗。その後10年以上にわたり幾つかの戦いがあり,延暦20年(801年) 征夷大将軍 坂上田村麻呂率いる朝廷軍に敗れ,阿弖流為と母礼は京に送られ現在の大阪府枚方市で処刑。処刑地は枚方市牧野坂2丁目 牧野公園内の阿弖流為・母礼の塚と言われています。
義経主従の悲劇 (衣川の戦い)
時代は下り文治5年(1189年)
都から落ち延びて奥州藤原氏の庇護を受けていた義経主従は鎌倉幕府からの圧力に屈した三代泰衡軍に攻められて,弁慶・兼房等家臣は討ち死。義経は正妻の郷御前と4歳の娘を殺害した後に自害。
ここが鎌倉幕府成立の立役者義経主従の最期の地です。
中尊寺に続く月見坂の登口付近に崩れた五輪塔があります。弁慶の墓と言われています。
写真左:伝 弁慶の墓(@月見坂登口)
写真中:月見坂から衣川方面を望む
写真右:衣川(下流を望む)






長者ケ原廃寺跡
元々は奥州藤原氏の御用商人金売吉次の屋敷跡と言われていましたが,発掘により一辺約100mの築地塀,門やお堂跡などが確認され,平安時代後期に建てられた大規模な寺院跡である事が判明しました。
出土品などから奥州藤原氏以前の安倍氏の時代の遺構ではないかと言われており,前九年の役(1051~1062年)で安倍氏が滅ぼされた時に消失したとされています。


衣川区 並木前・清水の上・七日市場・六日市場付近の道
なんかホッとする風景です。
写真左:並木屋敷跡 衣川柵
写真右:清水の上地区の街並み


写真左:七日市場跡
写真右:七日市場付近の農家


中尊寺北参道
新しい衣川橋の南側の堤防を西に進むと,昔の県道300号線の跡にぶつかります。昔の橋の欄干が残っている所にお地蔵さんが立ちその脇から中尊寺北参道が続いています。




里山の遊歩道
金色堂と讃衡蔵の間に南に下る道があります。中尊寺を建立した時に当時の主要道を中尊寺境内に付け替えたと言われていますがおそらくその道ではないかと思います。
季節が晩秋でしたので紅葉の中を落ち葉を踏みしめながら歩きました。


道は毛越寺北側の斜面を通っています。


END
2019/12/12 ver6.11.01 一部内容変更。レイアウトの方式を変更
2018/12/22 ver5.17.0 ポップアップで起動する地図をGoogleMapから地理院地図(電子国土web)に変更
2017/09/22 作成
Column
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