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電子足跡:日光例幣使街道歩き旅
 境宿から八木宿へ


プロローグ


日光例幣使街道を境宿から木崎宿、太田宿を通り八木宿まで歩いたページです。

この道は自動車の株式会社スバル(旧富士重工)発祥の地である群馬県太田を通り、さらに八木節の発祥の地である八木宿までを歩く道です。

街道筋の建物は建て替わりあまり旧街道という雰囲気はしませんが、北関東の広い平野の中の田舎町を歩くのも懐かしい感じがして良いものです。

「道の駅 思川」で車中泊をして、朝早く東武伊勢崎線の福居駅前駐車場(500円/日)に車を置いて、昨日の終点境町駅に電車で行ってスタートです。


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都道府県 区間 歩いた日 GPS
移動距離
備考
群馬/栃木 境町駅-福居駅 2020年1月13日 21.3km  

 kmz形式
↑GoogleMapと地理院地図に
GPSログと写真がマッピングされた
地図が開きます
GPSログを
GoogleEarthでツアーする方法


カシミール3D 国土地理院 
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)


境宿


明け六つ

昨日のゴール地点の東武伊勢崎線境町駅がスタート地点です。
駅から500mくらい歩くと 『ここより例幣使街道 境宿』 の木柱が立っていました。

歩き始めたのは6時半頃でしたが、この季節は日の出が遅くてまだ町は眠っていました。
今日は 明け六つ のスタートです。
境宿は昭和感が漂う街並みで、なにがどうという事ではないのですが、子供の頃歩いた懐かしい町という感じがします。



7時頃、街はずれまで歩いて、ようやく日の出です。
東武伊勢崎線越しに昇る朝日


行き止まりでした
国道17号線の高架をくぐって進むと石田川の手前で国道354号線に斜めに接続している今は使われていない道が旧街道の様でした。かつてはこのまま石田川を渡り木崎宿に通じていたと思いますが国道354号線を敷設したときに切断されたのでしょう。

歩いてきた道を戻るのも嫌なので、法面の手前の小川を飛び越えで法面をよじ登りましたが、更に柵があり簡単には乗り越えられません。結構大変でした。素直に迂回した方が良かったです。

木崎宿


境宿と木崎宿は6km程しか離れていません。気が付いたら着いていたという感じです。

三本辻地蔵尊
宿場の入口付近に辻地蔵と言われるお地蔵さんが安置してあるお堂があります。
説明版によると、かつては日光例幣使街道と分かれて利根川の中瀬の渡しに通じる道があったそうですが、明治の後期に農地整理があって消滅したとの事です。
利根川の南岸は深谷市ですが深谷市中瀬という地名があるのでそこに渡る舟渡だったのでしょう。

地蔵尊は付近に住む椎名長兵衛が西国三十三ヵ所、坂東三十三ヵ所、秩父三十四ヵ所の計100ヵ所の観音寺を無事に参詣したのを記念して建立したとの事です。


新田荘遺跡
地図をみると、近くに新田荘遺跡があります。12世紀中頃に新田義重が開発した荘園の遺跡だそうです。旧新田郡のほぼ全域と旧太田市の南西部が荘園だったとの事です。

鎌倉の稲村ケ崎で太刀を海に捧げたところ潮が引いて稲村ケ崎を突破する事が出来た逸話で有名な鎌倉幕府討伐の新田義貞は義重から8代目の当主との事です。

←稲村ケ崎付近から見た江の島と少し雲に隠れた富士山

木崎宿の家並み
北関東の小さな町という雰囲気です。ここが日光例幣使街道 木崎宿と知らなければ通り過ぎてしまうような気がします。


木崎宿色地蔵
木崎宿内の街道筋から少し奥まった長命寺の前に鎮座しています。
説明板によると、寛延三年(1750年)に風邪で亡くなった子供達の霊を慰め、子供達の成長を祈願して建立されました。

当時木崎宿には飯盛女(遊女)が多く居て、年季奉公の為に遠出が制限されていたので宿場外れのお地蔵様に参詣して心の安らぎを得ていたとの事です。色街の女性が多く訪れたので何時の頃からか色地蔵様と呼ばれる様になったそうです。悲しい話です。

インスタグラムでフォローさせて頂いている sin.kogureさんから教わったのですが、木崎宿で働く飯盛女は越後蒲原郷から身売りされて来た女性が多かったとの事です。
現在は蒲原郷の多くは新潟市に統合されていますが越後平野のかなりの部分を占める土地でした。今でこそ穀倉地帯ですが、かつては信濃川・阿賀野川が氾濫する低湿地で農業もままならない土地でしたので困窮する農家が多く、身売りされる女性が多かったのだと思います。

ただ、木崎宿ではここで亡くなった多くの女性達を大切に供養してくださっているとの事です。人の悲しみが分かる方達が多くお住まいの町なのだと思います。

これまで東に向かって歩いていましたが、街はずれの左側に 『日光例幣使街道 上州木崎宿』と書かれた石碑がある三叉路を北に曲がります。

街並みが途切れて、田園風景が広がります。田園の中に道が続いています。
僅かな距離ですが、ごちゃごちゃした家並みのなかの道より趣があります。


太田市由良町付近

木崎宿と太田宿の中間あたりの太田市由良町(ゆらちょう)ですが、この一角は時間が止まった様な景観が残っています。

島岡酒造
赤城山の湧水を利用して文久3年(1863年)に創業して以来続いているとの事です。銘柄は群馬泉。
旧街道を歩いていると、街道沿いに蔵元を見ることが多いですが、蔵元の建物は白壁が印象的です。



島岡酒造の前の立派な門がある民家。


太田宿


太田市の中心部に入るとき、大きな門をくぐるように東武桐生線の高架を通ります。
意外と言ったらなんですが、大きな町です。

太田市の中心部の北側に国の史跡に指定されている山城の金山城があります。歴代の城主は新田岩松氏や小田原北条氏が入城していました。

太田宿本陣跡
現在は太田市行政センターの建物がある地が本陣跡でした。


スバル発祥の地
株式会社スバル(旧富士重工)は大正6年(1917年)に木崎宿の南側の尾島町に中島知久平氏が飛行機研究所を設立し同年に太田に移転したのが始まりとの事です。

今歩いている日光例幣使街道は 「スバル通り」 と呼ばれています。
かなり遠くからもスバルの工場の建物が見えます。ちなみに工場がある場所は 「太田市スバル町」 です。
工場前に在るお菓子屋さんも 「スバル最中」 を販売しています。ここは現代の企業城下町です。


鳥居のない神社 賀茂神社
市街地から遠ざかって少し家並みが途切れる付近で、道路を挟んで神社らしい建物が見えたのですが、なんとなく違和感を感じました。
境内に近づくと、狛犬ならぬ、犬の銅像が立っています。説明版を読んで初めてインターネットで読んだ賀茂神社と気が付きました。神社なのに鳥居が無い事が違和感のもとでした。



説明版版によると、例幣使が賀茂神社の境内で休んでいると、一匹の犬が突然激しく吠えはじめ、不審に思った供侍が追い払おうとするも吠えやまず、供侍が犬を切り捨てると、犬の首が空に舞い上がり、鳥居の上に居た大蛇に噛みついて危険を知らせたという事です。例幣使は塚を築いて供養したという逸話から、この賀茂神社では大蛇が登らない様に鳥居を建てない事になったという事です。

太田宿と八木宿の間 矢場工業団地付近


太田宿と八木宿の中間地付近の矢場工業団地付近から矢場川付近までは現在の佐野太田線(県道128号線)が例幣使街道をショートカットするように敷設されたので少し雰囲気の良い道が残っています。
と言っても古い建物が残っていたりとか、旧跡があるとかではないので、私の写真を見ても 「工場裏のブロック塀を見せられてもな~。どこが、雰囲気が良いの?」 と思うかも知れません。





上の写真右側の郵便局が写っている場所が群馬県と栃木県の県境です。
旧街道を歩いていると、コンビニは無くても小さな郵便局が旧街道沿いに在る事が多いです。
郵便制度を作ったときに、当時のメインストリートである旧街道の当時人家が多い所に郵便局を作った名残でしょう。

長浜観音堂
矢場側川に架かる「あらじゅくばし」のたもとに小さなお堂が建っています。木造50cmほどの観世音菩薩が厨子に入って安置されています。
説明版によると、長浜伝九郎重峰が三年にわたる128社寺の巡礼ののち新宿(あらじゅく)に住み、宝永8年(1711年)に願主となって国土安全・万民平和を祈願して建立したとの事です。
扉の隙間から拝見させてもらいましたが、蓮華座の上に立ち、光背を背負い、黒く煤けた姿に歴史を感じました。


八木宿


八木節発祥の地
「ハァ~、ちょいと出ました三角野郎が、四角四面の櫓の上で、音頭取るとはおおそれながら ・・・」
多くの方達は、この軽快なリズムと軽快なリズムの中にも哀調のある歌は一度は聞いたことがあると思います。

インターネットで調べたら
八木節は日光例幣使街道沿いから利根川流域の群馬、栃木、埼玉にまたがる民謡で、この地方の唄として歌われたきたものとの事です。

発祥は諸説あるようですが、新潟県十日町で生まれた和尚の悪口唄で、それが瞽女(ごぜ=越後、北陸地方などを巡業し三味線をひきながら歌う盲目の芸能者)によってこの地方に持ち込まれ、長編の物語を歌う口説(くどき)節化され、盆踊りや宴席などで歌われたとの事です。
或いは先ほど通って来た木崎宿で歌われていた木崎節がルーツであるという説もあるようです。木崎節は木崎宿の遊女達の悲哀を歌った歌で、遊女の中には越後蒲原郷の貧しい家庭から身売りされた娘達もいたとの事で遊女達の切ない気持ちが込められ悲哀のある曲調との事です。

そのようななか、八木宿付近に住んでいた、馬方で美声の持ち主であった堀込源太が現在のような八木節にしたとの事です。
1914年(大正3年 1913年説もあり)にレコーディングする際に八木節と命名されたとの事です。
(主に日本大百科全書、Wikipediaより)

いずれにしても、街道を行きかっていた人たちが交流し混じりあいながら、八木節が形成されたと思うと昔の人たちの生き生きとした生活を感じる事ができます。

堀込源太墓所
八木宿の手前の日光例幣使街道(県道128号線)と県道38号線の交差点に宝性寺というお寺があります。
そこに八木節を広めた初代 堀込源太のお墓があります。
石碑の写真を見ると、粋で、チョットカッコイイ、オヤジという感じがします。


八木宿本陣跡
宿場内は宿場の面影は殆どありません。本陣跡は寺山商店になっていました。


福居駅前
今日は福居駅に置いた車を取りに行って行動は終わりです。
昨日の境町駅もそうでしたが、駅前に駐車場が整備されているので本当に助かります。

車中泊で街道歩きをすると、駅のそばに駐車場が無い場合はかなり苦労します。

前日に次の日のゴール駅付近まで行って駐車場があるのか確認する事が多々あります。
ゴール地点の駅周辺に駐車場が無い場合は、沿線の駐車場が在る駅に車を置いて電車でスタート地点の駅に行く場合もあります。

エピローグ


以前、群馬県に住んで居たことがあります。その頃 八木節 を何回か聞いたことがあります。
軽快で明るいリズムの民謡は一度聞くと記憶に残ります。

でも、八木節が、何故「八木」なのかという疑問が残っていたのですが、今回の旅でようやく知る事ができました。
まさか、宿場町の名前だったとは思ってもいませんでした。
八木宿があった場所は現在では足利市福居町ですし、最寄駅も福居駅ですので八木宿という宿場があったとは思いもしませんでした。


END

2020/10/06 木崎宿色地蔵を追記
2020/02/16 作成

Column


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