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電子足跡:旧山陽道(西国街道)歩き旅
 三宮から塩屋へ 一ノ谷古戦場を歩く道


プロローグ

このページは旧山陽道(西国街道)を三ノ宮から生田神社に参拝し、神戸市街を通り、兵庫宿に寄り、源平合戦一ノ谷古戦場を歩き淡路島が見える塩屋まで歩いたページです。

今回の歩き旅の目的のひとつは源平合戦の古戦場を訪ねる事でした。
この道は、源平合戦の古戦場、生田の森、一ノ谷を通ります。とりわけ一ノ谷古戦場は子供の頃に聞いた唱歌 ”青葉の笛” の冒頭に 『一の谷の 軍(いくさ)破れ・・・』 と歌われている事から一度は訪れたいと思っていました。

旧山陽道を歩いた後、四国を車で旅行しました。そのとき、屋島古戦場に行き那須与一が扇の的を射貫いた地を訪れました。源平合戦 ”屋島の戦い” についても簡単に記載しています。

都道
府県
区間  通る宿場等 歩いた日 GPS
移動距離
備考
兵庫 三宮駅-塩屋駅 生田神社,神戸市街,兵庫宿,一ノ谷古戦場 2021/10/17 15.5km



↑GoogleMapと地理院地図にGPSログと写真がマッピングされた地図が開きます GPSログをGoogleEarthでツアーする方法
カシミール3D  国土地理院
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)

源平合戦 一ノ谷の戦について
 

この地を歩くまで一ノ谷の戦は源義経軍の ”鵯越の逆落とし” があまりにも有名なので、一ノ谷周辺の戦のみだった様な印象を持っていました。
今回、歩く為にルートや史跡は勿論調べましたが、一ノ谷の戦についても調べてみました。 平家物語や吾妻鏡の記述をベースにインターネットの情報も加えて一ノ谷の戦の全体像を記載します。

ご存じの様に、事の発端は平家の横暴な統治政策に業を煮やした ”以仁王”(後白河法皇の第3皇子 1151~1180年 ”鎌倉殿の13人”のキャストは木村昴)の平氏打倒の令旨により兵を挙げた木曽義仲(=源義仲=朝日将軍 キャストは青木嵩高)は倶利伽羅峠の戦で平維盛が率いる大軍に勝利して京に入ると、平家は幼い安徳天皇(母は平清盛の娘徳子=建礼門院)と三種の神器を擁して西へと都落ちしました。
都落ちした平家は一度は九州まで落延びたものの、徐々に勢力を回復して東進して神戸の福原を拠点に現在の三ノ宮付近の旧生田川を天然の掘りとし、六甲山を背後の盾として一ノ谷周辺に砦を築きます。

一方、木曽義仲は京の治安回復の遅れ、大軍が京に駐留する事による食料事情の悪化、木曽義仲軍による略奪、皇位継承への介入などにより後白河法皇との関係が不和になり、後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉し征東大将軍を任官するも、源頼朝(キャスト 大泉洋)が送った源範頼(キャスト 迫田孝也)・源義経(キャスト 菅田将暉)の軍勢により、元暦元年正月20日(1184年3月4日)粟津の戦で討たれ最期を迎えました。
追討された木曽義仲の墓は琵琶湖南端、滋賀県大津市馬場の 義仲寺 に松尾芭蕉の墓と共にあります。

源氏進軍路
源平合戦 一ノ谷の戦進軍路
注:本地図は 平家物語(角川ソフィア文庫)に掲載されていた挿絵を元に、カシミール3Dで国土地理院地形図を描画した画像を加工したものです。

三草総揃え
元歴元年正月29日(1184年3月13日)
入京後、源範頼・源義経は平家追討のため出陣し西に向かいます。ここに源平合戦の火蓋が切られました。 ”火蓋が切られた” と言っても、この時代がまだ鉄砲が無かったので ”火蓋を切る” という言葉は無かったですけれど。

源氏軍は京から二手に分かれ、源義経軍2万余騎は中国山地の中を進軍し、三草山(現在の兵庫県加東市)の東麓に布陣しました。
一方の源範頼軍5万余騎は、旧山陽道を昆陽野と進軍し、生田神社手前まで進軍してきました。

一ノ谷周辺に集結していた平家は、義経軍を迎え撃つために7千余騎の軍勢を三草山の西麓に進軍させ、三草山周辺に平家・源氏が3里の距離に対峙して布陣していました。

三草合戦(みくさかっせん)
元歴元年2月5日(1184年3月18日)
三草山の西麓に布陣していた平家軍は源氏軍の攻撃は明日と判断し、寝入っていました。その隙を逃さず三草山の東麓に布陣していた義経軍は夜襲をかけ、平家軍は大混乱に陥り、司令官の平資盛らは屋島に敗走。

老馬
元歴元年2月7日(1184年3月20日)
三草合戦に勝利した義経軍は自軍を2隊に分け、土肥実平(キャスト 阿南健司)の部隊を一ノ谷の西方に回し、義経自らは70余騎(平家物語では3千騎)を引き連れて平家の背後を突くために、一ノ谷の後ろ、鵯越を落とそうと進軍しました。
この路は、道筋も定かでなく、悪路で知られた道でした。
老いた馬は道を知っているという言い伝えにより、白葦毛の老馬を先頭に深山に踏み入って行きました。

注:
『老馬』は平家物語の章段のひとつです。調べたら中国の思想書である韓非子に  『乃放老馬而随之遂得道』(老いた馬を放って、ついて行ったら路を見つける事ができた) との故事があるそうです。道なき道を進軍したのは史実と思いますが老馬を先頭にして進軍したというのは、その故事を引用した創作ではないかと感じます。

鵯越の場所は?
ところで、 ”鵯越” という地名なのですが、”鵯越の逆落とし”のイメージは一ノ谷付近の斜面を駆け降りて海岸付近に陣取っていた平家軍を蹴散らした様な印象があるので、調べる前は一ノ谷の背後にある標高250m程の鉄拐山や鉢伏山の周辺の地名かと思っていました。
調べると、現在 ”鵯越” とついた地名は、神戸の中心地の北側の山沿いに ”神戸市兵庫区鵯越町” があります。付近には神戸市立鵯越墓園があり”鵯越の碑”も建っています。一ノ谷からは北東に7㎞程離れています。
鵯越の逆落としの場所は所説あり特定されていないとの事です。いずれにしても東の生田神社付近に源範頼軍、一ノ谷の西の塩屋付近に土肥実平軍、そして北側に源義経軍が布陣して3方から攻撃する布陣だったのだと思われます。

一ノ谷の戦 源氏軍布陣
一ノ谷の戦 源氏軍布陣
カシミール3D  国土地理院
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)


坂落とし

元歴元年2月7日(1184年3月20日)
源範頼軍の熊谷次郎直実・平山武者所季重らは、卯の刻(午前6時前後)一ノ谷の前の道を回り、海側から平家の館に襲い掛かって源平入り乱れる激戦になっていました。
その頃、源義経軍は平家の砦の背後鵯越に上がり平家の城郭を見渡せる場所にいました。そして多くの映画・TV・小説になっている ”鵯越の坂落とし” がまさに始まろうとしていました。
背後を突かれた平家は逃げ場を失い、前に広がる須磨の海に逃げ、明石海峡を渡り屋島に逃げるしかありませんでした。

補足 屋島の戦い

屋島は現在の香川県高松市にあった島です。現在は周辺の海は埋め立てられ地続きになっています。

写真左:古戦場付近から見た屋島
写真右:屋島スカイウェイから見た古戦場付近


木曽義仲が入京して平家を京都から追い出すと、平家は一度は九州まで退きますが、在地の武士達の抵抗にあい九州からも退却せざるを得なくなります。しばらく船で流浪した後、阿波の国の田口成良に受け入れられて、屋島に本拠を置く事になりました。
その間、木曽義仲と源頼朝の抗争が勃発すると、その機に乗じて平家は現在の神戸福原まで進出し勢力を回復していました。そこに,源範頼、義経軍が攻め入り、上記の一ノ谷の戦で平家が破れ、屋島に撤退する事になりました。
水軍を持たない源氏軍は一ノ谷の戦いのあと直ぐには平家軍を追撃する事ができず、一旦、源範頼は鎌倉に、義経は京に残り、戦いは膠着状態になっていました。

しかし平家は一ノ谷の戦の数か月後、山陽道に攻め入る様になり、伊勢・伊賀に潜んでいた平家軍が反乱を起こして攻勢に立ちます。
この事態に源頼朝は源範頼を山陽道の平定と平家の逃亡地を奪う為に九州の平定、そして水軍の確保を命じ、源義経は伊勢・伊賀への派兵を命じます。
源範頼軍は戦には勝利したものの、思うように水軍が集まらず、兵糧不足、軍の士気低下に悩まされ平家を攻めあぐねていました。

この事態に、源義経は屋島に攻め入ることになります。
1185年2月17日、義経軍は東風が吹き荒れ、船頭・水夫が水難を恐れ出航を拒むなか摂津国(大阪)からわずか150騎で出陣し、淡路島の南側の海域を進み通常であれば数日かかる航路を翌日には阿波国(徳島県)の吉野川河口付近に到達します。
そこから、海岸沿いを北上し屋島に進軍しました。
平家は源氏が攻めてくるなら、瀬戸内海側と思っているので、ここでも背後から奇襲をかけるという戦術でした。

那須与一 扇の的
多くの方がご存じとは思いますが、屋島の戦で有名なのが 那須与一が小舟に掲げられた扇の的を射貫いた逸話ではないかと思います。

以下に平家物語の原文を引用します。血生臭い戦の場での逸話ではありますが、現代語訳を読むより、はるかに古代のロマンを感じ、一編の映像作品を見ている様な美しさを感じます。


平家物語 那須与一
矢頃少し遠かりければ、海へ一段(注:約11m)ばかりうちいれたれども、なほ扇の間、七段ばかりはあるらむとこそ見えたりけれ。
(中略)
与一、目を塞いで、
「南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光権現、宇都宮、那須の温泉大明神、願はくはあの扇の真中射させて給ばせ給え。これを射損ずるものならば、弓切り折り、自害して、人に再び面を向かふべからず。今一度、本国へ向かへんと思し召さば、この矢外させ給うな」
と、心の内に祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、扇も射よげにぞなつたりける。
 与一、鏑を取つてつがひ、よつ引いてひやうど放つ。小兵といふぢやう、十二束三伏(注:拳12個と指3本の幅を加えた長さ)、弓は強し。浦響く程長鳴りして、過たず扇の要際一寸ばかりおいて、ひいふつとぞ射切つたる。鏑は海へ入りければ、扇は空へぞ上がりける。しばしは虚空にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさつとぞ散ったりける。夕日の輝いたるに、みな紅の扇の日出したるが、白浪の上に漂い、浮き沈みぬ揺られければ、沖には平家船端を叩いて感じたり。源氏箙を叩いてどよめきけり。


私が訪れたのは屋島の戦いがあった頃と同じような季節、同じような時刻でした。
現在、海は埋めたてられ当時の面影はありませんが、それでも伝承の ”いのり岩” や海に馬を乗り入れ足場を固定した ”駒立岩” が残っていました。




写真左:いのり岩
写真中:駒立岩
写真右:扇の的


参考資料:
現代語訳 吾妻鏡2 平氏滅亡 吉川弘文館
平家物語 角川ソフィア文庫
平家物語(原文・現代語訳) - 学ぶ・教える.COM (manabu-oshieru.com)
Wikipedia  屋島の戦い
Wikipedia  那須与一の扇の的 ~屋島古戦場~



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三宮

昨日のゴール生田川に架かる雲井橋からスタートです。
現在の生田川は河川改修で本来の川筋の東側に付け替えられています。かつては現在の三ノ宮駅付近を流れていました。
現在フラワーロードと名付けられた神戸市役所前の道路が旧生田川の川筋です。かつての生田川は川幅80~90m位あったと言われています。フラワーロードの道幅からかつての川幅を想像する事ができます。源平合戦の頃はこの付近から一ノ谷付近までは ”生田の森” と言われる広大な森だったとの事です。
旧生田川の川幅を知ると、平家がこの河を天然の堀として砦を築いた理由が良くわかります。

生田神社
三ノ宮駅から直ぐの所に鎮座しています。
祭神は稚くみずみずしい日の女神様で、物を生み育て万物の成長をご加護する神様である、稚日女尊(わかひるめのみこと)をお祀りしています。


生田の森は開発が進み、今は生田神社の北側に僅かばかり残るだけです。


箙(えびら)の梅
源範頼軍が平家が陣取る生田の森に攻め入ったとき梶原源太景季(一説にはその父の景時とも キャスト中村獅童)が境内に咲き誇る梅の花を一輪 箙にさして戦ったという故事がある梅です。

神戸

旧山陽道は神戸市街のど真ん中を通っていました。と言うより、幕末・明治にかけて旧山陽道沿いに商業施設が建てられて現在の様に華やかな都市になった訳ですが、江戸期は湊町と宿場町として兵庫の方が栄えていました。

元町



兵庫県里程元標
元町のアーケード街が終わった所に建っています。街道を歩くと時々里程原標を見る事はありますが、これは随分立派な元標です。

JR神戸駅
歴史を感じる駅舎です。1930年築との事です。ただ意外とこじんまりとしていたので少々拍子抜けしました。

兵庫宿

神戸駅を過ぎて兵庫宿に向かいます。と言っても家並みは続いているので神戸を過ぎた感じはしません。

湊口惣門跡
兵庫宿の東の出入口にあたる惣門です。惣門は宿場の一番外側に建てられた大きな門で、この門を通ると兵庫宿という事です。現在の湊八幡神社付近にありました。

札場の辻
高札場(幕府の通達を掲示する場所)があった場所で、かつては兵庫宿の中心地でした。
少し埋まっていますが足元に道標があります。 ”右和田” ”左??” と書いてある様に見えました。”右和田”は和田岬の事ではないかと思いますが確証はありません。


都市の中はルートを特定するのがなかなか難しいです。今回は 太陽コレクション 京都・大阪・山陽道を参考にルートを作成しました。ルートに沿って歩いていたのですが、札場の辻跡にあった地図をみたら、札場の辻をV字に曲がって兵庫駅に行く道が描かれていました。そこで急遽ルートを変更して左の地図のピンク色の様に進みました。

注:右の地図をクリックすると大きな地図が開きます。

説明版によると、古代の山陽道は神戸では東北から西南に直線的に道が作られていたのですが、鎌倉時代に兵庫津が発展し始めると、V字形に曲がって兵庫津を通る様になったとのことです。

西惣門跡
山陽本線の線路の手前柳原蛭子神社の所に西側の惣門がありました。
湊口惣門から歩いて1.1㎞程の距離です。
鎌倉時代になって湊として発展した訳ですが、現在の神戸・兵庫の大都市のイメージからすると、意外とこじんまりした湊町・宿場町だった印象です。

長田区

1995年1月17日の阪神淡路大震災とき、長田区という地名を何度聞いた事でしょう。
TVの映像で、いたる所で火の手が上がる都市の姿を見たのは初めてでした。
どれだけの人達が亡くなり、どれだけの人達が苦しんでいるのだろうと思いました。

それから16年経って2011年3月11日 東日本大震災のとき、私は宮城県で単身赴任で仕事をしていました。
突然、けたたましいアラート音が会社中に鳴り響き、何だ?と思っているうちに地鳴りが聞こえ、激しく大きな揺れが襲ってきました。女子社員の悲鳴、設備が倒壊する音、建屋が軋む音。そして揺れがおさまった後は、真っ暗な建物の中を静寂が包んでいました。その後の事は報道でご存じかと思います。
電気・水道はそのとき直ぐに止まり、携帯電話は基地局がバッテリーでバックアップされていたのか2日間くらいは通信出来ましたが、規制がかかっているのか電話は通じませんでした。メールで自分の安否を家族に連絡するのが精一杯でした。
惨状を映像として知ったのは1週間ほど経って電気が復旧した後の事でした。

そして今日TVの映像で見たその地を歩きました。道路沿いからは震災の痕跡は見えませんでしたが、広い道路がその後の復興のなかで拡幅され災害に強い都市作りをしたのかなと想像しました。

須磨区

源氏物語第12帖の名である事や、須磨の松原 などの影響だと思いますが ”須磨” という地名にはどこか美しく優雅な雰囲気を感じます。
須磨区の通りは電線が埋設してあり、街路灯がガス灯の様な形で外国の様な雰囲気でした。ここまで来ると一ノ谷はもうすぐで、道の向こうに一ノ谷がある鉄拐山(てっかいさん)や鉢伏山が見えてきます。


途中に元宮長田神社の小さな社があり、隣に ”管公手上の松” がありました。
菅原道真が左遷で大宰府に向かう途中嵐に遭い、ここに上陸し嵐を避けていたとき、前田氏が屋敷の井戸水を差し上げたところ道真は大変喜び、それ以後 ”管の井”と呼ばれ、神社の隣には手植えの松がありました。
そして、家並みの間からは須磨の浦の海が見えてきました。


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一ノ谷古戦場

一ノ谷古戦場は背後に標高250m程の鉄拐山や鉢伏山がそびえ、麓に僅かな平地が広がり、平地の先は海食崖になり、海食崖の下に狭い砂浜が広がって旧山陽道が通っていました。その先は須磨浦の海です。
こんな狭い土地で何万もの兵士が入り乱れて戦ったのかとは俄かには信じられない様な土地です。

背後の鉄拐山


源平合戦 戦の濱



須磨浦の海


一ノ谷断面図
一ノ谷河口付近から鉄拐山山麓方向の断面図(高さ方向は拡大しています)


一ノ谷の西側 塩屋方面から見た鉄拐山・鉢伏山


一ノ谷
ここがかつての源平合戦の軍事境界線 一ノ谷です。
この小さな谷を挟んで東側に平氏の赤旗がなびき、西側に源氏の白旗がひしめき合っていたと想像する事は難しいです。
当時の一ノ谷の状態を現在の地形から類推すると幅50~100m 深さ10~30m位の谷だったと思われます。


鉄拐山麓の住宅地に登る坂道
もし義経軍の鵯越の逆落としの地がこの付近ならば、当時の馬は現在のサラブレッドの様な大きな馬ではなく、ポニーを少し大きくした農耕馬の様な体型の馬だったとしても、道もないこの坂を馬に乗って駆け降りるのは困難な様に思います。


一ノ谷周辺に広がる松林  須磨浦公園として整備されています。


ここが 元歴元年2月7日((1184年3月20日) 一ノ谷の合戦があった地です。

敦盛塚
一ノ谷河口から1㎞弱西に進んだ須磨浦公園駅付近に在ります。
平家は一ノ谷の合戦の後、1年後の元歴2年3月24日(1185年4月25日)に壇ノ浦で滅亡しているので、平家により建てられた五輪塔であるはずはありません。説明版によると、所説あるなかで建てられたのは室町時代末期~桃山時代で平敦盛を供養する為に建てられたとの伝承があり ”敦盛塚” と言われる様になったとの事です。

平家物語 平敦盛最期の章段は良く知られていますが、平敦盛は当年17歳で、笛の名手として知られていました。
敦盛は逃げ遅れ、助け舟に乗ろうと、漕ぎ出た船に向かうところを、熊谷次郎直実に呼び止められ組み合う事となりました。
いざ首をとろうと甲を押し上げると薄化粧をした紅顔の美少年で、熊谷次郎直実の息子 小次郎と変わらぬ歳。息子と同じ年齢の若武者を助けたいと思うも、源氏軍が押し寄せて来るを見て、軍が来ればいずれ命がなくなるのであれば、自分で首を掻っ切って、死後の供養をすると伝え、涙ながらに首をとる事となりました。
敦盛の鎧直垂をとって、首を包もうとしたとき、腰にさした錦の袋に笛が入っているのを見つけ、今朝がた城内から管弦の音が聞こえたのは、この人々が奏でていたのかと思い、戦地に笛を持ち込む優雅な心に涙を禁じ得なかったと書かれています。
熊谷次郎直実は、武家の家に生れなければ、息子と同世代の若武者の首を掻く事もなかっただろうと、さめざめと涙にくれたと描かれています。後に熊谷次郎直実は人の世の無常を感じて出家しています。

皆さんの中には唱歌 『青葉の笛』 を一度は聞いた事がある方も多いと思います。
この場面を知り、人の親となった現在の自分の心境と重ね合わせて聞き直すと涙を誘います。

  一の谷の 軍(いくさ)破れ
  討たれし平家の 公達(きんだち)あわれ
  暁(あかつき)寒き 須磨の嵐に
  聞こえしはこれか 青葉の笛

摂津・播磨国境

敦盛塚付近は摂津国と播磨国の国境でした。
『五街道細見』の記述では、国境には境川という 川幅 卅間(30間)の川が流れていました。現在は暗渠になっている様で川は確認出来ませんでした。


ここから播磨国を歩く事になります。

エピローグ

今日は、一ノ谷古戦場を通り、鉢伏山の西端の塩屋まで歩きました。
この地を訪れたかったのは、子供の頃 マイナー調の唱歌『青葉の笛』を聞いた記憶が心の底に残っていたからだと思います。
滅びゆく者たちの哀愁や美学は心の中に残るものだと思います。


END 

2022年04月13日 ”屋島の戦い” 追記
2022年02月14日 作成

Column


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