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電子足跡:おくのほそ道歩き旅
 羽黒山から鶴岡を通り酒田へ


プロローグ

このページは松尾芭蕉と河合曾良が歩いた ”おくのほそ道” を羽黒山から鶴岡を経由し酒田まで歩いたページです。

芭蕉と曾良は元禄2年6月10日(1689年7月26日)羽黒山を発って鶴ヶ岡城下に向かい、鶴岡藩士の家で連句一巻を巻いています。
6月13日(1689年7月29日)鶴岡から川船に乗って酒田の湊に向かい夕刻に着いたと書かれています。”酒田” の段には以下の2つの句が載せられています。

  あつみ山や吹浦かけて夕すずみ

  暑き日を海にいれたり最上川


歩いたときは酒田駅付近に車を駐車して、電車で鶴岡駅に行き、鶴岡駅からバスで羽黒山に行って、先回青色吐息で登った石段を下り、宿坊が連なる門前町を抜け、県道47号線を歩き鶴ケ岡城址に向かいました。

鶴岡からは芭蕉達が乗った川船は現在は運行されていませんので、鶴岡市内を流れる内川沿いに歩き、赤川に合流したあとは赤川に沿って歩きました。
赤川は以前最上川に合流していましたが、昭和2年頻発する洪水を防ぐために砂丘を切り開いて日本海に直接流れる様に川筋を付け替えたとの事です。
付け替えてられた新赤川を過ぎてからはそばを流れる京田川に沿って酒田に行きました。

話は前後しますが
”おくのほそ道” の構成では ”酒田”の段 の前に ”羽黒”の段 があります。
芭蕉と曾良は最上川を下り羽黒山に来たあと、月山に登り、月山の山小屋で一泊して、夜明けを待って湯殿山に行っています。その道をまた引き返して羽黒山の南谷の宿坊に戻っています。
阿闍梨の求めにより以下の出羽三山順礼の句を残しています。

  涼しさやほの三日月の羽黒山

  雲の峰いくつ崩れて月の山

  語られぬ湯殿にぬらす袂かな

  湯殿山銭踏む道の涙かな  曾良

その後、羽黒山から鶴岡-酒田へと向かっています。

まだ子供が小学生だった頃、今は亡き父と3人で湯殿山から月山に登り阿弥陀ヶ原まで歩いた事があります。この区間はもう一度歩こうと思っているうちに歩きそびれてしまいました。


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都道府県 旧街道名   芭蕉が歩いた
日にち(陽暦
)
私が歩い
た日にち
GPS距離 備考
山形県 ・羽黒街道
・赤川川下り
羽黒山~鶴岡 1689/7/28 2009/10/02  41.5km 内川、赤川、京田川沿いを歩いて酒田へ
鶴岡~酒田 1689/7/29


↑GPSログに写真が
マッピングされた地図が開きます

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する方法

カシミール3D 国土地理院 
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)


羽黒山

羽黒山から石段を下り、国宝羽黒山五重塔に来た時、小学生の体験学習だったのか、修験者の装束を身にまとった方が小学生達に羽黒山の歴史や修験者の心得や五重塔の説明を行っていました。
修験者の装束を身にまとった方の説明が一段落すると、小学生が大きな声で「うけたもうた。」(=承りました)と返事していたのがちょっとした驚きでした。

鬱蒼とした羽黒山の森を過ぎると門前町の宿坊街を通ります。写真右の様な宿坊が軒を連ねています。
宿坊は何軒もあって、現代でも多くの方達の信仰を集めているのだと思いました。



県道47号線の風景

この道からは庄内平野の豊な田園風景が望めます。

出羽三山神社の大鳥居
宿坊街を過ぎて、なだらかな丘陵地帯を鶴岡に向かって下っていると大鳥居が見えてきます。出羽三山神社の大鳥居です。

鶴岡から羽黒山に向かって歩いてきたら、いよいよ神域に足を踏み入れるという気持ちになると思います。

庄内平野の風景
背景の左上にぼんやりと写っている高い山は鳥海山です。


黒瀬川船着場跡
黒瀬川は羽黒山から鶴ヶ岡城跡に向かう行程の2/3程の所に流れている川です。

藤島川-京田川-最上川と合流し酒田湊付近で日本海に流れ出ています。

河川改修が進んでいない昔はもう少し水量が豊かだったのかと思いますが、こんな小さな川が船運で使われていたのかと驚くと同時に、当時は船運が物流の中心でこの船着場からは庄内平野で取れた米が搬出され、酒田湊からは北前船で運ばれて来た物資がこの毛細血管のような川を通じて運ばれてきたのかと思い至りました。

黒瀬川古戦場跡
説明板によると
戦国時代末期、山形の最上家と越後の上杉家が庄内の覇権を争った場で、天正16年8月26日(1588年10月16日)には黒瀬川を挟んで僅か2町余り(約250m)の範囲に最上軍5000騎、上杉軍3000騎が戦った、羽越合戦最後の激戦地との事です。
庄内、最上軍だけでも戦死者800余人、黒瀬川に重なり落ちて溺死したもの多数と言われているとの事です。

古戦場を通るといつも思うのですが、
かつて軍馬の嘶き、武士(もののふ)の雄たけび、断末魔の叫び、幾多の人々が戦い、亡くなり、天地がひっくり返るような時と空間があったにも関わらず、
時が経ち全てを洗い流したような静寂に包まれた地を見ると、人生、何があっても大丈夫、いつか静穏な日々が訪れるという気持ちになります。
 

鶴岡城下

”鶴岡城下”とタイトルを付けたにも関わらず、鶴ケ岡城址の写真を写さなかったので城跡の写真を掲載できません申し訳ありません。

芭蕉・曾良乗船の地 (内川乗船地跡)
”芭蕉と曾良乗船の地”と言うわりに川が殆ど写っていませんが、ここが芭蕉と曾良が乗船したとされる鶴岡市山王町にある ”内川乗船地跡” です。

曾良旅日記では
『十三日 川船で坂田(=酒田)に趣。船ノ上七里也。陸五里也ト。 (中略) 暮ニ及テ、坂田ニ着。玄順邸へ音信、留主ニテ、明朝逢。』
と書かれています。

現在 川船は運行されていないので  鶴岡市内を流れる内川沿いに歩き、赤川に合流したあとは赤川に沿って歩き、赤川は昭和2年に川筋が付け替えられているので、赤川を過ぎた後は京田川に沿って歩いて最上川に架かる両羽橋を渡り酒田駅までに行きました。
その間およそ25kmでしたので曾良旅日記に記載された距離とあたらずと雖も遠からずの行程だと思います。



鶴岡市内を流れる内川@鶴ケ岡城址手前 本町付近


川沿いの道

芭蕉と曾良は船旅を楽しんだと思います。私はというと愚図ついていた空から大粒の雨が振り出し雨カッパを着こんで ”ぐちょぐちょ” になって歩き続けました。
運悪く履きならしをしたにも関わらず靴が足に合わず肉刺(マメ)が両足に出来てしまい足を踏み出すのも辛い状況でした。この靴はこの歩きのあと一度も履く事なく廃棄しました。トホホな靴でした。

写真左:内川(鶴岡市鳥居町付近)
写真右:赤川(@蛾眉橋 鶴岡市文下家岸付近)


酒田湊

元々40kmのコース設定でしたし、上記の様に肉刺ができてしまい、何度も肉刺対策に時間を取られたうえ、歩く早さも遅くなり酒田に着く前に日が暮れてしまいました。

写真左:最上川に架かる両羽橋
写真右:酒田駅前


上の2枚の写真ではあまりにも素っ気無いので、トップにも掲載しましたが日本海に沈む夕日の写真を載せます。
この写真は、3週間後の2009年10月24日酒田から象潟へ歩く途中の酒田湊から直線距離で30kmほど離れた海岸で撮影したものです。

 暑き日を海にいれたり最上川

芭蕉は元禄2年6月13日(1689年7月29日)の夕刻酒田に着いているので、写真とは季節は異なりますが、夏至から一か月ほど経って夏真っ盛り。最上川河口の酒田湊から海に沈む夕日を芭蕉が見たとすれば カンカンと照り付ける太陽で燃え立つような一日が最上川河口の海に沈み、凪いだ海から涼しさが帰って来るような空気をこの句から感じます。



エピローグ

このページは歩いてから10年経って書いています。
どこをどう歩いたのか、どんな物を見たのかなどはGPSログと写真を見ないとなかなか思い出せませんが、この時履いていた靴が合わず肉刺ができてかなり痛かったという事は鮮明に覚えています。
人の記憶は耳で聞いた事、目で見た事以上に身体が体験した事は強烈に記憶に残るものだと思います。


END

2019/12/12 ver6.11.01 一部内容変更。
2019/11/22 作成

Column


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