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電子足跡:旧山陽道(西国街道)歩き旅
 北伊丹駅から三宮駅へ


プロローグ
 

このページは旧山陽道(西国街道)を大阪国際空港(伊丹空港)の北西の福知山線北伊丹駅から昆陽(こや)宿、西宮宿、芦屋市、日本酒で有名な灘区を通り三ノ宮駅まで歩いたページです。
行程の殆どは家並みやビル街の中を歩く道です。六甲山系から流れ出る河を何度も渡りましたが、水が澄んでいて流れが早く、都市の中でせせらぎが聞こえる不思議な体験でした。
そして、この道はえびす様の総本社である西宮神社を通り、芦屋、灘を通ります。関西に住んでいない者にとっては芦屋とか灘と聞くとなんか少し華やいだ気持ちになります。

都道
府県
区間  通る宿場等 歩いた日 GPS
移動距離
備考
兵庫 北伊丹駅-三宮駅 昆陽宿、西宮宿、西宮神社、芦屋、灘、三ノ宮 2021/10/16 27.4km


↑GoogleMapと地理院地図にGPSログと写真がマッピングされた地図が開きます GPSログをGoogleEarthでツアーする方法
カシミール3D  国土地理院
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)


伊丹付近

朝早く、北伊丹駅から歩き始めました。猪名川の土手に出ると大阪国際空港(伊丹空港)から飛び立つ飛行機が見えました。歳を重ねても太陽光を浴び銀色に輝く機体を見ると、遠く離れた地を想像しワクワクした気持ちになります。


猪名川の土手から西に進むと猪名川の氾濫原を歩きます。地形図を見ると西側に高さ15m程のかなりハッキリとした河岸段丘が確認出来ます。その河岸段丘崖を登って昆陽宿に向かいます。


大鹿地区
段丘涯の上を歩いていたら、昆陽宿手前の大鹿地区に江戸時代の絵図が掲載された説明板(伊丹市が設置)がありました。絵図は伊丹空港のそば猪名川付近から西宮の武庫川付近まで描かれています。現在の地図と重ねてみたのが下の画像です。
細かなところや漢字表記が異なるなどはありますが、およその道筋や地名は現在の地図とそれ程変わりません。画像をクリックすると大きな絵図が開きます。付近にお住まいの方は確認してみてください。


上の絵図が掲げられていた所は交差点の所でした。
交差点の松の根本に小さな道標が建っています。
東側面に 『すぐ西?』 西側面に 『すぐ京』 南面に 『すぐありま』 と読めました。
この場合の 『すぐ』は ”真っすぐ” という事ですので『すぐ西?』は西宮だとすると方角も合っています。


上に掲載した絵図の ”現在地” の部分を拡大すると、旧山陽道と交差する道には 『北道有馬路 丹波江行』と書いてあるので 交差する道が有馬路だと分かります。

現在の地図でこの交差点を北西に行くと宝塚に行き、宝塚から西に向かい六甲山の北側の有馬温泉に向かっていました。

剣菱のルーツ
剣菱の名前は、日本酒好きの方なら一度は聞いた事があるかも知れませんが、現在は灘で造られている剣菱のルーツは大鹿であると説明板に書かれていました。
私も成人してお酒を飲み始めた頃、旨い酒と紹介されて剣菱を飲んだ事がありました。その当時はただ酔っ払えば良かったので、香りや味わいなどは全く記憶にはありませんが、楽しく飲んだ記憶は残っています。

昆陽(こや)宿
 

昆陽宿は京都から伏見-淀(間宿)-山崎-芥川-郡山-瀬川-昆陽 と7番目の宿場です。京都東寺からのルートですと、伏見、淀は通らないので5番目の宿場になります。
現在でも昆陽宿があった場所は昆陽という地名です。でも『昆陽』と書いて 『こや』 と読むのは地元の人でないとなかなか読めません。

昆陽宿手前 千僧地区付近


昆陽宿が在った付近は宿場の雰囲気は薄れていますが、稲野小学校の前に 道標と共に能因法師の歌碑がありました。

芦のやのこやのわたりに日は暮れぬ
   いづち行くらむ駒にまかせて

     『後拾遺和歌集』。

能因法師は 小倉百人一首 の和歌でも知られています。
 嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 龍田の川の 錦なりけり

ところで、なんでここに能因法師の歌碑が建っているのか疑問に思いました。
調べたら、出家後、津国児屋池畔に住んだ事に由来する様です。津国児屋池畔が、昆陽なのだと思います。上の掲載した絵地図は”昆陽の池”と書かれた大きな池が描かれています。
また、能因法師は奥州を旅した事でも知られていますが、松尾芭蕉が訪れた秋田県象潟に 能因島という島があり芭蕉が能因を弔う為に島に渡っています。

注:象潟の能因島は文化元年1804年に起きた地震で海底が隆起して現在は陸地になっています。上の能因島のリンクをクリックしてみてください。おくのほそ道歩き旅の能因島のページにジャンプします。


西宮

武庫川を渡ると西宮市になります。
西宮は、今でもお付き合いさせて頂いていますが、以前仕事でお世話になった方の出身地で、何かの話の時に、『学生の時、仲の良い友人達と大晦日の晩に甲山の麓ので焚火をして夜を明かし、朝、甲山の山頂まで登って初日の出を見たことがある。』という話を聞いた事があります。そのまま記憶の底に眠っていたのですが、武庫川の土手から特徴的な形の山が見えたので地図で調べたら 『甲山』と書いてあったので、突然フラッシュバックの様に上記の話を思い出しました。歩いていると時々あるのですが、普段は意識していないような事を突然思い出す事があります。
それにしても、今回の歩き旅で幾つか大きな河を渡りましたがどの河も水が澄んでいて、水鳥が多い事に驚かされます。


厄神明王道・甲山観音 道標
阪急 門戸厄神(もんどやくじん)駅付近に建っていた道標です。
説明板によると、ふたつの道標は元々は別の場所に在ったものを後年ここに移したとの事です。
大きい方の 厄神明王道の道標は、
 南東面に 『日本三躰 厄神明王道 是与里すぐ西江五丁』、
 北東面に 『すぐ尼嵜大阪 左伊丹池田京 道』
 南西面に 『是ヨリ西宮江 三十丁 尼嵜生魚 上積中』
小さい方は
 南東面 『すぐ加婦と山観音 是より十五丁』
 北東面 『施主 大阪新町 折屋徳兵衛 同ゑゐ』
と書かれているそうです。

厄神明王はここから500~600m位離れた、現在神戸女学院 関西学院大があるそばの門戸厄神の事ですし、小さい方の『すぐ加婦と山観音』の”加婦と山”は ”甲山” ではないかと言われて言われているそうです。

いずれにしても、この道は京都、大阪、西国に通じる交差点の様な場所で、更に門戸厄神、甲山神呪寺への参詣の道でもあり多くの人達が往来した道でした。

更に、説明板には平安時代に作られて後年には西国街道と呼ばれるようになったと書かれていました。平安時代からある道を、何百万人、何千万人の人達が行きかったであろう同じ道を、今私が歩いていると思うと、悠久の時を感じます。

西宮市街
旧山陽道はJR西宮駅の西側 東側に沿って繁華街の中を南下して続いていました。街路樹が植えられ、都市の中の道とは思えない爽やかな道でした。


阪神高速3号神戸線の高架が見えてくるところで西に曲がって進みます。

西宮神社
説明するまでもないですが、えびす様をお祭りする総本社です。
なにより、正月、TVで放映される、”福男選び”の大人数の男たちが境内を疾走する映像は多くの方達の記憶にあると思います。
神社の東側にある表門から参道を走り拝殿までの230mを駆け抜けます。




えびす信仰の起源は幾つかあるようですが、以下は西宮神社のホームページに書かれていたものを引用させて頂きます。

『昔々、鳴尾に住んでいた漁師が、沖で漁をしていたところ、網に大変手ごたえを感じました。喜んで引き上げてみますと、それは期待していた魚ではなく、今まで見たこともないものでした。よく見ると人形のような、又御神像の様にも見えましたが、魚ではないので海にもどしてしまい、また魚の群れを求め、西の方へと船を進めてゆきました。なかなかえものに恵まれず、今の神戸の和田岬の辺りまで来て、なかばあきらめながら網を入れたところ、再び大変な手応えを感じ、今度こそはと勇んで網を引き上げてみると、何とそれは先程海にもどしたはずの、あの御神像の様に見えたものでありました。

漁師は瞬時に、これは徒事ではないと確信し、漁をきりあげ、御神像を丁寧に布にくるみ、家に持ち帰りました。粗末な家ではありましたが、漁師はその像の為に床をしつらえ、朝な夕なにお供え物をし、お祀りすることになりました。
しばらくたったある日、いつもの様に夕方のお供えをして、自分も夕食をとり、やがて眠りにつきました。その夜の夢の中に、お祀りしている御神像が現れ、「吾は蛭児の神である。日頃丁寧に祀ってもらって有り難いが、ここより西の方に良き宮地がある。そこに遷し宮居を建て改めて祀ってもらいたい。」との御神託があったのです。

蛭児の神。それは神代の昔、伊邪那岐伊邪那美二柱の大神が久美度に興して生み給いし御子。日本書紀によると、三歳になるまで足が立たなかった不具の子であったとも云われています。伊邪那岐伊邪那美二柱の神は、吾が子をあわれと思いつつも、葦船に入れて茅渟の海へ流してしまわれたのです。
その蛭児の神、葦船に乗せて流された蛭児の神が、再び茅渟の海から出現されたのです。平安の御代に力強くよみがえった蛭児の大神、この神が西宮えびす大神として茅渟の海、今の大阪湾岸をうしはく神として、海に生業の道を求める人々はもとより、開けつつある街の人々の、絶大なる信仰を集めてゆくのです。

さて鳴尾の漁師は恐れ謹み、漁師仲間と相談し、蛭児大神を輿にお乗せし、御神託の通り西の方、良き宮地を求めて出立しました。途中いく度か輿を下ろし休憩して行きましたが、ある所で一休みされたえびす様が、よほどお疲れになったか眠り込んでしまわれ、なかなかお目覚めになりません。困った漁師たちは、恐れ多いとは思いましたが、えびす様のお尻を捻ってお目を覚ましていただき、再び西へ向って進まれたという話も残っています。その御輿を置いて一休みされたといわれている処が、ここより東へ二百米程の札場筋角にある御輿屋跡地(おこしやあとち)といわれているところなのです。この様にして海より甦った蛭児の神は、えびす様としてこの西宮の地にお鎮まりになったのです。』

西宮神社のホームページに書かれている ”鳴尾”は武庫川の河口付近、”和田岬”は鳴尾から西に16㎞程西に行った岬にその地名があります。
御輿屋跡地は左の写真の場所です。

芦屋・灘・三ノ宮

その地名は何度も聞きましたが、訪れるのは初めてです。
大阪湾の直ぐ北側に六甲山系が迫り、山の麓というより、六甲山系の山麓に発達した都市で独特な雰囲気がありました。
地図を見れば分かる事でなので、こと更言うまでも無い事なのですが、意外な感じを受けたのは、六甲山系から流れる川が幾筋も市街を横切って流れ、その流れが急流だった事です。これまで都市のなかで川のせせらぎを聞くという経験はそう多くは無かったですし新鮮な驚きでした。

写真左:芦屋付近の花屋さん
写真右:遠藤周作も通った灘高校 旧街道沿いにありました。




三ノ宮市街


今日歩いた道は平成7年(1995年)の阪神淡路大震災で多大な被害を受けた土地です。これまでの人生の中で地震による被害の記憶は昭和39年(1964年)第1回東京オリンピックがあった年の新潟地震が最初です。それから幾度となく地震があり、被害を被った地域の映像に触れましたが、近代的な大都市がこれほど脆弱な街だと認識したのは阪神淡路大震災が初めてでした。
今日、街を歩いても震災の痕跡を目にする事は無く、復興している様に見えました。人は一度倒れても再び立ち上がる事が出来る生き物なのだと思うと同時に、建物や街並みの目に見えるものではなく、目には見えない多くの人達の心の中に傷跡が残っているのではないかとも感じました。

エピローグ
 

若い頃、古事記や日本書紀をベースにした日本神話の本を読んだ事があります。
その中に、イザナギ命・イザナミ命が最初に産んだ子が蛭子で、葦で編んだ船に乗せて海に流したと書かれていた記憶があります。
西宮神社がえびす信仰の神社である事は知っていましたが、その起源が国生み神話にまで遡るという事を今回初めて知りました。

そして、葦の船で流された蛭子が時を経て神様として崇められるという宗教観は、日本古来からの、全てのものに神が宿っているという自然観と同じだと感じました。
生きとし生けるもの、そしてその命の素になっている自然界全てのものに神が宿っているという概念は人の心を優しく豊かにしてくれる様に思います。


END 

2022年02月07日 作成

Column


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