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電子足跡:旧山陽道(西国街道)歩き旅
芥川宿から北伊丹へ
大阪府の北側 千里丘陵を歩く道
プロローグ
このページは旧山陽道(西国街道)を大阪府の芥川宿(最寄り駅は東海道本線高槻駅)から兵庫県北伊丹駅まで歩いたページです。高槻市、茨木市、箕面市、池田市を通り、大阪国際空港(伊丹空港)付近で兵庫県に入ります。この道は大阪府の北側、更に言えば、今から50年と少し前、1970年に大阪万国博覧会が開催された千里丘陵の北側に続く道です。読者の中には当時万博会場を訪れた方も多いと思います。
『人類の進歩と調和』 を掲げ、未来の姿を展示している万博会場の北側に古びた旧山陽道(西国街道)が通っていました。
そして、『人類の進歩と調和』を掲げてから50年以上経って、人類はどうなったでしょう? 今であれば進歩とは科学技術の事だけでは無いと思えますが、その当時、私は ”進歩” とは科学技術の進歩の事だと単純に考えていました。確かに科学技術は想像をはるかに越えて進歩した分野もあると思います。
では ”調和” はどうなったでしょうか? むしろ ”調和” からはほど遠い方向に進んでしまっている様に思えます。何が ”ほど遠い” と思うかは人それぞれだと思いますが。そして ”未来” とは何かと考えるとき、難しい理屈ではなく、”未来” とは 無限の可能性を持った ”子供達” の事なのではないかと思う様になっています。まあ、単に歳をとったという事なのかもしれません。
と言うことで冒頭の写真は歳を経た男性と子供達が道を歩く写真にしました。
読者の皆様の中には、当時未来の姿を一目見ようと万博会場まで足を運んだ方達も多いと思います。そして50年以上経って皆さんの未来はどうなったでしょうか?
開発が進んだ大都市近郊の旧街道ですが、郡山宿本陣や道標など意外と旧街道の痕跡が残っています。若い時に大阪万国博覧会を訪れた皆さん、可能であれば、その当時の自分を思い出しながら大阪万博会場とその北側に何百年と続く旧街道を訪れたみたら如何でしょうか。若い時には気づかなかった事が、今なら見えるかもしれません。ただ旧街道から万博会場だった場所(現 万博記念公園)を見る事はできないのが残念です。
都道 府県 |
区間 | 通る宿場等 | 歩いた日 | GPS 移動距離 |
備考 |
大阪/兵庫 | 高槻駅-北伊丹駅 | 芥川宿、郡山宿、瀬川宿 | 2021/10/14 | 21.3km |
↑GoogleMapと地理院地図にGPSログと写真がマッピングされた地図が開きます | GPSログをGoogleEarthでツアーする方法 | |
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)
芥川宿
JR福知山線の北伊丹駅付近の駐車場に車を置いて、東海道本線高槻駅まで行って歩きはじめました。高槻は大阪・京都のベットタウンとして発展しているので、駅周辺は垢ぬけた感じの街並みです。
ところが、西に向かって歩き始めて少し進むと、少し狭い道路沿いに宿場の面影を残す建物が見えてきます。町名も芥川町ですので、おそらく宿場の中心地はこの付近だったのだと思います。それにしても大阪・京都と大都市に挟まれてベットタウンとして再開発された土地にも関わらず良く残ったなと思います。
写真左:芥川一里塚三宝大荒神
説明版に ”芥川一里塚三宝大神保存会” と書かれていました。
保存会の方達が整備しているようで、社の後ろには塚と塚木が残っていました。
芥川の金毘羅燈篭
珍しい形の常夜燈です。
説明板には、文政12年(1829年)に建立された常夜燈兼道標で、江戸時代に金毘羅信仰が盛んになった時、各地の金毘羅講の参詣者が香川県琴平町の像頭山に参詣するまでの道程63里(約254㎞)を示していると書かれています。
芥川
淀川の支流です。
名前からどんなに汚れた川なのかと思っていましたが、澄んだ川です。
歌枕になっている川で拾遺和歌集にも和歌が収められています。
かつて一帯は 阿久刀神社の荘園で、”阿久刀” から転じて ”芥” になったらしいです。
今城塚古墳・継体天皇陵
芥川を渡ってから 1.2㎞と3.4㎞程の所に今城塚古墳と継体天皇陵があります。ここより南の堺市に世界遺産になっている仁徳天皇陵・百舌鳥古墳群があり、奈良方面に向かう方向に古墳が分布していますが、大阪府の北側に天皇陵が在るのは少し違和感を感じます。
インターネットで継体天皇を調べました。
推定される生まれ年は485年(古事記)とか450年(日本書記)と云われていて、越前国三国出身であるとか、第26代の天皇で歴史的に実在と系譜が明かな最初の天皇と言われているとの事ですが、諸説あるようで、謎が多い天皇のようです。
今城塚古墳
高槻市により長年保存活動が続けられていて良く整備されています。
高槻市のホームページによると、総長約350m、総幅360mの大きな古墳です。
下に記載する継体天皇の真の墓ではないかと考えられています。
日本最大級の家形埴輪や武人埴輪が発見されていて、北側の内堤から埴輪祭祀場が発掘されているとの事です。
今城塚古墳・継体天皇陵の北側には ”今城塚古墳附新池埴輪制作遺跡” と言われる埴輪窯や工房が発掘されていて、古墳の埴輪を制作した場所とされています。
継体天皇陵
宮内庁の管理になっています。
”継体天皇 三嶋藍野陵” と書かれた看板が建てられていた以外は説明板等はありませんでした。
街道沿いの風景
雲見坂
継体天皇陵から西に向かうと下り坂になっています。
何故、こんな逆光の写真を掲載したのかと思うかも知れませんが、この坂は ”雲見坂”と云います。
説明板には 『太田城を築いた太田太郎頼基が、この坂から雲の動きを見て天気や戦のやり方判断した』ので雲見坂と名が付いたと書かれていましたが、私としては昔の旅人や付近の住人がこの急坂を登るとき、坂の上に広がる空と雲を見ながら、坂道を登ったので自然発生的に雲見坂と言われる様になったと考えた方が自然な感じがします。古から現在まで続いている坂道です。
写真左:太田付近
写真右:太田不動尊境内
横倒しに倒れたムクノキが樹勢を回復し青々とした葉が茂っていました。
中河原の道標
東西に走る旧山陽道(西国街道)と南北に走る亀岡街道が交差する交差点。
本能寺の変を起こす直前、明智光秀は備前高松城を攻めている羽柴秀吉軍に加勢する軍を整えて現在の京都府亀岡市に居ました。亀岡街道はその亀岡に通じている道です。
郡山宿
万博記念公園の北北東3㎞くらいの所に在る宿場で、郡山宿は付近を流れる勝尾寺川のほとりに発達した宿場です。町名も宿川原町です。この宿場は本陣の建物が残っています。
享保3年(1718年)に類焼で消失し、現存する本陣の建物は享保6年(1721年)に西国大名の寄付などで再建された建物との事です。
建物は母屋2棟・土蔵3棟・納屋1棟・茶席1棟で居間数は茶席含めて25あるそうです。
焼ける前の宿帳には、摂津・備前・備中・美作・讃岐の大名や忠臣蔵で有名な赤穂藩浅野内匠頭長矩が宿泊した記録が残っているとの事です。
私が訪れた時は内部の見学は中止していました。ですので街道に面した写真しか写せませんでした。見学再開は茨木市のホームページで知らせるそうです。
千里丘陵の風景
郡山宿から更に西に進み、大阪モノレール線の豊川駅付近から河岸段丘に登る様に街道が続いています。旧山陽道(西国街道)は千里丘陵の北側を通る様に続いています。昔、大阪万博があったとき、万博会場は ”千里丘陵” に作られると聞いた記憶があります。そして周辺は千里ニュータウンと云われる計画的な住宅地開発を進めると聞いた記憶もあります。高度成長期に開発された新興住宅地のそばの旧街道と思っただけで、開発で昔の面影や遺構は消滅しているのだろうと勝手に思っていました。
ですが意外にも所々に旧街道の痕跡が残っていました。
左 京ふしみ道
その登り坂が終わる、箕面市小野原東付近の三叉路に小さなお堂があります。
”左 京ふしみ道” の道標が建っていました。
何百年もこの地に建って、風雨に晒され、夏の日差しに耐え、路傍の石仏なら旅人が拝んで行くかもしれないけれど、不平も言わず、何万、何百万のも旅人に道を教えてくれていた事に、”石”という無機質な物の存在を越えて感謝の念が沸きます。
この道標から先は千里丘陵の比較的平坦な道が続きます。
萱野三平旧邸 もう一つの忠臣蔵
萱野三平は大嶋出羽守の推挙で、13歳のとき赤穂藩 浅野内匠頭の小姓として仕えました。
萱野三平は浅野内匠頭の江戸城刃傷事件の直後、早見藤左衛門とともに、浅野大学の書状を持って早打駕籠で刃傷事件の一報を赤穂に伝えた家臣として知られています。
『早打駕籠で一報を赤穂に伝えた』と文字で書くとその過酷さが伝わりませんが、早打駕籠は四人の担ぎ手と二人の引手、押し手が一組の駕籠の事で、駕籠の担ぎ手は宿場毎に交替し昼夜を問わず走り続けます。使者である萱野三平と早見藤左衛門は強烈に揺れる駕籠の中で耐え続け、155里(約620㎞)の道を不眠不休で駆け抜けて4日半後に命からがら赤穂に一報もたらしたと言われています。
例えば車で未舗装のでこぼこの山道を4日半不眠不休で揺られ続けていたと想像したらその過酷さが分かる様に思います。
そして萱野三平は、仇討の同志に加わると他の藩士と他言無用の約束して郷里であるこの家に帰ってきました。浪人になった萱野三平は父親から他藩への仕官を勧められます。しかし仇討の約束しているうえ、仇討は推挙した大嶋出羽守に迷惑がかかる事を心配し、主君への ”忠” をとるか、仲間への”義”をとるか、父親への ”孝” をとるか板挟みになり、元禄15年(1702年)1月14日 この家のこの部屋でで自刃し28歳の生涯を閉じました。
萱野三平の墓は旧東海道沿いの泉岳寺に浅野内匠頭、大石内蔵助、四十七士とともに眠っています。
広大な千里丘陵を歩いているので、空が広く感じます。
瀬川宿
瀬川宿へは国道を斜めに横切り、阪急箕面線を渡って行きます。瀬川宿は箕面川の河岸に開けた宿場です。
街道筋を歩いていると、どことなく新しい道とは異なる雰囲気を感じます。
街道沿いの風景
瀬川宿を過ぎると道が複雑に入り組み街道筋が分かり難くなります。おそらく、昔の小さな道や農道などを整理する前に住宅が広がったのだと思います。しかし直線的に整理された道より、この様な道は味噌汁の香りがする様な、懐かしい生活感を感じます
旧石橋村 高札場跡
阪急箕面線と宝塚線が分かれる、石橋阪大前駅の直ぐそばの踏切の所にありました。
説明版を読むと、にわかには信じられないのですが、元禄3年(1690年)には29軒192人、文久元年(1861年)には24軒104人の人達が暮らして居たと書かれていました。
更に、この場所は、旧山陽道と大阪と池田・能勢を結ぶ能勢街道(大阪道、池田道とも)が交差する場所でした。踏切のそばに道標が残っています。
北面に 右西宮 左大阪 東面に 右?? すぐ?? と書かれています。
注:上記の図は説明版に掲載されていた地図を使用しました。
桂春團治の碑
街道筋の池田市豊島南の受楽寺の山門の前に建っていました。三代目春団治が建立したと書いてあります。
初代桂春團治は破天荒な生き様で、歌や芝居でも演じられていますが、なんと言っても都はるみと岡千秋がデュエットで歌った ”浪花恋しぐれ” が記憶に残っている方は多いと思います。
何故、この寺に碑が建っているのかは、説明版がなかったので分かりかねますが、インターネットには二代目春団治が受楽寺の住職と親交深く、しばしば受楽寺を訪れていた為と書かれていました。
春には、毎年 ”春団治まつり” が開催され、一門の落語や屋台・露店なども出るなどの賑わいを見せるそうです。
兵庫県に入りました
旧山陽道を西に歩いて行くと受楽寺のすぐそばの普通の町の中が大阪府と兵庫県の府県境でした。
旧山陽道の南側に大阪国際空港(伊丹空港)があります。
猪名川に架かる軍行橋から大阪国際空港(伊丹空港)に発着する飛行機と大阪市内が良く見えます。
猪名川を渡って福知山線北伊丹駅まで歩いて今日の行動は終わりです。
エピローグ
正直に言いますが、当初、大阪の北側、ベッドタウンの中の旧街道に特段の期待はしていませんでした。勿論、旧街道の景観がそのまま残っているという事はないのですが、微妙にカーブする道筋が残り、ところどころ古い建物が在り、風化している道標が残り、新しい街の中に明らかに当時の痕跡が見えると不思議な感覚を感じ、数100年前の過去と、自分が生れてからこれまでの現在を頭の中で自由に行き来している自分に気づきます。
近郊に在住する方は、休日に履きなれた靴を履いて歩いてみたら如何でしょうか。勿論、誰もが認めるような絶景を期待されても困りますが、風化した道標を見て、頭の中で他の誰にも見る事が出来ない自分だけのタイムトラベルを楽しんでみたら如何でしょうか?
END
2022年06月08日 萱野三平 早打駕籠のエピソードを追記
2022年01月20日 作成
Column
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