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電子足跡:おくのほそ道歩き旅
 新庄宿から最上川を下って羽黒山へ


プロローグ

このページは松尾芭蕉と河合曾良が歩いた ”おくのほそ道” を山形県新庄市から最上川を下り羽黒山まで歩いたページです。


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芭蕉と曾良は最上川を本合海から清川まで船で下っています。観光気分で船に乗った訳ではなく、当時この区間の最上川流域に道は無く、本合海から清川までは船運だけが唯一の交通手段でした。
現代では古口から草薙まで観光船下りが運行されています。途中 ”仙人堂” ”白糸の滝” と「おくのほそ道」にも描写がある風景に出会います。元禄2年に芭蕉と曾良が見た風景とほぼ同じ風景を現在でも見る事が出来る区間です。

 五月雨をあつめて早し最上川  芭蕉

この句を最上川船下りの船上から、滔々(とうとう)と流れる最上川の川面を見ながら味わうとより鮮明に当時の情景が浮かんでくると思います。

そして、庄内平野の東端を歩き現在でも信仰を集めている羽黒山へと歩きました。
羽黒山の山域は鬱蒼とした杉の森に包まれ、森の中に続く石段を踏みしめて登って行きます。
山頂には荘厳な出羽三山神社(三神合祭殿)が建ち神域に足を踏み入れて、清々しい気持ちになります。

都道府県 旧街道名等 芭蕉が歩い
た日(陽暦)
 
私が
歩いた日
  GPS移動距離 備考
山形県    ・最上川川下り
・羽黒街道(一部)
1689/7/19 2009/09/12 新庄宿-古口 17.4km
古口-草薙 10.5km 最上川船下り
草薙-羽黒山 22.8km  

↑GPSログに写真が
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カシミール3D 国土地理院 
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)


新庄宿付近

新庄市は江戸時代新庄藩6万石の城下町でした。市街の道を歩いていても城下町という雰囲気はありませんでしたが駅舎の中には藩政時代から続く新庄まつりの山車が展示してありました。市街の道路や建物は変わっても文化は残って引き継がれているのだと思います。

新庄市南部の芭蕉と曾良が乗船した本合海は最上川の船運の主要な港でした。
明治初頭までは芭蕉と曾良が降船した庄内地方の清川まで最上川沿いに道は無く船運だけが唯一の交通手段だったとの事です。

下の最上川の写真をご覧いただけると分かるかと思いますが、この区間の最上川は急峻なV字谷の中を流れており、山形県東部山間地に降った雨はほぼこの区間に集まる地形です。重機やダイナマイトなどが無く、河川改修も進んでいない時代に道を開削するのが難しかったと容易に想像できます。

最上川




下記はおくのほそ道の最上川の段の引用です。


最上川

(略)・・・

板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の滝は青葉の隙々に落ちて、仙人堂、岸に臨み立。水みなぎって舟あやうし。

 五月雨をあつめて早し最上川

(岩波文庫 芭蕉おくのほそ道 より)



前ページ 楯岡宿(村山)から新庄宿へ にも書きましたが、
この句は大石田で開かれた連句の会の発句 "五月雨をあつめて涼し最上川" をのちに推敲して ”涼し” を ”早し” に変えて おくのほそ道 の”最上川”の段に載せられました。

 「五月雨を・・・」 の句はこの川下りのときに詠まれたと思えるような風景が流れていきます。

板敷山、白糸の滝はともに歌枕で、板敷山は最上川の南にある標高630mの山です。
最上川は芭蕉が表現した ”左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。” の様に南岸の板敷山、土湯山、高森山。北岸の田代山、鍋流シ森、黒森山に挟まれた森深いV字谷を流れています。

”曾良旅日記”では
元禄二年六月三日(1689年7月19日) 新庄を出立して、本合海で船に乗り、古口に船が着き、船を乗り継いで清川に着いたとあります。清川に着く間に仙人堂・白糸の滝が右側に在ったと書かれています。

本合海 芭蕉乗船之地


本合海の風景
左の写真の左上に芭蕉と曾良の銅像と歌碑があります。


現在、最上川の観光船下りは本合海からではなく、本合海から更に8kmほど下った”古口”から発着して”草薙”まで運行されています。約1時間の船旅です。

写真左:古口周辺の風景  写真右:古口の発着所


白糸の滝 仙人堂の風景
おくのほそ道に ”白糸の滝は青葉の隙々に落ちて、仙人堂、岸に臨み立。” と描かれた風景

仙人堂は正式には 外川神社 云う神社です。
仙人堂には言い伝えがあって、文治3年(1187年) 源義経主従が頼朝に追われ平泉に行く途中、この地で休んだのですが、従者の一人の常陸坊海尊がこの地に留まり 仙人堂を建立したと伝わっています。常陸坊海尊は修行を行い長寿だったので仙人堂と呼ばれる様になったとの事ですがあくまで伝承です。
現在では、川を渡るしか交通手段が無い秘境の神社として知られ、縁結びの神社として信仰されているそうです。

写真左:白糸の滝
写真右:仙人堂(外川神社)




現在の観光船下りの終着は草薙ですが、芭蕉と曾良は草薙から更に下り、清川まで船で下って船を降りています。
芭蕉上陸の地の清川関所跡には銅像と句碑が立っています。
句碑には ”芭蕉荘内上陸地” と書かれていました。清川付近からは庄内地方という事なのだと思います。

おくのほそ道に ”板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。” と表現された山間を流れる最上川が清川付近で庄内平野に至り、庄内平野の豊かな稔りの風景に変わりました。





羽黒山

羽黒山へは庄内平野の東端の山塊と庄内平野の際の道を歩きました。
曾良旅日記には 雁川、羽黒手向荒町と云う地名が記されていて、私が歩いた道沿いには狩川、羽黒町手向(とうげ)と云う地名があるのでそう間違ってはいないと思います。
また途中に ”羽黒街道追分石” という史跡がありました。羽黒街道は鶴岡から羽黒山に通じる道でした。

宿坊が立ち並ぶ門前町を過ぎて京田川への坂道を下ると須賀の滝があり、国宝羽黒山五重塔が鬱蒼とした杉の中に見えてきます。

写真左:須賀の滝
写真右:国宝羽黒山五重塔


羽黒山五重塔を過ぎると羽黒山頂まで石段の登り坂が続いています。途中10kmほど船旅だったとは言え,30km以上歩いてから、標高差300mほどの羽黒山の石段を登るのはかなり辛かったです。言い訳がましいですが、石段は良い風情だったのですが、あまりの辛さに写真を写すゆとりが無かったので写真は掲載できません。
もし石段を登って羽黒山に参拝するのでしたら、羽黒山への石段は ”修行の石段” と思って登ってください。
なお現代は ”羽黒山自動車道” が山頂まで通っているので車で簡単に行くことができます。

 有難や 雪をかほらす 南谷   芭蕉

この句は元禄2年6月3日(1689年7月19日)に羽黒山を訪れ別当代会覚阿闍梨に会い、南谷の別院に宿泊してもてなしを受け、翌日本坊で開かれた連句の会の発句であると ”おくのほそ道” に書かれています。

陽暦の7月19日に南谷に残雪があるとは思えませんが、残雪が残る月山から吹いてくる涼しい風に雪を感じたのではないかと思います。

私の経験ですが、夏場の強い日差しの中を歩いて木陰に入り休んでいる時、汗ばんだ身体を風が吹き抜けるときの心地良さは ”有難や” という気持ちになります。

南谷は石段の中ほどから南谷に続く道がありますが、前述の様に疲労困憊な状態でしたので南谷へは行きませんでした。

出羽三山神社(三神合祭殿)
出羽三山は羽黒山・月山・湯殿山の総称です。それぞれ羽黒神社・月山神社・湯殿山神社があります。
羽黒山頂にはそれを合祀した大きな社殿が建っています。


エピローグ

この区間を歩いたのは9月中旬ですが、おりからの秋霖の雨が降り、芭蕉が歩いた五月雨の季節を彷彿とさせる雨でしたが、でも初夏と初秋ではやはり雰囲気が異なります。芭蕉と曾良が歩いた同じ季節に同じ道を歩いたとしたら

 五月雨をあつめて早し最上川
 有難や 雪をかほらす 南谷

の句がもっと実感が湧き、味わい深いものになるような気がします。


END

2019/12/12 ver6.11.01 一部内容変更。
2019/11/12 作成

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