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電子足跡:日光例幣使街道歩き旅
 栃木宿から楡木宿追分へ


プロローグ

日光例幣使街道を栃木宿から合戦場宿-金崎宿を通り、壬生街道(日光西街道)との追分がある楡木宿まで歩いたページです。今日は日光例幣使街道最後の行程です。

栃木宿は見世蔵造りの家屋や洋風なレトロな建物、そして近代的なビルも建ち並び新旧が渾然一体となった不思議な感じがする街並みです。
また嘉右衛門町は重要伝統的建造物群保存地区になっており古くて重厚な建物が多く残っています。

栃木宿を過ぎると田園地帯の風景が広がります。田園の中にあった宿場町は今は少し寂れた感がありますが、所々に宿場町の面影が残る建物があって時代に揉まれながらもよく残ったなと思えます。
田園の向こうには男体山などの日光連山の美しい山並みが望め清々しい気持ちになります。


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都道府県 区間 歩いた日 GPS
移動距離
備考
栃木 栃木駅-楡木駅 2020年1月17日 15.6km  

日光例幣使街道 栃木宿から楡木宿へ


↑GoogleMapと地理院地図に
GPSログと写真がマッピングされた地図が開きます

GPSログを
GoogleEarthでツアーする方法


カシミール3D 国土地理院 
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)


栃木宿


明治6年(1873年)廃藩置県により栃木県が成立しましたが、そのときの県庁所在地は現在の栃木市に置かれましたが、明治17年(1884年)に現在の宇都宮市に移されたとの事です。
自分の無知を晒すようですが、2014年に日光街道を歩くまで栃木市という市がある事を知りませんでした。
栃木市は初めて訪れましたが、駅前から続く日光例幣使街道沿いの家並みは新旧の建物が混在して独特な雰囲気を作っています。

巴波川(うずまがわ)
巴波川は渡良瀬川の支流で栃木市中心部を流れる川です。渡良瀬川は利根川に合流しているので、かつては舟運が盛んで北関東の物流を支えており、商都栃木宿の要でした。

現在は街中を流れる川でありながら水鳥が集う静かな川です。

蔵の街大通り 倭町付近の街道風景
栃木駅から続く1km弱の「蔵の街大通り」の愛称で呼ばれているメインストリートがかつての日光例幣使街道でした。
所々に見世蔵造りの建物が残っていたり、今はパーラーになっているレトロ感がある洋風建物があったり、勿論近代的なビルも建っています。

何と言ったらよいか、中山道の奈良井宿、妻籠宿、馬籠宿の様に江戸時代さながらの家並みというより、江戸、明治、大正、昭和が渾然一体となった街並みと云う感じで、数100年の時間の流れをギュッと圧縮したような街並みで独特な雰囲気があります。







 五海道其外延絵図 中山道例幣使街道分間延図
 *万町の説明版の絵図を掲載させて頂きました。
 *クリックすると大きな絵図が開きます。


嘉右衛門町 重要伝統的建造物群保存地区


「蔵の街大通り」の万町交番交差点を西に曲がります。桝形 (敵が直進出来ない様に意図的にクランク状に曲げた道筋) の名残なのかまた直ぐに北に向かいます。
その曲がった所からが嘉右衛門町で伝統的建造物が保存されている地域です。



説明版によると、天正期(1573~1592年)に今歩いて来た、倭町の蔵の街大通りの北側を新田開発して、嘉右衛門新田村が起源との事です。
江戸時代には日光例幣使街道沿いに商家が軒を連ね、江戸時代末期から近代にかけて建築された見世蔵や真壁造りの店舗や土蔵が残っています。

*説明版の絵図を掲載させて頂きました。
*クリックすると大きな絵図が開きます。

嘉右衛門町の街並み


岡田記念館
嘉右衛門町の地名の由来になった岡田嘉右衛門家の展示館です。当日は残念ながら休館日でした。

説明版を要約すると
岡田家は元々は後醍醐天皇や足利幕府に仕える武士で、慶長年間に帰農してこの地を開墾し、徳川家から嘉右衛門新田村という名称を賜ったとの事です。

代々当主は嘉右衛門を名乗り、名主や代官職代行など要職を務め地域発展に寄与し、現在の当主は26代目との事です。

平澤商事株式会社の店舗


油伝(あぶでん)味噌株式会社
天明年間(1781~89年)に油屋として創業。幕末に2代目が味噌の製造を始めたとの事です。
明治時代から使っている木製の樽で仕込んだ無添加の味噌が人気とのことです。
併設された茶店で田楽を食べる事ができます。
朝早かったので営業していなかったのが残念です。


栃木宿は見どころ満載だったので75枚も写真を写してしまいました。街道筋以外にも見どころが多い様ですので、訪れるときは時間にゆとりも持った方がよいと思います。

合戦場宿

嘉右衛門町を過ぎて少し進むと合戦場宿手前の東武日光線の跨線橋を渡ります。
跨線橋の上から左手に日光の山々が、右手後方には電線越しに筑波山が望めました。。
玉村宿では頭の先しか見えなかった男体山が大きく見える様になります。



合戦場宿の由来
合戦場宿はその名の通り、大永3年(1523年)に この地から西に5km程の所にあった皆川城の皆川宗成とその嫡子成勝と 宇都宮城主 宇都宮忠綱がこの地で戦った事に由来します。
宇都宮軍1800余を迎え撃った皆川軍は60名、宇都宮軍は250名の戦死者が出たとの事です。

合戦場宿は宿場の面影はないですが、里人が戦死者を一箇所に集めて葬った塚が 「升塚」として残っています。

日立製作所創業者 小平浪平(おだいら なみへい)生家
日立製作所の創業者がここ合戦場宿で明治7年に生まれたとは思いもよりませんでした。

車で旅行すると、移動している間は流れる風景を見るくらいで、それ以外の物に気づく事は稀ですが、歩き旅は移動がゆっくりなので思いもよらない史跡や記念碑を見ることができます。
車での旅行が観光地を訪れる謂わば「点」の旅行だとすると、歩き旅は「線」の旅行です。

日光連山

合戦場宿を越えると家並みも途切れ田園の風景が広がります。
北関東自動車道 都賀IC付近の地図に 「弥八内」 と書かれた場所で見えた日光連山です。
左から男体山・太郎山・大真名子山・小真名子山・女峰山



金崎宿

金崎宿は思川の河畔に発達した宿場です。現在の街並みは宿場だったという感じはしませんが、所々に立派な門構えの家や本陣門が残っています。



古民家
説明版が無かったので詳細は分かりませんが、立派な門があり、家の構えも立派です。


本陣門
本陣の建物は建て替えられて残っていませんが、日光例幣使街道沿いに黒板塀に白壁の塀が続き、かつては本陣だったと思うに充分な風格があります。


おくのほそ道 室の八島 の段について
話は変わりますが五街道細見(岸井良衛 青蛙房)の金崎宿のところを見ると
『金崎より左の方へ一里半行けば、惣社大明神あり。これ下野の惣社なり。このやしろの前に室の八島あり。(以下略)』と書かれています。

「”室の八島”? どこかで聞いた事があるな?」と思ったのですが、おくのほそ道に ”室の八島”の段 がある事を思い出しました。

松尾芭蕉と河合曾良は深川を出立し、日光街道を北上して小山の木沢(現在の喜沢)の追分を左に入り壬生街道を通って日光に向かいました。途中で思川を渡り 歌枕の地でもある ”室の八島” を訪れました。

室の八島明神は現在の栃木市惣社町にある大神神社の事で、その境内に八っの小さな島が”室の八島”と言われています。

小倉橋からの日光連山


小倉橋は思川に架かる橋です。現在は思川と呼ばれていますが、江戸時代は小倉川と呼ばれていました。
思川と呼ばれる様になったのは意外と新しく昭和40年(1965年)に一級河川に昇格したときに思川と名称が変わりました。前出の五街道細見には金崎と亀和田の間に小倉川と記載されています。

小倉橋から思川に架かる東武日光線の鉄橋越しに日光連山が望めます。



十九夜塔・如意輪観音群

思川を渡って亀和田町片蓋にある例幣使街道と磐裂根裂神社(いわさくねさくじんじゃ)の間にありました。

十九夜塔と石仏がきれいに並んでいます。
十九夜塔は十九夜講にちなんで建立されたもので十九夜講は別名を子安講(こやすこう)とも言います。
陰暦の毎月19日に女性が集まり念仏を唱えて、安産や子供の成長・健康を祈願する月待信仰の一つです。信仰の対象は「月」で十九夜講は、神道ではツクヨミノミコト、仏教では如意輪観音が本尊として祀られました。その日に集まった女性達で飲食を共にする事もあり、現在で言えば ”女子会” という感じでしょうか。
他にも十六夜、二十二夜、二十三夜などある特定の日に集まる講があります。

写真左:十九夜塔 遠目に見えた時はお墓かと思いました
写真右:如意輪観音像 文化14??(1818年)と彫られています


磐裂根裂神社(いわさくねさくじんじゃ)
それにしても磐裂根裂神社とは初めて聞いた神社です。
祭神の イワサク神 ネサク神 は日本神話に登場する神様で、国生み神話でイザナギがイザナミの死因となった火神カグツチの首を斬ったときに、剣の先についた血が岩について化生した神様だと云う事です。(Wikipediaより)

楡木宿 追分


日光例幣使街道と東北自動車道が交差する場所は壬生街道の追分まであと900mほどの地点です。
この付近の磯町・宿一本松には立派な門構えの民家が多かったです。
長屋門様式が多かったので元々は有力武士が多く住んでいたのか?とか、豪農が多かったのかとか思いましたが、何故この地にこの様な立派な門構えの民家が多いのかは良く分かりませんでした。





ゴール 楡木宿追分


国道293号線と352号線が合流する地点が日光例幣使街道と壬生街道の追分です。

トップページにも書きましたが、「日光例幣使街道の始終点はどこか?」問題です。
群馬県倉賀野の中山道の追分からこの壬生街道楡木宿の追分までなのか?それとも日光街道との追分がある今市宿なのか?
この道路標識をみると、この追分から先は国道293号線と国道352号線の共用区間になっています。
まさか、国土交通省も良くわからないので、投げやりになって、共用区間にしたという事ではないと思いますけど。昔も今もここから先は日光例幣使街道であり壬生街道でもあるという事になのでしょう。

ゴール 追分の道標
壬生街道との合流地点にある道標。
風化が激しいですが、かろうじて 「右 中??」は読めました。「右中山道」 「左江戸道」と書いてあるそうです。


追分の風景
この三叉路が日光例幣使街道と壬生街道の追分です。
現在でも例幣使街道と壬生街道から来る車が行きかっています。


写真左:壬生街道方面   写真右:日光例幣使街道方面


                日光方面


今回の日光例幣使街道を歩いた半年後
壬生街道を小山市喜沢追分から今市の日光街道追分まで歩きました。 
画面下部の ”NEXT” ボタンをクリックすると壬生街道歩き旅の楡木宿 例幣使街道追分 にジャンプします。宜しかったら引き続きご覧頂けると幸いです。

これで群馬県倉賀野の中山道との追分から始まった日光例幣使街道歩き旅は終わりです。
印象深い出来事は、歩いているときに地元の方達が何人も話かけてくれた事です。中には自転車に乗った方が私を追い越して行ったと思ったら20mくらい先で自転車を止めて私を待って話しかけて頂いた方もいました。
旧街道を歩くときは山間の舗装もされていない山道が風情があって良いと思っていましたが、都市部の旧街道もなかなか良いものです。

END

2020/03/06 作成

Column


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