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電子足跡:おくのほそ道歩き旅
 村山(楯岡宿)から立石寺(山寺)へ
  羽州街道を歩く道


プロローグ

このページは松尾芭蕉と曽良が歩いた おくのほそ道 を羽州街道の山形県村山市(楯岡宿)から立石寺(山寺)まで歩いたページです。立石寺(山寺)は”閑さや岩にしみ入る蝉の声”の句で有名なお寺です。おそらく芭蕉が見た風景とほぼ同じ風景が現代まで続いています。 

芭蕉と曽良は堺田から山刀伐峠を越えて,清風という尾花沢(山形県)で紅花問屋営んでいる俳人を訪ねて歓待を受け尾花沢周辺に10日ほど滞在します。
人々から慈覚大師が建てた立石寺(山寺)は一見の価値があると進められて立石寺(山寺)へいく事になります。尾花沢から楯岡宿(現在の村山市)まで清風が手配した馬で向かいます。

この歩きは本来ですと尾花沢から羽州街道を南下して立石寺を目指した方が芭蕉達の足跡に忠実ですが,尾花沢には鉄道が通っていないので、車を立石寺付近の駐車場に置いて,JR村山駅に戻りそこから歩き始めました。

この道は天童までは羽州街道を通る道です。
羽州街道は福島県桑折宿で奥州街道と別れて宮城県の山間部を通り山形に入り上山-山形-天童-楯岡(村山)-尾花沢-新庄を通り秋田県に抜け青森県の油川で再び奥州街道と合流していました。


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都道府県 旧街道名   芭蕉が歩いた
日にち(陽暦
)
私が歩い
た日にち
GPS距離 備考
山形県 羽州街道 尾花沢~立石寺 1689/7/13 2009/06/13 28.1km ・JR村山駅~山寺駅
・東根の大ケヤキへの道含む


 GPSログをGoogleEarthでツアーする方法



↑GPSログに写真がマッピングされた
 地図が開きます


カシミール3D 国土地理院 
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)


楯岡宿(村山市街)付近


現在は山形新幹線が止まる山形県の小都市です。
元々は東側の楯山にあった最上氏の支配下の楯岡城の城下でしたが1622年(元和8年)に廃城になり,家は羽州街道沿いに移って宿駅として発展しました。
山沿いの田園の中に広がる街並みは旧街道の面影はあまりありません。ただ所々土蔵が残る旧家が在って栄えていた面影を感じます。

六田宿

六田宿は間宿で楯岡宿と天童宿の間に発展しました。
(間宿とは宿場と宿場の間に自然発生的にできた宿場。本来は宿泊は禁止されていました。)

”芭蕉の歩いた六田路”の道標
六田は白水川,乱川などが形成した扇状地で湧水も豊富なうえ小麦の栽培にも適していたので,”麩”の生産が盛んでした。
下の写真にも小さく ”ふ” の看板が写っています。文久年間創業の”文四郎麩”の看板です。



東根の松並木(天然記念物)  JR神町駅とJR乱川駅の間にあります。


東根の大ケヤキ
ルートを調べているとき,地図に”東根の大ケヤキ”と載っているのを見つけました。芭蕉と曽良が訪れた訳ではないのですが,地図にも掲載される大ケヤキに興味を持ったので遠回りですが訪れてみました。
元は東根城(小田島城)が在った東根小学校にその大ケヤキはあります。
樹齢1500年以上,幹周16m,樹高28m 卑小な自分が恥ずかしくなるような圧倒的な存在感です。


天童城下

中世は天童城の城下町でしたが,1584年(天正12年)最上氏に攻められ落城します。その後最上氏の支配下になりますが,1622年(元和8年)最上氏のお家騒動で改易になった以後は特定の城主が不在の状態が続き城下町より宿場町として発展しました。

天童と言えば将棋駒の生産で有名です。天童藩の財政は窮乏を極め,藩士達の内職として駒作りが盛んになったとの事です。
現在,市街は昔の面影は少ないですが,舞鶴山の麓にはお寺や神社が残り雰囲気が良いです。

東村山郡役所資料館
舞鶴山の西側の麓にあります。
明治12年 東村山郡役所として建築され,昭和60年に復元工事されて資料館として公開されています。

扇状地を歩く
天童市街を越えると道は南東に曲がり立谷川などが形成した扇状地の扇頂を目指して歩きます。
立石寺(山寺)は山から扇状地に変る扇頂部分に在ります。

国道13号線(山形バイパス)を越えた辺りから街並みが途絶え田園になりますが,すぐにサクランボの果樹園が広がります。地理院地形図を見ると扇央部は殆ど果樹園の植生になっています。
扇端部は水が豊富なので集落と水田が広がり,扇央部は水が少なく土壌も痩せている為に果樹園に適しているというまるで教科書の様な風景を見る事ができます。
春,桜の花が咲く頃にも訪れてみたいものです。

写真左:扇央部に広がるサクランボの果樹園
写真右:山形県名産の佐藤錦


芭蕉 まゆはきの句碑
石倉地区を過ぎて南に曲がると芭蕉の句碑があります。

  眉掃きを俤にして紅粉の花  芭蕉

説明板によると,この地でこの句を詠んだのではないかと言われているとの事です。
当時この周辺はベニ花畠が広がり,芭蕉が歩いた時期は西暦の7月13日なのでベニ花が咲き,遠く月山にはまだ残雪が残り見事な眺望だったのではないかと思います。

そして現代では春には桜が咲き誇り,桜桃が実る土地になっています。

立石寺(山寺)

貞観2年(860年) 第三世天台座主慈覚大師円仁が開いた天台宗の霊山です。
芭蕉と曽良は未の下刻(午後2時20分から3時頃)に到着して宿坊に投宿した後に立石寺を参拝しています。

  閑かさや岩にしみ入る蝉の声  芭蕉

立石寺に私の駄文は不要です。霊山の雰囲気をご自身で訪れて感じて頂くのが一番良いと思います。
と言って文章を考える煩わしさを放棄しているのですが、
立石寺の霊気と芭蕉の句が混然一体となって,心が穏やかになる感覚を感じます。





エピローグ

余談ですが付け加えると,小学生のとき国語の授業で おくのほそ道 を習いました。
その時に ”閑かさや岩にしみ入る蝉の声” も教科書に載っていたのですが,
先生の解説は 「”閑かさや”と言っているけど,実際は蝉がうるさいくらい鳴いていてちっとも静かなんかではない。でも,蝉がうるさいくらい鳴いて岩に染入ると表現する事で,閑かさがより強調されて静寂さを感じる事ができる。」と言うものでした。
その時はそんなものかなと思う程度でしたが,例えばドラマでも本当に悲しいシーンのとき,役者が泣きじゃくる訳ではなく淡々と演じるシーンを見るとより深い悲しみを感じる事があります。
逆説的な表現をする事で情景がより鮮明になると言う事を習いました。
芭蕉の句を読むと立石寺を訪れた事はなくても,むき出しの岩肌と深い木立の中の伽藍の風景を静寂が支配している空間を感じる事ができます。今思えばあの先生も良い授業をしてくれたものだと感謝します。

END

2019/12/12 ver6.11.01 一部内容変更。レイアウトの方式を変更
2019/10/29 ver6.08.0 プロローグに羽州街道の記述を追加
2018/12/22 ver5.17.0 ポップアップで起動する地図をGoogleMapから地理院地図(電子国土web)に変更
2018/02/28 作成

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